合意の実施
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この合意が署名されたすぐ後、アメリカ合衆国議会の過半数はこの合意を支持しない共和党へ変わった。共和党の上院議員の中には、この合意は宥和政策であるとして強く反対するものもいた。当初は議会の承認を得る必要が無い、アメリカ国防総省の予備費が他の国の負担する資金とともに、合意で定められた重油の提供に用いられた。1996年からは常に十分な額であるとは言えなかったが、議会も予算を承認した。この結果、合意で定められた重油の提供は遅れることがあった。KEDOの初代事務局長であったスティーブン・ボスワースは後に、「枠組み合意は署名後2週間以内に政治的に孤立してしまった」と述べている。 北朝鮮が核関連施設の閉鎖に応じたのは、主にアメリカ政府が朝鮮戦争以来継続している経済制裁を段階的に解除することに合意したためであると考えているアナリストもいる。しかし議会の反対により、アメリカ政府は合意のこの部分を履行することができなかった。 軽水炉への置き換えのための国際的な資金拠出元も探さなければならなかった。軽水炉の公式な入札要請は1998年のこととなり、この頃には北朝鮮政府がプロセスの遅れに激怒していた。1998年5月にはアメリカ政府が軽水炉を建設できないなら、北朝鮮は原子力の研究を再開すると警告していた。現地での公式な着工は1997年8月21日となったが、しかし軽水炉プロジェクトへ大々的に資金が拠出されるようになったのは2000年になってからであった。 この合意の範囲と履行について北朝鮮とアメリカの間では不一致が次第に広がっていった。北朝鮮への経済制裁が解除されず、アメリカと北朝鮮の正式な外交関係も樹立できていなかった1999年に、北朝鮮はアメリカが合意の当事者としての責任を果たさないならば、原子力の研究を再開すると警告した。アメリカは繰り返し、北朝鮮の核開発プログラムが密かに続けられている疑いがあるかぎりは、これ以上の合意の履行は停止されると述べた。 最初の軽水炉の建設は2002年4月に開始された。2基とも原子炉の建設は予定よりかなり遅れていた。当初の計画ではどちらの原子炉も2003年までに運転を開始する予定であったが、2002年末に建設工事は無期限中止となった。
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