東北地域の安定化とは? わかりやすく解説

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東北地域の安定化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)

ナヤン・カダアンの乱」の記事における「東北地域の安定化」の解説

ナヤン・カダアンの乱」を経て直接的に最も大きな影響受けたのが元々東道諸王勢力圏であった黒竜江流域諸地域であったナヤン処刑されてからほどない1287年至元24年10月、この地には改め遼陽等処行中書省設置されたが、この行省は最も位の高い首席平章を叛乱鎮圧軍の指揮官でもあるセチェゲンが務め、また同じく叛乱鎮圧軍に属すチェリク・テムルタチュ洪茶丘らが属するなど、「ナヤン・カダアンの乱鎮圧密接な関係を有していた。セチェゲン、チェリク・テムル中心とする軍事力洪茶丘のような現地有力者後ろ盾備わった遼陽行省強大な権限軍事力を以て東北地域の安定化に尽力した。特にセチェゲンとチェリク・テムルクビライ次の皇帝テムル治世末期まで遼陽行省トップ居座り続け、約20年渡って同一人物によって差配されるという特殊な状態にあったこのような遼陽行省強大な権限はあくまで東北地域の安定化のためのものであり、東道諸王大元ウルスとの仲が安定し、また大元ウルス内における高麗国地位が高まると前述のセチェゲン、チェリク・テムル解任された。 一方ナヤン処刑後クビライによって新たに当主に任ぜられた東道諸王概してクビライその後継者テムルに対して好意的で、特にカサル家バブシャカチウン家エジルカイシャン指揮下に入ってカイドゥとの戦いで尽力しクビライ家との友好関係従来通り復活したオッチギン家については、ナヤンに代わって当主となったナイマダイの後、ナヤン息子トクトア当主となったが、父同様に驕慢大元ウルス朝廷侮る振る舞い屡々みられたという。しかし、このトクトア「天暦の内乱」においてカサル家斉王オルク・テムル殺されており、建国以来東道諸王内での強い結束失われてしまったようである。 総じて強大な権限を持つ遼陽行省設置東道諸王勢力分散当主交替によって黒竜江流域諸地域叛乱勃発以前安定した状態に戻ったといえる

※この「東北地域の安定化」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「東北地域の安定化」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。

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