世界の歴史
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世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。
- ^ “ネアンデルタール人と現生人類との交雑は、数十万年前から起きていた:研究結果”. WIRED (2020年12月3日). 2022年1月19日閲覧。
- ^ DNA人類進化学〜4.現代人の起源/遺伝学電子博物館
- ^ a b 崎谷満(2009)『新日本人の起源』勉誠出版
- ^ a b 崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す 新・日本列島史』勉誠出版
- ^ University of Pittsburgh, Pennsylvania: Regional Lifeways and Cultural Remains in the Northern Corridor: Chifeng International Collaborative Archaeological Research Project. Cited references: Drennan 1995; and Earle 1987, 1997.
- 1 世界の歴史とは
- 2 世界の歴史の概要
- 3 世界の歴史の一覧
- 4 一体的な世界史を試みた歴史書
人類史
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1883年(明治16年) - 北安曇郡長の窪田畔夫と大町小学校長の渡辺敏ら9名が初登頂した。 1893年(明治26年) - 陸地測量部館潔彦技官らにより、山頂に一等三角点が設置された。 1894年(明治27年)7月22日午前10時 - ウォルター・ウェストンが蓮華温泉から鉱山道を利用し外国人としての初登頂をした。その著書で、この山名を「オオレンゲ」と記している。1913年の再来日時にも登頂した。 1895年(明治28年) - 富山藩の漢学者小杉復堂が登頂。 1898年(明治31年) - 河野齢蔵、岡田邦松、吉沢秀吉が植物採集を目的に白馬大雪渓から登頂し、シロウマアサツキやタカネバラなどの高山植物を発見した。 1900年(明治33年) - 11歳の松沢貞逸が登頂。 1907年(明治40年) - 松沢貞逸が頂上直下の石室を買い取り、その隣に宗教登山に由来しない山小屋(信仰登拝者のための宿泊施設)としては日本最古の頂上小屋(現在の白馬山荘)を建設して本格的な開業をした。 1910年(明治43年)夏 - 田部重治が蓮華温泉から登頂。 1911年(明治44年) - 冠松次郎が登頂し、祖母谷を下り黒部峡谷に入った。 1917年(大正6年) - 東久邇宮稔彦王らが登頂。その後久邇宮邦彦王や朝香宮鳩彦王の登頂が新聞などで報道され、多くの登山者が訪れるようになった。 1918年(大正7年) - 「白馬岳」を題とする紀行文が尋常小学校6年生の読本に採用され、知名度が全国的規模となる。。 1920年(大正9年)3月 - 慶應義塾大学山岳部の大島亮吉らによりスキーで積雪期初試登をした。 1921年(大正10年)4月 - 笹川速雄らにがスキーで積雪期初登頂をした。蓮華温泉から登り大雪渓を滑降した。 1922年(大正11年) - 高山植物の群生地が国の天然記念物に指定された。 1923年(大正12年)7月 - 深田久弥が白馬大池方面から登頂し、その後も四季を通じて何度か登頂した。 1932年(昭和7年) - 山頂直下の白馬大雪渓からのルートと主稜線合流部に白馬岳頂上宿舎が建設された。夏季には夏山診療所(昭和大学医学部白馬診療所)、山岳警備隊、簡易郵便局が併設されている。 1934年(昭和9年)12月4日 - 山域は中部山岳国立公園の特別保護地区に指定された。 1941年(昭和16年) - 富士山の強力の小見山正らが青銅の展望図指示盤を担ぎあげ、山頂に設置した。 1947年(昭和22年)7月10日 - 観光協会により山小屋四か所を開設、山岳ガイド50名の体制で山開き。 1952年(昭和27年)3月29日 - 長野県側の国有林を中心に富山県・新潟県を含む広大な地域が特別天然記念物の「白馬連山高山植物帯」に指定された。 1960年(昭和35年)8月 - ライチョウの生息地拡大のために白馬岳で捕獲した7羽(オス1羽、メス2羽、ヒナ4羽)が富士山に運ばれた。 1966年(昭和41年) - 白馬山荘と山頂との途中に松沢貞逸記念碑のレリーフが設置され、翌年から毎年7月に「貞逸祭」が開催されている。 1973年(昭和48年)8月21日 - 浩宮徳仁親王が白馬大雪渓から登頂し、翌日に白馬鑓温泉経由で猿倉へ下山した。 1976年(昭和51年)8月14日 - 集中豪雨が発生、長走沢で約100人の登山者が取り残される。後日、全員無事救助。 1983年(昭和58年) - 岩田修二が東京都立大学 (1949-2011)で『白馬岳高山域における砂礫斜面の形成環境』にて理学博士号を受ける。 2001年(平成13年)12月 - 環境省が白馬岳周辺の湿地群を日本の重要湿地500の一つに選定した。 2005年(平成17年)8月11日午前7時31分 - 大規模な土砂崩れによる死亡事故が発生した。 2012年(平成24年)5月5日 - 急変した天候により、北の三国境付近で6人パーティが全員死亡する大量遭難が発生した。
