ソビエト【(ロシア)Sovet】
ソビエト
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ソビエト(ロシア語: Совет [sɐˈvʲet] ( 音声ファイル)、発音は「サヴィェート」)は、ロシア革命時のロシア帝国において、社会主義者の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会(理事会)。もしくはそれらの(建前ないし名目上の)後継組織であるソビエト連邦の議会。ラテン文字表記や英語では「Soviet」が一般的である。日本語のカタカナ表記としては「ソビエト」や「ソヴィエト」が比較的よく用いられるが、古い資料などでは「ソヴェト」「ソヴェート」という表記もある。
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “ソビエト”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年12月19日閲覧。
- ^ 下斗米伸夫『図説 ソ連の歴史』河出書房新社、2011年, pp10-11.
- ^ 『第二期トロツキー選集 第2巻 1905年』、現代思潮社、1969年、112ページ
- ^ 広瀬健夫「1905年革命におけるソヴェトの形成」、江口朴郎編『ロシア革命の研究』、中央公論社、1968年、171ページ
- ^ 「われわれの任務と労働者代表ソヴェト」、『レーニン全集』第10巻、大月書店、1955年、5ページ
- ^ 『レーニン全集』第24巻、大月書店、1957年、5ページ
- ^ 『レーニン全集』第24巻、大月書店、1957年、22ページ
- ^ 稲子恒夫『ソビエト国家組織の歴史』、日本評論社、1964年、16ページ
ソビエト
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「レッド・オクトーバーを追え」の記事における「ソビエト」の解説
マルコ・アレクサンドロヴィッチ・ラミウス海軍大佐 ソビエト海軍の最新鋭弾道ミサイル潜水艦「レッド・オクトーバー」を指揮する艦長。彼は、個人的な要因によって亡命の決意に拍車を掛けられた。彼の妻、ナターリャは、酒に酔った無能な医者の手で亡くなったが、その医者は政治局員の息子であったため罰を免れた。ナターリャの早すぎる死は、ソビエト統治の冷淡さに対するラミウスの長年に渡る幻想の崩壊と、レッド・オクトーバーが世界情勢を不安定化させる恐れと相まって、ソビエトの支配体制の欠陥に対する彼の忍耐を使い果たしてしまう。 ヴィクトル・アレクセイエビィッチ・ツポレフ中佐 アルファ級攻撃型潜水艦V.K.コノヴァロフの指揮官でありラミウスの元生徒。 ワシーリー・ボロジン中佐 レッド・オクトーバーの副長 エフゲニー・コンスタンチノヴィッチ・ペトロフ医師 レッド・オクトーバーの軍医 イーゴリ・ロギノフ GRU諜報員、艦の亡命または鹵獲を防ぐために料理人としてレッド・オクトーバーに乗艦 アレクセイ・アルバトフ ソビエト駐米大使 イワン・ユリエヴィッチ・プーチン中佐 レッド・オクトーバーに乗艦している政治士官(ザムポリト)。彼がラミウスの亡命を妨害しないようにラミウスによって殺される。 ユーリ・イリイッチ・パドーリン提督 ソビエト海軍政治部長、ラミウスの義理の叔父であり庇護者
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ソビエト
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「第二次世界大戦の影響」の記事における「ソビエト」の解説
ヨーロッパ地域 ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。旧東プロシアのケーニスベルクとその周辺は、カリーニングラードと改称し併合した。 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。 上記の新領土内の非ロシア人の住民を追放して、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。 進駐したソ連軍の軍事的な恫喝により、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーなどに親ソ共産政権を樹立し、衛星国とし影響下においた(東側諸国)。 バルト三国 ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍が一方的に進駐し、その圧力の下で、1940年にソビエト連邦に強制的に併合された。その後はドイツ軍の占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再びソビエト連邦に併合され、追放・処刑された三国の住民の代わりに、多くのロシア人が流入し居住することになる。 エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。