処刑計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:47 UTC 版)
ウラル地区ソビエトは6月29日の会合でロマノフ家を処刑すべきだと議決した。フィリップ・ゴロシェキンはツァーリの処刑を主張する伝言を携えて7月3日にモスクワに到着した。中央執行委員会の委員23人中7人だけが出席し、そのうちの3人がレーニン、スヴェルドロフ、フェリックス・ジェルジンスキーであった。ウラル地区ソビエトの幹部会(英語版)は一家の処刑に向けた実際的な詳細を準備し最終認可に向けてモスクワと連絡を取りながら軍事的な状況が許せば実行する正確な日を決定すると議決した。 ツァーリの妻と子供の殺害も議論されたがいかなる政治的な反動を引き起こさないためにも秘密を保たなければならず、ドイツのウィルヘルム・フォン・ミルバッハ(英語版)大使は、一家の健康を憂慮してボリシェヴィキに繰り返し問い合わせを行った。もう1人の外交官イギリスのトーマス・プレストン駐エカテリンブルク領事はイパチェフ館の近くに住み、ピエール・ジリアールやシドニー・ギブス、ヴァシーリー・ドルゴルーコフ公爵(英語版)から(後に自身もユロフスキーの助手のグリゴリー・ニクーリンに殺される前に監獄から密かに持ち出した後者のメモ)ロマノフ家の助命の圧力を受けていた。しかし一家との面会を認めるようにというプレストンの要請は変わることなく拒否された。トロツキーが後に語ったように、一家の死が不可欠であったため「ツァーリ一家は機能的な遺伝とする王統の主要な方向そのものを形成するという理論の犠牲者であった」。一家の死に関することは一切レーニンと直接連絡を取る必要はないとの指令と共にゴロシェキンはモスクワとのロマノフ家に関する議論の概要を携えて7月12日にエカテリンブルクに報告した。 7月14日、ユロフスキーは埋め立て地と同時に可能な限り多くの証拠を破壊する方法の最終案を作成中であった。処分部隊を担当し辺鄙な田園地方を知っていると主張し、ユロフスキーが信頼を置くピョートル・エルマコフと頻繁に協議していた。ユロフスキーは一家と召し使いを逃げられない極狭い空間に集めたがっていた。この目的で選ばれた地下室は、射撃音や悲鳴さえも押し殺せるように釘付けされた閂で締めた窓があった。就寝中の夜の射撃や殺傷あるいは森で殺害し体に重りとして付けた金属の塊と共にイセットの池に放り込むのは、除外された。ユロフスキーの案は、宝石類のために女性を強姦したり身体を探ることを禁じなければならないことも考慮したが、同時に11人の囚人全員の効率的な処刑を行うというものであった。以前宝石類を押収した際には更に多くの物が衣類に隠されているとにらみ、残りを得る目的で全身を裸にした(脱がすことで持ち主を特定できないようにする目的であった)。 7月16日、ユロフスキーはウラル地区ソビエトから赤軍派遣団が全方面で退却していて処刑はもはや引き延ばせないと知らされた。最終的な認可を求める暗号電報が午後6時頃にゴロシェキンとゲオルギー・サハロフ(ロシア語版)からモスクワのレーニンに宛てて送られた。ユロフスキーは進めるようにとの中央執行委員会からの命令が午後7時頃にゴロシェキンから送られたと言い張ったが、モスクワからの返答を証明する記録はない。 このことはスヴェルドロフが「審理」(処刑の暗号)の中央執行委員会の認可を確認する電信室に電報を送るように個人的に指揮したと1960年代後半に主張した元クレムリン衛兵アレクセイ・アキーモフの証言と一致するが、書式と受信用紙テープ(英語版)の両方が送られた直後にスヴェルドロフから送り返されるべきだとする強固な指令とも一致する。午後8時、ユーロフスキーは遺体を運ぶために遺体を巻く粗布の巻いたものを運ぶトラックを入手するお抱え運転手を送った。計画は射撃音を隠すために動かすエンジンと共に可能な限り地下の入口に近付けて止めるというものであった。ユロフスキーとパーヴェル・メドヴェージェフは、その夜に使うFN ブローニングM19002丁、アメリカのM19112丁、モーゼルC962丁、スミス&ウェッソン1丁、ナガンM18957丁などの短銃14丁を集めた。ナガンは相当量の煙とガスを発生する黒色火薬で動き、無煙火薬は段階的に用いられているだけであった。 司令官の事務所でユロフスキーは拳銃を支給する前に誰が誰を殺すのかを割り振った。エルマコフがナガン3丁、モーゼル1丁、銃剣で武装する一方、ユロフスキーはモーゼルとコルトを選択し、アレクサンドラとボトキンの2人の囚人を殺すことを割り当てられただけであった。レッツの内少なくとも2人、アンドラス・ヴェルハスとレッツ派遣団を担当するアドルフ・レパという名前のオーストリア・ハンガリー軍(英語版)の捕虜は、女性の射殺を拒否した。ユロフスキーは2人を「革命的義務における重要な場面で」失敗したとしてポポフ館に送った。「過度に血を流すことなく速やかに得られるように心臓を直接撃つ」よう命じた。ユロフスキーにしても殺害者の誰もが11人の遺体をどのように効率的に損壊するかという後方支援には加わらなかった。残りが後に反共主義の支援を結集する人々を最大限利用しようとする君主主義者に見つからないことを確実にするよう圧力を受けていた。
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