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人類史
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「オリンピック国立公園」の記事における「人類史」の解説
ヨーロッパの入植者の流入以前にオリンピックの住んでいたのはインディアンであり、主として狩猟、漁労を行っていた。 しかし、最近行われた山脈(オリンピック山脈及び他の北西部の山脈)に関する記録の調査及び体系的な考古学的調査は、インディアンがかつて考えられていたよりもはるかに幅広い目的でこの地、とりわけ亜高山の草地を利用していたと指摘している。 すべてではないにしろほとんどの北西部太平洋沿岸地区の先住民文化圏は、民族誌学者、企業家、入植者がこの地にやってくるずっと前に、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気(多数の人が亡くなった)、その他の要因により多かれ少なかれ深刻な悪影響を受けた。このためヨーロッパ人が見聞し、記録したものは、かなり零落したあとの先住民の文化基盤であった。 オリンピック山脈で、現在、数多くの文化遺産が確認されており、重要な遺物が発見されてきている。 入植者が姿を見せ始めた頃、北西部太平洋沿岸地区における採取産業は勃興期にあった。とりわけ木材関連の産業は、1800年代後半と1900年代初期において急速に始まった。 伐採に対する大衆の反発は、皆伐されてしまった山腹を人々が初めて目の当たりにした1920年代に根を下ろし始めた。 この時期は、人々の自然への関心が爆発的に高まった時期であった。すなわち、自動車の利用が進み、人々は、オリンピック半島のような、かつては遠隔地であったところに旅行するようになった。 オリンピック半島における新しい国立公園を作るという提案の公式な記録は、著名な人物、ジョセフ・オニール (Joseph O'Neil) 中尉とジェームズ・ウィッカーシャム (James Wickersham) 判事による1890年代の遠征によって始まる。 彼らはオリンピック半島の自然の探検中に出会い、その後、この地を保護地域にしようと政治的に協力し合う。 1900年代初期のワシントン州議会 (Washington State Legislature) での彼らの努力は失敗するが、1909年、セオドア・ルーズベルト大統領は、主としてオリンピック半島原産のルーズベルト・エルクの群れの山麓の出産場所及び夏期の生息地を保護するために、オリンパス山国定史跡 (Mount Olympus National Monument) を創設した。 フランクリン・ルーズベルト大統領が、1938年にこの地域を国立公園に指定するまで、地域の保全を望む大衆の声は高まり続けた。 国立公園となった後も、公園内で違法な伐採が続けられた。公園内にあるきわめて貴重な森林をめぐり今日まで政治闘争は続いている。 オリンピック半島での伐採は続いているが、公園内では行われていない。 オリンピック国立公園の森林をめぐる戦いの詳しい歴史を著した書物は、カールステン・リーン (Carsten Lien) の「オリンピックの戦場:森林保護の政治力学」 (Olympic Battleground: The Power Politics of Timber Preservation) である。
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人類史
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「アイル・ロイヤル国立公園」の記事における「人類史」の解説
島はかつて漁業の町、自然銅鉱山、リゾート地であった。無数の小島がアイル・ロイヤルを取り囲んでいるため、この地域を通過する船は、かつてはパッセージ島(Passage Island)の灯台、メナジェリー島(Menagerie Island)のロック・ハーバー灯台(Rock Harbor)、ロック・オブ・エイジズ灯台(Rock of Ages)、アイル・ロイヤル灯台によって導かれていた。
