合意に至る経緯とは? わかりやすく解説

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合意に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 01:35 UTC 版)

マフィリンド」の記事における「合意に至る経緯」の解説

第二次世界大戦後1946年アメリカからフィリピン1957年イギリスからマラヤ連邦それぞれ独立した独立前経緯によりマラヤ連邦フィリピンとの間ではボルネオ島サバ(かつてのイギリス領北ボルネオ)を巡る領有権問題があった。この問題解決するべくフィリピンディオスダド・マカパガル大統領は「大マラヤ連邦構想発表したその内容フィリピンマラヤ連邦国家統合によりサバ領有権問題解決企図する大胆なものであったこの頃マラヤ連邦では旧宗主国であるイギリス指導のもと、周辺シンガポールブルネイ連邦制のもと併合するマレーシア連邦発足推進していた。これに対して併合地域から反対運動起きている。1962年12月の「アザハリの反乱ブルネイ動乱英語版))」もこの反対運動一つである。この動乱ブルネイ政府要請により介入したイギリス軍により鎮圧された。この介入インドネシア政府から反感を買いマレーシア連邦案を提示したマラヤ連邦反植民地主義ではなく西欧諸国代わる新たな植民地主義であると非難した。これによりマラヤ連邦インドネシア対立することとなった。 マカパガルはマラヤ連邦インドネシア対立姿勢表面化に伴い原案修正し新たに統合範囲インドネシアまで拡大した「大マレーシア連邦構想発表しインドネシアスカルノ大統領協力のもとマラヤ連邦提示したマフィリンドは、植民地による人工的な国境分割されている現状から、マレー人種を一つにするというホセ・リサール夢の実現として提案された。この提案受けたトゥンク・ラーマンマラヤ連邦首相当初マレーシア連邦案に対し一切譲歩しない姿勢見せたため実現は困難であった。しかし1963年5月スカルノラーマンとの会談で「大マレーシア連邦構想基づいた3か国による地域協力合意なされた。この合意はマカパガルの唱えたものより緩やかなものであったマフィリンド実現向けた第一歩となった。 これを受けて6月マニラ開催され当該国外相会談マニラ協定採択された。マニラ協定マフィリンド設立宣言位置づけられ、経済・社会文化協力明記していた。7月にはマカパガルを加えた3ヵ国首脳会談が行われ、共同声明によりマニラ宣言ならびに採択されていたマニラ協定合意発表なされたマニラ宣言では民族自決観点からサバサワラクにおけるマレーシア連邦参加を問う住民意思確認国連要請し実施すること、ならびに機構となる枠組み形成向けて協議継続合意された。マフィリンド精神的な一致を基にした、共通の関心問題アプローチする地域連合として述べられた。

※この「合意に至る経緯」の解説は、「マフィリンド」の解説の一部です。
「合意に至る経緯」を含む「マフィリンド」の記事については、「マフィリンド」の概要を参照ください。

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