再度の独立は冷戦後の1991年まで待たねばならず、ロシア系住民の処遇問題、エストニア、ラトビアはロシアと国境問題を抱えることになった。 詳細は「バルト諸国占領」を参照 極東地域 日本領の南樺太(サハリン南部)を占領し、さらに日本降伏後の1945年8月18日から千島列島へ侵攻し、色丹島・歯舞群島を9月5日までに占領した。1946年2月2日に、これら南樺太および千島列島の領有を宣言する。なお、これに対して日本は公的には認めておらず、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土については日本の領有を主張し、南樺太と得撫島(ウルップ島)以北については帰属未確定としている(詳細は北方領土問題を参照)。 日本が旧満洲に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。これは中華人民共和国の成立後、1955年まで続いた。
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ソビエト
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ノモンハン事件は日本に対する警戒心をより深める結果となった。ノモンハン事件後もシベリア、ザバイカルのソ連軍は順次増強されて、1941年7月1日時点でのソ連軍、極東戦線とザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、騎兵師団1個、戦車師団5個、自動車化狙撃兵師団3個、航空師団13個、狙撃兵旅団3個、空挺旅団1個、装甲車旅団1個、航空旅団2個、防空旅団1個、オートバイ連隊1個、砲兵連隊22個、航空連隊8個、工兵連隊3個、舟橋架設連隊8個で総兵力723,119名、戦車4,638輌、砲14,062門、自動車60,091台、トラクター11,968台、航空機4,777機という莫大な戦力だった。これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかった。独ソ開戦の機運が高まるとジューコフの求めにスターリンがやむなくウラル軍管区、ザバイカル軍管区から戦車8個旅団と、狙撃兵15個師団、騎兵3個師団の転用を許可し、スモレンスク防衛戦やモスクワ防衛戦に参加している。開戦前の1941年4月26日から5月10日の間に極東、シベリア、ザバイカルの各軍管区から抽出された兵力が欧州への移動を完了した。 ジューコフは極東や内陸部から移送された狙撃師団群のほとんどを、反撃攻勢用の“トラの子”の精鋭部隊として温存しており、モスクワ防衛戦に参加した師団は少なく、参加しても第44モンゴル騎兵師団のように騎兵突撃を行って短期間で壊滅した部隊もあった。また、ノモンハンで戦った第36自動車化狙撃師団、第57狙撃師団のようにモスクワに移動せずそのまま1945年までモンゴルに駐留する第17軍に属して極東に留まり、1945年8月の満州侵攻に参加した部隊もあって、モスクワ防衛戦で決定的な働きをしたのは極東からの援軍ではなく、スターリンの投じたモスクワ戦区の戦略予備軍(第1打撃軍、第20軍)だった。 ジューコフはモスクワへの攻撃でドイツ軍は疲弊しているが、陣地を構築して防衛態勢はとらないと判断すると、今までのモスクワ防衛戦で戦闘に熟練した部隊と共に、“トラの子”の40万人の将兵、1,000輌の戦車、1000機の航空機を反撃に投入し、ドイツ軍中央軍集団に大打撃を与えてモスクワへの脅威を取り除くことに成功した。極東から来た部隊の活躍は目覚ましく、ジューコフは後に「モンゴルで戦った部隊が、1941年にモスクワ地区に移動し、ドイツ軍と戦い、いかなる言葉をもってしても称賛しきれぬほど奮戦したことは、決して偶然ではなかったのである」と回想している。一方でモスクワ攻勢に参加した極東部隊は全軍の5%に過ぎず勝敗を左右する要因にはならなかったとも証言している[要出典]。 ジューコフは、「日本軍精鋭部隊に前代未聞の敗北」をもたらせた8月の攻勢作戦が「日本の支配階級を酔いから醒めさせたもの」と確信していたが、極東総軍作戦部長A・K・カザコフチェフ少将が「もし日本がヒトラー側について参戦したならば、われわれとしてはどうにもならなくなる」と述べていたように、ソ連国土深く侵入してきたドイツ軍に呼応し、日本軍が北方シベリアに侵攻してくる懸念をソ連側は払拭することができなかった。そのため、東部戦線で赤軍が反撃に転じてさらに戦闘が激化した後も、極東の部隊は日ソ中立条約が成立しているにも関わらず、弱体化するどころか逆に強化され、総兵力は1,568,000名にも達した。これは赤軍総員の3割弱に当たり、これらの戦力を前線に投入できていたら、ドイツ軍をもっと速やかに打ち負かして戦争の終結を早めることができたという主張もある。 ソ連は独ソ戦に力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った。