改革の進展
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教会の基本的構造が堅持された一方で、カトリック改革において特筆すべき変革が行われた。それは、司祭と信徒の間の隔絶の問題が是正されたことである。当時、地方の小教区で働く司祭は、ほとんどが満足な教育を受けていなかった。ラテン語も知らず、神学の勉強もしていなかった。司祭の教育の必要性はもともと人文主義者たちの唱えたことであったが、修道司祭がより修道生活に集中できるよう配慮される一方で、教区司祭の知的水準の上昇が図られ、教育の重要性が再確認されることになった。 それに加え、1512年から1560年代にかけて「福音的カトリック者」運動が「スピリトゥアリ(聖霊派)」と呼ばれた高位聖職者の間で起こり、個人の刷新によって教会を刷新しようと活動がさかんになった。こうして、トリエント公会議では教会の綱紀粛正と教会統治のあり方の見直しが真剣に検討された。世俗化されすぎたルネサンス期教会の姿はアレクサンデル6世にその典型をみることができ、レオ10世によるサン・ピエトロ大聖堂の改築工事の資金集めのためにドイツにおいて盛んに贖宥状の販売がおこなわれたことが宗教改革の引き金となった。カトリック教会はこの宗教改革運動への答えとして、教会の徹底的な改革を提示した。その改革は、人間性の重視、信心の深化、教会法の遵守などを柱とする1414年からのコンスタンツ公会議で示された改革案をもとにしていた。 トリエント公会議はその決議によって、世俗化しすぎた教会の姿を否定することになった。具体的には、修道会のあり方が見直され、より厳格さが要求されるようになった。さらに聖職者の規律が強化され、小教区の重要性が再確認された。また、政治的な理由による司教の叙任を禁じた。特に中世においては、一部の司教が権力者として多くの土地と財産を持ち、教会構造から柔軟さを奪っていた。世俗にある司教たちは、神学よりも法律の勉強に励むようになっていたのであるが、公会議の決定によって、問題になっていた不在司教たちは一掃され、高位聖職者にふさわしいモラルをもった人物が任命されるようになった。「不在司教」とは、自らの教区でなくローマや自分の好きな土地に住んでいた司教たちのことであるが、この問題はトリエント公会議の改革によって改善されたのである。 さらに、ルネサンス期を通じてローマ教皇庁自体が普通の世俗国家の一つのようになっていた現状が改革された。トリエント公会議は同時に、教会生活に関する事柄について司教により大きな権限を認めることを決議した。ミラノのカルロ・ボロメオなどの優れた聖職者たちが、自らの司教区の小教区一つ一つを熱心に巡回することで司教の姿の模範を示した。小教区のレベルにおいては、17世紀の間をかけて徐々にしっかりとした教育を受けた司祭たちが小教区を担当するようになり、古代以来の問題であった妻帯司祭が一掃されて、司祭の独身が徹底されるようになった。 対抗宗教改革期の最初の改革教皇とみなされるパウルス4世(1555年 - 1559年)は、プロテスタントに対する対決姿勢を明確にしていたが、その時代には教会改革の姿勢がより明確に示され、改革努力が目に見える形で実現し始めた。彼の治世に行われた改革のための具体的方針として、ローマの異端審問所の設置と禁書目録の作成が挙げられる。彼のこの専制的かつ攻撃的改革努力は、初期改革者たちの姿勢、特に教会法の徹底と異端の殲滅を目指す姿勢を受け継いだものであるといえる。 権威主義的な上からの改革が個人の信心にとっては有益でなかった一方で、信心重視という改革の新潮流が人々の心を捉えるようになった。この信心というのは、神秘主義とは異なり、黙想やロザリオのような信心業をとおして個人の信仰に新しい表現手段を与えるものとなった。対抗宗教改革における信心重視の側面は、カトリック改革の二つの方向性を統合させるものとなった。まず、神が不可知で人智を超える統治者であるという思想が、専制的に改革を推進したパウルス6世の姿と重なるものになった。次に、中世にはなかった個人の新しい信心が生み出されることにつながった。 さらに、1566年からのピウス5世の治世では、異端を攻撃し、世俗化した教会を浄化するだけでなく、プロテスタント運動に対抗する手段として信心業が奨励された。この教皇は、もともと貧しい一家で育ったがドミニコ会に入って教育を受け、禁欲的な信心を大切にしていた。そのため、教皇は前任者たちと異なって、芸術家への後援活動より貧者の救済や病院活動、慈善事業を重視した。また、聖心への信心と日々の黙想を奨励して修道者の霊性を高めることを目指した。貧者救済で知られる教皇であるが、同時に教会全体の綱紀粛正を目標とし、イエズス会を支援し、ローマの異端審問所を強化した。さらに、トリエント公会議の精神への従順と新大陸への宣教の奨励を行った。そのころ、スペインでは異端審問所が活発に活動したため、カトリック以外の教派が広がることはなかった。 2代後のシクストゥス5世(1585年 - 1590年)の時代に行われた改革は、他を否定することより自らを魅力的なものとするという、17世紀バロック時代の教会改革の嚆矢となった。彼の治世はカトリックの都、目に見えるシンボルとしてのローマを世界に冠たる都市とする構想が実現された。中世のアリストテレス的な思考の限界を示した、ルネ・デカルトやガリレオ・ガリレイに象徴される科学の時代に現れたバロック様式およびマニエリスムは、社会の安定化をもたらした。バロックとはつまるところ秩序の創造であり、この時代の上流階級の人々にとって信仰生活は表面的なものとなり、生活の装飾に意を用いられるようになった。バロック期の教会建築は非常に装飾的になったが、社会を安定化させるものとなり、一般信徒をひきつけるようになった。
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