マラヤ連邦とは? わかりやすく解説

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マラヤ‐れんぽう〔‐レンパウ〕【マラヤ連邦】

読み方:まらやれんぽう

1948年英国保護領マレー半島南部直轄植民地のペナン・マラッカとで結成され連邦国家57年独立63年マレーシア連邦一部となった


マラヤ連邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 22:24 UTC 版)

マラヤ連邦
ڤرسكوتوان تنه ملايو (マレー語)
Federation of Malaya (英語)


1948年 - 1963年
国旗 国章
国歌: God Save the King(英語)
神よ国王を守り給え
(1948–1957)
Negaraku(マレー語)
我が国
(1957–1963)

マラヤ連邦の位置
公用語 マレー語英語
首都 クアラルンプール
国王
1957年 - 1960年 トゥアンク・アブドゥル・ラーマン英語版
首相
1957年 - 1970年 トゥンク・アブドゥル・ラーマン
面積
1963年 132,364km²
人口
1957年 6,278,758人
変遷
成立 1948年1月31日
イギリスより独立 1957年8月31日
マレーシア成立 1963年9月16日
通貨 マラヤ及びイギリス領ボルネオ・ドル
現在 シンガポール

マレーシア

マラヤ連邦(マラヤれんぽう、Federation of Malaya、Persekutuan Tanah Melayu)は、11州によって構成されるマレー半島連邦である。1948年1月31日にマレー半島9州とペナンマラッカによって結成された。

歴史

1946年から1948年にかけて、この地域はマラヤ連合としてイギリスの直轄支配を受けていた。しかし、この連合がムラユ人(マレー人)の地位低下をもたらすものであったため、ムラユ人の民族主義的な反対が高まった。マラヤ連合は解体され、マレー各州の象徴的な君主スルターン)がその地位を回復させ、マラヤ連邦へと再編された。

当初のマラヤ連邦は独立国家ではなかった。マレー各州がイギリスの保護領としての地位に置かれ、海峡植民地を構成したペナンとマラッカはイギリスの植民地であった。しかし、以前のマラヤ連合と同様に、一般にマレー半島地域の一部と考えられ、海峡植民地の一部でもあったシンガポールは、イギリスの戦略上の理由などからマラヤ連邦に含まれなかった。

1957年8月31日に、マラヤ連邦はイギリス連邦の一員として独立を達成した。 1958年には、首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトゥラが国賓として来日した[1]1963年、マラヤ連邦はシンガポール、サラワク、英領北ボルネオ(サバと改称)と新たな連邦を結成し、マレーシアが成立した。しかし、マレー系住民が多い中での政策に中国系住民が反発し、マレー系住民との間で衝突が起き、死傷者を出す暴動にまで発展する。その後、文化的な違いから融和は不可能として、1965年8月9日シンガポールはマレーシア連邦から追放される形で分離独立した。

人口

マラヤ連邦の人口は1957年に6,278,758人であった。マレー人が49.8%、華僑華人が37.2%、インド系が11.1%、その他2%の人種構成であった。

ジョホール州 926,850人
ケダ州 701,964人
ケランタン州 505,522人
ヌグリスンビラン州 364,524人
パハン州 313,058人
ペラ州 1,221,446人
プルリス州 90,885人
セランゴール州 1,012,929人
トレンガヌ州 278,269人
ペナン 572,100人
マラッカ 291,211人

脚注

  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、481頁。ISBN 978-4-487-74412-1 

参考文献

関連項目

外部リンク


マラヤ連邦

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マレーシアの国章」の記事における「マラヤ連邦」の解説

1948年にマラヤ連邦が成立する国章変更された。連邦11州を盾の上に表すため、それまでマレー連合州の4州を表す赤白黒黄に加え、上と左右に新たな区分け行いクレスト部分も皇冠に代えて11個の頂点のある「連邦の星」と黄色三日月変更したモットーも英語とジャウィ文字で「Unity is Strengthと書くよう改められた。 盾の上新たな区分け部分には、非連合州を表す5本のクリス上方に、左と右に海峡植民地ペナンマラッカ紋章あしらったペナン紋章プリンス・オブ・ウェールズ紋章の下に城壁上部模様があり波が描かれていた。マラッカ紋章は、ポルトガル人要塞ファモササンチャゴ砦)の門をあしらったのだった

※この「マラヤ連邦」の解説は、「マレーシアの国章」の解説の一部です。
「マラヤ連邦」を含む「マレーシアの国章」の記事については、「マレーシアの国章」の概要を参照ください。

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