処刑後
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「処刑後」の解説
1945年4月28日夜、CLNAIは懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを考えて、その死を公布することを計画した。ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。1945年4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した。ロレート広場は1944年8月に反政府テロに対する報復として、RSI政府によるパルチザンの公開処刑が行われた場所であることが選定理由だった。 CLNAIを支持する群集によって地面に投げ出されていた複数の遺体は銃撃され、物を投げつけられ、足蹴にされた。よく引用されるムッソリーニらの遺体写真の損壊は死亡時ではなくこの時に起きたことである。続いてCLNAIは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある。 パルチザンに捕えられていたあるファシスト党員はかつてムッソリーニを神の如き存在と賞賛したことを論われ、逆さ吊りになったムッソリーニの遺体を指し示されながら死刑を宣告された。しかし彼は射殺される直前に遺体へ敬礼し、パルチザンは激高し彼の遺体も広場に吊るした。 偶然広場の近くに居たアメリカ人滞在者はロレート広場のパルチザンと群集を「邪悪で堕落しており、自己を抑制できていない」と嫌悪感を持って証言している。ムッソリーニへの略式処刑や、何の罪もない民間人であるペタッチの殺害は戦争犯罪にあたるとする批判が当初からあり、臨時政府の首班となったイヴァノエ・ボノーミ首相は自らの正当な新政権が蛮行に加担したことを全面的に否定している。 4月29日午後2時頃、連合軍部隊が事態を聞きつけてロレート広場に現れ、CLNAIを追い払って遺体を回収した。遺体収容所ではアメリカ軍の従軍カメラマンがムッソリーニの損壊した遺体写真を撮影している。その中にはペタッチの遺体とわざわざ腕を組ませた悪趣味な物も含まれていた。 1945年4月30日、ミラノ法医学研究所にムッソリーニの遺体は移動され司法解剖が行われ、死因は心臓に達した銃弾とされた。しかし死体から摘出された弾丸の数や口径は資料によって異なっている。他にヒトラーと同盟を結ぶなどの政権後半の行動について「梅毒による精神失調説」が囁かれていたことから、アメリカ軍が脳の一部を切り取ってアメリカ本国へ持ち帰って検査している。しかし検査結果は梅毒ではなく、遺族の抗議で脳の一部は返還されて現在は他の部位と共に埋葬されている。
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処刑後
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「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の記事における「処刑後」の解説
フロム上級大将は中庭にいる軍人たちに「総統の尊い命を守った神の摂理に感謝する」と演説して「ジーク・ハイル」を三唱させた後に執務室へ戻っていった。執務室に戻ると直ちに「無責任な将軍たちにより発動された反乱は鎮圧された。首謀者は射殺された。フォン・ヴィッツレーベン、ヘプナー、ベック、オルブリヒトの名で出されている命令には従ってはならない。私は銃を突きつけられて一時監禁されたが、再び指揮を執る事になった」と指揮下(実際にはもはやそうではなかったが)の国内予備軍部隊に電報を送らせた。その後、フロムはヨーゼフ・ゲッベルスの下へ赴き、ヒトラーと話ができるよう取り計らってほしいと求めた。しかしゲッベルスはフロムに「君は急いで地下から、君の証人を掘りだしてきたまえ!」と言い放ち、彼を逮捕させた。フロムはこの後ローラント・フライスラーの人民裁判所へ送られ、1945年3月に銃殺刑に処された。 7月21日明け方に真の国内予備軍司令官である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがベルリンに到着した。ベントラー街は武装親衛隊部隊により占拠された。ベルリンにいる容疑者が次々と逮捕され、ヒムラーの捜査本部がおかれた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの邸宅へ連行された。またヒムラーの命により、フォン・シュタウフェンベルクらの遺体は掘り出され、勲章や階級章を剥奪された上で焼却され、灰は野原にばら撒かれた。 国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーが証拠集めの責任者となった。フォン・ヴィッツレーベン元帥、フロム上級大将、ヘプナー上級大将、フェルギーベル大将、フォン・ハーゼ中将、シュティーフ少将、ゲルデラー、ポーピッツ、フォン・ハッセル、フォン・モルトケ伯爵はフライスラーの人民法廷にかけられて絞首刑に処された(フロムのみ銃殺刑)。フォン・トレスコウ少将は自決している。総計7000人が逮捕され、うち約200人が処刑されたといわれる。
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処刑後
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「ユライ・ヤーノシーク」の記事における「処刑後」の解説
ヤーノシークとともに逮捕されたウホルチークも拷問を受け、ライェツカー・コトリナ地方チチュマニ村(現、ジリナ県ジリナ郡チチュマニ村)にあったヤーノシークの隠れ家や、出身地のテルホヴァー村に隠していた兵士300人分の服や武器、資金のありかを供述した。このころ解放戦争を率いたラーコーツィ・フェレンツ2世はポーランドに亡命しており、かつてヤーノシークが所属していた反乱軍の大佐、ヴィリアム・ウィンクレルとヤーノシークが接触していたことから、ヤーノシークが反ハプスブルク家の武装蜂起を行う準備をしていた可能性が指摘されている。結局、ヤーノシーク処刑の1か月後にウホルチークも処刑された。 刑の執行から70年余りのちの1785年には「優れた規律で皆に等しい伝道者であった往年の盗賊首領ヤーノシーク」(Znamenitá kázeň gednoho Kazatele za dnu hlavnjho zbognjka Jánošjka.)として、ヤーノシークを伝説化して紹介した文献が残っている。以来、民族文化運動の隆盛にともない、19世紀から20世紀にかけてヤーノシークを描いた文学、絵画、オペラ、バレエ作品などが数多く発表されているほか、20世紀以降テレビドラマや映画作品としても繰り返し制作されている。2010年には地元ジリナ県の鉄道企業体スロバキア(ZSSK)ジリナ地域管理区に新製配置された671系交直流電車の形式愛称にも選ばれた。
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処刑後
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「ハリド・イスランブリ」の記事における「処刑後」の解説
イスランブリは、その最期によってイスラム過激派から『現代イスラム初のシャヒード(殉教者)』と評価されるようになった。兄妹が宗教グループとの関係により逮捕されており、このことが暗殺への参加の大きなきっかけとなったと分析されている。1982年、イランはイスランブリを記念し、彼の姿を描いた切手を発行した。2004年7月31日、アルカイダのアル・イスランブリ旅団は、当時のパキスタン首相候補、ショーカット・アジーズの暗殺未遂事件の犯行声明を出した。また、2004年8月24日、同旅団を名乗るチェチェン人のグループが、ロシアの旅客機の爆破事件に対して犯行声明を出した。
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処刑後
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「クィントゥス・ユニウス・ブラエスス」の記事における「処刑後」の解説
ブラエススの2人の息子は、セイヤヌスの勢力の強かった頃ティベリウスより聖職が約束されていたが、粛清以降その就任を引き伸ばされていた。2人は粛清の対象とはされていなかったものの、西暦36年に約束されていた聖職に他の人が任命されると、それをティベリウスからの死の命令と受け取りそろって自殺した。
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