合意の最終的な決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 05:51 UTC 版)
「米朝枠組み合意」の記事における「合意の最終的な決裂」の解説
2002年10月、北朝鮮がウラン濃縮プログラムを進めているとのアメリカの査定について、ジェイムズ・アンドリュー・ケリー国務次官補が率いるアメリカの代表団が北朝鮮を訪問して説明を求めた。会談についての両者の発表は異なるものであった。アメリカの代表団は、高濃縮ウランのプログラムの存在を北朝鮮が認めたと考えた。北朝鮮は、ケリーは自分の主張を高慢な態度で示したが、衛星写真などの証拠を何も示すことができなかったとし、北朝鮮が濃縮ウランを使った核兵器製造を計画していることを否定したとした。さらに続けて、現時点では核兵器を所有してはいないが、北朝鮮は独立した主権国家として、防衛のために核兵器を持つ権利があると述べた。この2国間の関係は、2年前には希望があるように思われたが、瞬く間に表立った敵対へと落ち込んでしまった。 ケリー国務次官補が北朝鮮に対して説明を求める基になった高濃縮ウランに関する情報は、まだ議論があるところである。2002年11月19日のアメリカ中央情報局 (CIA) の議会に対する報告によれば、「北朝鮮が遠心分離施設の建設を開始したことを示す明確な証拠」があるとし、もしこの施設が完成すれば、年間2個かそれ以上の核兵器を生産できるだけの高濃縮ウランを生産できるとした。しかしながら、北朝鮮が輸入した設備は量産段階の濃縮計画の証拠としては不十分であると評価する専門家もいる。 KEDOのメンバーは2002年11月に前月の経緯に基づいて、重油の提供を停止するかどうかを検討した。ケリー国務次官補は日本政府関係者に対して、アメリカ議会はこうした違反の継続に直面しては、重油の提供の予算を認めないだろうと警告した。重油提供は12月に中断された。 2003年1月10日に北朝鮮は核拡散防止条約からの脱退を再度表明した。2005年2月10日、北朝鮮はついに「自主防衛のための核抑止力」として核兵器を製造したことを宣言した。2006年10月9日、北朝鮮は核実験を実行した。アメリカの情報機関は北朝鮮は単純な核兵器をほんの少しだけ生産していると考えている。 2003年12月、KEDOは軽水炉の建設工事を中断した。その後KEDOは北朝鮮の建設現場と世界中の製造業者の施設にある軽水炉計画関連の資産の保護と維持に活動の中心を移した。この時点で15億ドルが投じられていた。2006年5月31日、KEDOは最終的に軽水炉計画の断念を決定した。 枠組み合意の崩壊について双方が相手を非難した。アメリカは北朝鮮のウラン濃縮施設が、「南北は核の再処理施設やウラン濃縮施設を保持しない」とする1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言に違反すると指摘した。北朝鮮は燃料の供給やKEDOの軽水炉プロジェクトを故意に遅らせて合意を「実質的に無効化」し、北朝鮮を「悪の枢軸」として先制核攻撃の目標に位置付けるなどの、アメリカの「敵対政策」を非難した。 合意は大部分崩壊してしまったが、北朝鮮は合意で凍結された2つの実用原子炉の建設を再開しなかった。これらの施設は毎年数発の核兵器を製造できるだけの兵器級プルトニウムを生産できる可能性があった。枠組み合意は寧辺の核施設における北朝鮮のプルトニウム生産を1994年から2002年12月まで8年間凍結した。 六者会合において代わりとなる合意について議論が行われ、2005年9月19日に予備的な合意に到達した。この合意では北朝鮮が秘密裏に濃縮ウラン計画を進めているというアメリカの主張には触れられなかった。しかしながらこの新しい合意では北朝鮮は、枠組み合意の時のように特定の施設だけで無く、全ての核施設を廃棄する必要があるとされた。この合意はその内容を概ね採用した2007年2月13日の合意によりさらに詳細が詰められている。
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