満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、太平洋戦争で日本の戦況が悪化した1943年秋頃まで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、1944年後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた。関東軍の兵力の多くを南方や日本本土防衛に転用してしまっていた日本軍側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採っていたままだった。一方で、ドイツの敗北が濃厚になると、ソ連は極東に目を向け始め、1943年11月のテヘラン会談でドイツ降伏後のソ連対日参戦を表明。1945年2月のヤルタ会談では、関東軍を過大評価して、満州と中国大陸の日本軍を撃破し日本を屈服させるためにはソ連の対日参戦が是非とも必要と考えていたフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領に対し、スターリンがいわゆる「ヤルタの密約」で極東地域での権益拡大を約束させて対日参戦を了承している。了承する際にスターリンは、ルーズベルトと同席していたW・アヴェレル・ハリマン在ソ連アメリカ特命全権大使に対し「もしこれらの条件(極東での権益拡大)が満たされない場合には、私やモロトフが、ソ連人民に対して、どうしてソ連は大してトラブルのない国日本に対し参戦するのか説明するのが困難になりましょう」と言って脅迫したように、対日参戦を狡猾に政治利用している。最終的には、5月にドイツが降伏した後、8月にさらに戦力を強化していた極東の赤軍が、日ソ中立条約を一方的に破棄して進撃を開始し、弱体化していた関東軍はなす術もなく潰走、満州全土がソ連に占領された。
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ソビエト
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「電気式ガスタービン機関車」の記事における「ソビエト」の解説
かつてG1-01形ガスタービン機関車(ロシア語版)GT101形ガスタービン機関車(ロシア語版)、GP1形ガスタービン機関車(ロシア語版)を試作したが、いずれも実用化には至らなかった。 ソビエトは1954年からガスタービンの鉄道車両の開発を開始した。複数の型が開発され、機関車が配備されて試作機が試験された。1970年代に電気機関車と比較して経済性に劣るのでガスタービン機関車の開発は中断された。
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ソビエト
「ソビエト」の例文・使い方・用例・文例
- ソビエト連邦の終わり
- ソビエト連邦の崩壊
- 彼らがソビエトのノーメンクラトゥーラ体制の最後の受益者たちだった。
- その当時、ソビエトで女性の共産党政治局員はほとんどいなかった。
- アメリカは、イギリスとソビエト連邦と共にヨーロッパのドイツのナチ脅威に対して戦った。
- ソビエト連邦はリトアニアを占拠しようとした。
- 冷戦はソビエトの崩壊と共に終わった。
- 彼は1950年代にソビエト連邦へ逃亡した。
- 私はソビエト連邦のことはまったく知らない。
- 共産主義はソビエト社会主義共和国の政治体制だったが、1993年に崩壊した。
- USSRはソビエト社会主義共和国連邦を表しています。
- ソビエト社会主義共和国連邦.
- 多くの学者や科学者が旧ソビエトから流出している.
- 共和国は、ソビエト連邦に連邦化された
- ソビエト国家の総括的な研究−T.G.ウィナー
- 冷戦の間に、ソビエトは西からの放送を妨げるために定期的にバレッジ妨害を行った
- 連合国軍(オーストリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ、中国、コロンビア、コスタリカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミニカ共和国、エルサルバドル、エチオピア、フランス,ギリシア、ガテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、イラン、イラク、ルクセンブルグ、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウエイ、パナマ、フィリピン、ポーランド、南アフリカ、英国、米国、ソビエト連邦、ユーゴスラビア)対枢軸国軍(アルバニア、ブルガリア、フィンランド、ドイツ、ハンガリー、イタリア、日本、ルーマニア、スロバキア、タイ)の1939年から1945年の戦い
- カストロは、キューバをソビエト化した
- 立証済みの鋭さを持つソビエトのリーダー
- の国を、ソビエトの支配下にする
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