東北地域の安定化
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「東北地域の安定化」の解説
「ナヤン・カダアンの乱」を経て直接的に最も大きな影響を受けたのが元々東道諸王の勢力圏であった黒竜江流域の諸地域であった。ナヤンが処刑されてからほどない1287年(至元24年)10月、この地には改めて遼陽等処行中書省が設置されたが、この行省は最も位の高い首席平章を叛乱鎮圧軍の指揮官でもあるセチェゲンが務め、また同じく叛乱鎮圧軍に属するチェリク・テムル、タチュ、洪茶丘らが属するなど、「ナヤン・カダアンの乱」鎮圧と密接な関係を有していた。セチェゲン、チェリク・テムルを中心とする軍事力、洪茶丘のような現地の有力者の後ろ盾が備わった遼陽行省は強大な権限と軍事力を以て東北地域の安定化に尽力した。特にセチェゲンとチェリク・テムルはクビライの次の皇帝テムルの治世の末期まで遼陽行省のトップに居座り続け、約20年に渡って同一人物によって差配されるという特殊な状態にあった。このような遼陽行省の強大な権限はあくまで東北地域の安定化のためのものであり、東道諸王と大元ウルスとの仲が安定し、また大元ウルス内における高麗国の地位が高まると前述のセチェゲン、チェリク・テムルは解任された。 一方、ナヤンの処刑後にクビライによって新たに当主に任ぜられた東道諸王は概してクビライとその後継者テムルに対して好意的で、特にカサル家のバブシャとカチウン家のエジルはカイシャンの指揮下に入ってカイドゥとの戦いで尽力し、クビライ家との友好関係は従来通りに復活した。オッチギン家については、ナヤンに代わって当主となったナイマダイの後、ナヤンの息子トクトアが当主となったが、父同様に驕慢で大元ウルス朝廷を侮る振る舞いが屡々みられたという。しかし、このトクトアは「天暦の内乱」においてカサル家の斉王オルク・テムルに殺されており、建国以来の東道諸王内での強い結束も失われてしまったようである。 総じて、強大な権限を持つ遼陽行省の設置と東道諸王の勢力分散と当主交替によって黒竜江流域の諸地域は叛乱勃発以前の安定した状態に戻ったといえる。
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