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人類史
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現在セコイア国立公園を構成する地域は、当初モナケ (Monache) (西モノ (Western Mono))インディアンが住んでいた。彼らは、季節によってはジャイアント・フォレストと同じ高さに住んでいたという証拠も存在するが、主に公園のフットヒル (Foothill) 地域にあるカウェア川流域に住んでいた。夏期にインディアンは、東部の種族と交易するため、高山の峠を越えて旅して回ったのだろう。今日まで、公園内のいくつかの場所でモナケ族の主食であるドングリを加工するために用いられたすり鉢だけでなく、絵文字をみつけることができる。特にホスピタル・ロック (Hospital Rock) とポットウィシャ (Potwisha) でみつけることができる。 最初のヨーロッパ人入植者がやってきたときには、天然痘がすでにこの地域に広がり、インディアンの人口を大きく減らしていた。入植してきた最初のヨーロッパ人は、ログ草原 (Log Meadow) の隣のジャイアント・フォレストにあるジャイアント・セコイアの倒木をくり抜いた小屋を作ったことで有名なヘイル・サープ (Hale Tharp) であった。サープは、家畜が草原で草を食むことを許したが、同時に森の雄大さに敬意を払い、地域における伐採に反対する戦いを指導した。時々、サープはジョン・ミューア (John Muir) の訪問を受け、ミューアはサープの丸太小屋に泊まった。今日でもなおジャイアント・フォレスト内の元の場所にあるサープの丸太を訪れることができる。 しかし、ジャイアント・セコイアを守ろうというサープの試みは、当初はあまり成功しなかった。1880年代, ユートピア的社会の建設を求めて白人入植者はカウェア・コロニー (Kaweah Colony) を設立した。カウェア・コロニーは、セコイアの木を売買するという経済的成功を追求した。しかし、ジャイアント・セコイアの木は、近縁種であるセコイアとは異なり、簡単に裂けるため木材の収穫には適さないことが後に発見された。悲劇的なことに最終的に伐採が止められるまでに何千本もの木が切り倒された。 国立公園局は、ジャイアント・フォレストを1890年にセコイア国立公園に編入した。その設立の年にジャイアント・フォレストにおけるすべての伐採作業は直ちに中止された。公園は今日の大きさになるまで数十年にわたって何度も拡張されてきた。最近の拡張は1978年に行われた。その年、シエラ・クラブ (Sierra Club) が陣頭指揮を執った草の根運動が、スキー・リゾートとして利用するため公園の南にある高山のかつての採鉱場所を買おうとするウォルト・ディズニー・カンパニーの試みを挫いた。この場所は公園に編入されミネラル・キング (Mineral King) となった。ここは、公園内の開発された場所の中で最も標高が高く、バックパッカーに人気の観光地である。
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人類史
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セント・ヘレンズ山を訪れた最初のヨーロッパ人として記録されているのは、イギリス海軍の航海士であったジョージ・バンクーバーである。バンクーバーは1792年5月19日、イギリス海軍の艦船「ディスカヴァリー(英語版)」の艦長に就任し、1794年までそれで北太平洋沿岸を航行した。1792年、コロンビア川の河口に入ったディスカヴァリーの眼前には、カスケード山脈の山々が広がっていた。バンクーバーは高くそびえる山々に対して英語の名称を次々に付けていった。そして1792年10月20日、バンクーバーは山頂に雪を覆った美しい山に対して、友人であった外交官の初代セント・ヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(英語版)にちなんで、セント・ヘレンズ山と命名した。 バンクーバーの訪問から数年後、セント・ヘレンズ山の周辺地域で火山が噴火した。そしてこの噴火を聞きつけた多くの探険家や商人や宣教師が、セント・ヘレンズ山を訪れ、数多くの記録を残した。後世の地質学者や歴史学者は、1800年に起こった噴火が、以後57年間にわたるゴート・ロックス噴火期の始まりであるとしている。