マラッカ王国とは? わかりやすく解説

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マラッカ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 19:07 UTC 版)

マラッカ王国(マラッカおうこく、英語: Malacca Sultanateマレー語: كسلطانن ملايو ملاك Kesultanan Melayu Melaka)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家1402年 - 1511年)。漢籍史料では満剌加と表記される。16世紀初頭にマラッカに滞在し、『東方諸国記ポルトガル語版』を著したポルトガル人トメ・ピレス英語版によれば、「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている[4][注釈 1]。マレー半島という交易において重要な位置に立地していたことが国家の形成に多大な影響を与え[5]、香料貿易の中継港としてインド中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった[5]


注釈

  1. ^ ピレスと同じ16世紀のポルトガル人ゴディーニョ・デ・エレディアポルトガル語版は、マラッカの地名はミロバラン英語版の木に由来すると述べた[4]
  2. ^ この婚約の8年後にイスカンダルは没したとピレスは記し、婚約が成立したのは1417年前後と計算できる[14]
  3. ^ ピレスによると、この婚姻の後イスカンダルはイスラムに改宗したとされるが、『東方諸国記』の訳注を担当した生田らは改宗にまつわる婚姻の説話は事実ではないと指摘した。しかし、イスカンダルが最初にイスラムに改宗したマラッカ王という点は肯定している[15]
  4. ^ 『東方諸国記』に訳注を施した生田らはスリ・パラメスワラ・デワ・シャーとムザッファル・シャー英語版が同一人物ではないかと指摘している[21]
  5. ^ マラッカの陥落がパタニに及ぼした影響については、A.リード(2002, p.286, 『拡張と危機』)に詳しい。
  6. ^ シャーバンダルの概略については、右記も参照。 家島彦一「シャーバンダル」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)、生田滋「シャーバンダル」『東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  7. ^ 「永楽元年十月遣中官尹慶使其地、賜以織金文綺・銷金帳幔諸物。(中略)慶至、宣示威徳及招徠之意。」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  8. ^ 「帝嘉之、封為満剌加国王(後略)」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  9. ^ ピレス(1966, p.596)に、明への入貢が行われた年度が表にまとめられている。

出典

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マラッカ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:23 UTC 版)

ムラカ」の記事における「マラッカ王国」の解説

スマトラ島パレンバンにいたシュリーヴィジャヤ王国最後の王子パラメスワラ(英語版)が、1396年頃マラッカ王国を建国した。彼はパレンバン統治していたマジャパヒト王国内乱(パルグルグ戦争インドネシア語版))に乗じて独立企てた失敗テマセックシンガポール)に逃亡。王を殺し王座着いたタイ追われジョホールからマラッカ退避。国を建国する。名前の由来は、木の下休んでいたところ小鹿猟犬を蹴飛ばすところを目撃休んでいた木の名前を取ったと言う説が一般的1405年には明の永楽帝より命を受け、遠くアフリカ大陸まで大遠征行った海軍大将鄭和艦隊も、マラッカ満剌加)に初寄港している。マラッカ王朝朝貢貿易通じ明国との同盟強固し、北の大国シャム、南のサムドラ・パサイ王国からの脅威牽制していた。マラッカ王国は1414年イスラム化し、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄極めた

※この「マラッカ王国」の解説は、「ムラカ」の解説の一部です。
「マラッカ王国」を含む「ムラカ」の記事については、「ムラカ」の概要を参照ください。

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