ソビェスワフ家とは? わかりやすく解説

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ソビェスワフ家(1155年-1296年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 08:53 UTC 版)

ポメラニア公の一覧」の記事における「ソビェスワフ家(1155年-1296年)」の解説

前出治世死去支配地域配偶者備考ソビェスワフ1世 1130年ごろ 1155年-1178年 1178年 ポメレレン 不明1150年以前2人の子女を儲けサンボル1世 1150年ごろ 1178年-1205年 1205年2月7日または12月30日 ポメレレン 不明1205年以前2人の子女を儲けムシチュイ1世 1160年ごろ 1205年-1220年 1220年7月1日/2日 ポメレレン ズヴィニスワヴァ・ポルスカー1190年ごろ4男5女を儲けサンボル1世の弟。 シフィエントペウク2世 1190年ごろ 1220年-1266年 1266年1月11日 ポメレレン=ダンツィヒ サロメア・ハーリチャ1220年以前1人の子儲けるエウフロジナ・ポルスカー1220年ごろ2人の子女を儲けるエルメネガルダ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン1230年ごろ2人の子女を儲けムシチュイ1世の子ダンツィヒ支配し1227年以降Dux(公)を称したヴァルティスラフ1世 1195年ごろ 1220年-1233年 1233年1月11日 ポメレレン=ベルガルト=リーブシャウ=シュヴェッツ 未婚 ムシチュイ1世の子。シフィエチェを支配し1227年以降Dux(公)を称した死後領地弟たち分割された。 ラティボル1世 1212年ごろ 1233年-1262年 1272年6月6日 ポメレレン=ベルガルト 未婚 ムシチュイ1世の子1262年ドイツ騎士団加入したため、ポメレレン=ベルガルトはポメレレン=ダンツィヒ併合された。 サンボル2世 1212年ごろ 1233年-1270年 1277年12月30日 ポメレレン=リーブシャウ マティルダ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン6人の子女を儲けムシチュイ1世の子初めはリーブシャウ=ディルシャウ付近に居を構えドイツ東方植民ディルシャウ建設されるとそこに移住したムシチュイ2世 1220年 1266年-1270年 1294年12月29日 ポメレレン=シュヴェッツ ユディス・フォン・ヴェッティン1275年以前2人の子女を儲けるエウフロジナ・オポルスカ1275年結婚1288年離婚子を儲けずスリスワヴァ1288年以降子を儲けシフィエントペウク2世の子1270年ポメレレン公国再統一する。 ヴァルティスラフ2世 1237年 1266年-1270年 1271年5月9日 ポメレレン=ダンツィヒ 未婚 シフィエントペウク2世の子後継者残さず死去しダンツィヒポメレレン公国統合された。 ムシチュイ2世 1220年 1270年-1294年 1294年12月29日 ポメレレン ユディス・フォン・ヴェッティン1275年以前2人の子女を儲けるエウフロジナ・オポルスカ1275年結婚1288年離婚子を儲けずスリスワヴァ1288年以降子を儲け1270年ポメレレン公国再統一する。1294年ポメレレン公国ポーランド王国併合された。

※この「ソビェスワフ家(1155年-1296年)」の解説は、「ポメラニア公の一覧」の解説の一部です。
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