ソビエトでの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:31 UTC 版)
「テラー・ウラム型」の記事における「ソビエトでの開発」の解説
ソビエト初の核融合兵器は、1949年にアンドレイ・サハロフとヴィタリー・ギンツブルクによって開発された。これは当時“スロイカ”(後年には“ロシアの重ねケーキ”)と呼ばれた、テラー・ウラム型ではない構造をしていた。この設計は、核分裂物質と(重水素に三重水素を混入した)水素化リチウム核融合燃料を互いに重ね合わせたものであった(この構造は“サハロフの第1のアイディア”と呼ばれた)。しかし核融合反応は厳密には達成されたが、これには多段階式兵器の持つ規模を拡大する機能は無かった。核融合層は核分裂性の核を包み込んでおり、核分裂のエネルギーを多少増加させる働きをしていた(現在のテラー・ウラム型では、エネルギーを30倍にまで増やすことが可能である)。加えて全ての核融合層は、爆縮機能により核分裂性の核と共に圧縮させる必要があり、爆縮用の通常爆薬も多量に用意しなければならなかった。 最初の“スロイカ”構造の爆発テストは1953年に行われたRDS-6であり、核出力400キロトンを記録した(このうちの15%〜20%が核融合によるものであった)。しかしスロイカ構造を用いて“メガトン級”の核出力を得ることは困難であった。1952年に米国が実施した“アイビー作戦マイク実験”により、数メガトン級の爆弾が作れることが証明されたため、ソビエトはさらなる構造の追求を行った。サハロフが彼の記憶の中で“第2のアイディア”と呼ぶものは、1948年にギンツブルクによって提案された水素化リチウムを爆弾に使う方法で、人工の三重水素と天然の重水素を中性子により起爆させるものであった。1953年の終わりに物理学者“ビクトール・ダビデンコ”は、プライマリーとセカンダリーを爆弾の中に分けて設置するという“多段階式”としての最初の突破口を見つけた。次の進展は、1954年の春にサハロフとヤーコフ・ゼルドビッチにより発見・開発されたもので、核分裂爆弾から放射されるX線をセカンダリー部の圧縮に使うという方法(放射圧縮法)であった。これは“サハロフの第3のアイディア”と呼ばれ、ソビエトでのテラー・ウラム型として知られており、1955年11月にRDS-37として実験が行われ、核出力1.6メガトンを記録した。 ソビエトは“多段階式”の概念として、1961年に巨大で非実用的なツァーリ・ボンバ実験を行った。ツァーリ・ボンバは50メガトンの核出力を記録し、その内の97%が核融合によるものであった。ツァーリ・ボンバは人類史上最大出力の核爆弾であったが、実用には大き過ぎた。しかしながら爆弾は航空機によって実験場であるノヴァヤゼムリャ上空まで運ばれ、空中投下された(詳細はツァーリ・ボンバの記事を参照のこと)。
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