軍事介入の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
ブラチスラヴァ会談後、チェコスロバキアをめぐる緊張状態は、ソ連のマスメディアが改革を批判する記事の掲載を見合わせるなど、低下したように思われた。しかし、チェルナ会談の結果とされる「合意」内容の履行をめぐるソ連とチェコスロバキア間の見解の相違は徐々に明らかになり、ブレジネフは、9日と13日の2度にわたりドゥプチェクと電話会談を持ち、「合意」の実施を迫ったが、ドゥプチェクは9月の臨時党大会の準備を理由に、ブレジネフの要求に応える態度を見せなかった。ここに至って、ドゥプチェク体制の下では、これ以上の改革の進展を阻止することは困難であるという認識が固まり、軍事介入によって、事態を打開する方策が採用された。8月15日から8月17日の3日間にわたって開かれたソ連共産党政治局会議でチェコスロバキアへの軍事介入が最終決定され、翌18日、ウルブリヒト、ゴムウカ、カーダール、ジフコフをモスクワに招き、介入決定を伝え、承認を得た。
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