ワシントン州北東部に居住していた先住民族はこの噴火によって噴出した火山灰を「乾いた雪」と驚き、神に祈りをささげた。 1805年から1806年にかけて、ルイス・クラーク探検隊はコロンビア川からセント・ヘレンズ山の姿を確認したが、セント・ヘレンズ山の噴火に関する記録は全く記されていない。しかしながらポートランド近くのサンディ川(英語版)に入る際、流砂や川底の障害物の存在を確認していることから、ルイス・クラーク探検隊が訪れる十数年前にフッド山で噴火があったと推測されている。 セント・ヘレンズ山の噴火に関する信頼性のある最初の報告は、フォート・バンクーバー(英語版)に設立されたハドソン湾会社に務めていたメレディス・ガードナーによって、1835年になされた。ガードナー博士はエディンバラ新哲学学会誌に噴火に関する報告書を送り、1836年1月に発表された。1841年、イェール大学のジェームズ・デーナは、チャールズ・ウィルクス探検隊の航海の途中でコロンビア川の河口から平穏なセント・ヘレンズ山の山頂を確認しており、さらに探検隊の別のメンバーは、セント・ヘレンズ山の基底部に玄武岩質溶岩の塊があったと述べている。 1842年の晩秋から初冬にかけて、いわゆる「大噴火」が地元の入植者や宣教師たちによって確認された。この噴火では巨大な灰色の噴煙が報告され、小規模な噴火が15年にわたって続いた。この間の噴火はすべて水蒸気爆発であったと考えられている。オレゴン州シャンプーイ(英語版)の牧師ジョサイア・パリッシュ(英語版)は、1842年11月22日にセント・ヘレンズ山で噴火があったと証言している。この噴火による降灰は、山頂から約80km離れたオレゴン州ダラスにまで及んだとされる。 1843年10月、後にカリフォルニア州知事となったピーター・バーネット(英語版)は、この噴火に見舞われた先住民族の話を残している。この話によると、この先住民族は鹿狩りの途中で噴火に遭遇して溶岩流によって両脚に熱傷を負い、フォート・バンクーバーで治療を受けたとされている。しかしながら当時の物資補給所の管理人ナポリアン・マクギルベリーはこの話を否定している。1845年にはイギリスの中尉ヘンリー・ウォーレが噴火の様子をスケッチしており、同年にはカナダの画家ポール・ケーンが噴火の様子を水彩画で描いている。どちらの絵も、山体の北西側の斜面から観察したものであると推測されている。 1857年4月17日、ワシントン州ステイラクーム(英語版)の新聞は、「セント・ヘレンズ山、もしくはその南方の山が噴火状態にあると見られる」と報道した。この噴火は、堆積した火山灰の層の薄さから、水蒸気と粉塵を含んだ噴煙が上がっただけの小規模なものであったと推測されている。そしてこれ以後、1980年までセント・ヘレンズ山での火山活動は起こっていない。 それから1世紀以上の後の1980年5月18日8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山は長い眠りから覚め、123年ぶりに大噴火を起こした。その数ヶ月ほど前から火山活動が活発化し大噴火の予兆を呈していたことから、セント・ヘレンズ山近郊には避難命令が発令された。しかしながらセント・ヘレンズ山近郊に居住していた旅館の所有者ハリー・トルーマンは避難を拒否し、世間の注目を集めた。トルーマンはマスメディアからインタビューを受けた際、噴火の危険性は「ひどく誇張されている」と主張した。 そして大噴火により、トルーマンを含む住民など57人が死亡もしくは行方不明となった。トルーマンの遺体は確認されていないが、旅館とともに9mの灰や土石流に埋もれていると推測されている。200軒の建物と47本の橋が消失し、鉄道は24km、高速道路は300kmにわたって破壊された。さらにセント・ヘレンズ山の山頂部分は大きく崩壊し、直径1.5kmにわたる馬蹄型カルデラを形成。山の標高は2,950mから2,550mに減少した。 当時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターは被害調査のため現地視察を行い、月面よりも荒涼としていると述べた。同年5月23日、被害状況を撮影するためにセント・ヘレンズ山を飛行していたヘリコプターが墜落し、同月25日未明に小噴火が発生した。しかし幸運なことにヘリコプターの乗員は生き残り、2日後に無事救助された。 1982年、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとアメリカ合衆国連邦議会はセント・ヘレンズ山とその周囲約445km2をセント・ヘレンズ山国定火山公園(英語版)に指定し、ギフォード・ピンショー国有林の一部とした。
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