改革の進展とは? わかりやすく解説

改革の進展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 01:45 UTC 版)

対抗宗教改革」の記事における「改革の進展」の解説

教会基本的構造堅持された一方でカトリック改革において特筆すべき変革が行われた。それは、司祭信徒の間の隔絶問題是正されたことである。当時地方小教区で働く司祭は、ほとんどが満足な教育受けていなかった。ラテン語知らず神学勉強もしていなかった。司祭教育必要性はもともと人文主義者たちの唱えたことであったが、修道司祭がより修道生活に集中できるよう配慮され一方で教区司祭知的水準の上昇が図られ教育重要性再確認されることになった。 それに加え1512年から1560年代にかけて「福音カトリック者」運動が「スピリトゥアリ(聖霊派)」と呼ばれた高位聖職者の間で起こり個人刷新によって教会刷新しようと活動さかんになった。こうして、トリエント公会議では教会綱紀粛正教会統治あり方見直しが真剣に検討された。世俗化されすぎたルネサンス期教会の姿はアレクサンデル6世にその典型をみることができ、レオ10世によるサン・ピエトロ大聖堂改築工事資金集めのためにドイツにおいて盛んに贖宥状販売おこなわれたことが宗教改革引き金となったカトリック教会はこの宗教改革運動へ答えとして、教会徹底的な改革提示した。その改革は、人間性重視信心深化教会法遵守などをとする1414年からのコンスタンツ公会議示され改革案をもとにしていた。 トリエント公会議はその決議によって、世俗化しすぎた教会の姿を否定することになった具体的には、修道会あり方見直され、より厳格さ要求されるようになった。さらに聖職者規律強化され小教区重要性再確認された。また、政治的な理由による司教叙任禁じた。特に中世においては一部司教権力者として多く土地財産持ち教会構造から柔軟さ奪っていた。世俗にある司教たちは、神学よりも法律勉強に励むようになっていたのであるが、公会議の決定によって、問題になっていた不在司教たちは一掃され高位聖職者にふさわしいモラルをもった人物任命されるようになった。「不在司教」とは、自らの教区でなくローマ自分好きな土地住んでいた司教たちのことであるが、この問題トリエント公会議改革によって改善されのである。 さらに、ルネサンス期通じてローマ教皇庁自体が普通の世俗国家一つのようになっていた現状改革された。トリエント公会議同時に教会生活に関する事柄について司教により大きな権限認めることを決議したミラノカルロ・ボロメオなどの優れた聖職者たちが、自らの司教区小教区一つ一つ熱心に巡回することで司教の姿の模範示した小教区レベルにおいては17世紀の間をかけて徐々にしっかりとした教育受けた司祭たちが小教区担当するようになり、古代以来問題であった妻帯司祭一掃されて、司祭独身徹底されようになった対抗宗教改革期の最初改革教皇みなされるパウルス4世1555年 - 1559年)は、プロテスタント対す対決姿勢明確にしていたが、その時代には教会改革姿勢がより明確に示され改革努力目に見える形で実現し始めた彼の治世行われた改革のための具体方針として、ローマの異端審問所の設置と禁書目録の作成挙げられる彼のこの専制的かつ攻撃的改革努力は、初期改革者たちの姿勢、特に教会法徹底異端殲滅目指す姿勢を受け継いだのであるといえる権威主義的な上からの改革個人信心にとっては有益でなかった一方で信心重視という改革新潮流が人々心を捉えるようになった。この信心というのは、神秘主義とは異なり黙想ロザリオのような信心業をとおして個人の信仰新し表現手段与えるものとなった対抗宗教改革における信心重視側面は、カトリック改革二つ方向性統合させるものとなった。まず、神が不可知人智超える統治者であるという思想が、専制的に改革推進したパウルス6世の姿と重なるものになった次に中世にはなかった個人新し信心生み出されることにつながった。 さらに、1566年からのピウス5世治世では、異端攻撃し世俗化した教会浄化するだけでなく、プロテスタント運動対抗する手段として信心業が奨励された。この教皇は、もともと貧し一家育ったドミニコ会入って教育を受け、禁欲的な信心大切にしていた。そのため、教皇前任者たちと異なって芸術家への後援活動より貧者救済病院活動慈善事業重視したまた、聖心への信心日々黙想奨励して修道者霊性高めることを目指した。貧者救済知られる教皇であるが、同時に教会全体綱紀粛正目標とし、イエズス会支援しローマの異端審問所を強化した。さらに、トリエント公会議精神への従順新大陸へ宣教奨励行った。そのころ、スペインでは異端審問所活発に活動したため、カトリック以外の教派広がることはなかった。 2代後のシクストゥス5世1585年 - 1590年)の時代行われた改革は、他を否定することより自らを魅力的なものとするという、17世紀バロック時代教会改革嚆矢となった彼の治世カトリックの都、目に見えるシンボルとしてローマ世界に冠たる都市とする構想実現された。中世アリストテレス的な思考限界示したルネ・デカルトガリレオ・ガリレイ象徴される科学時代現れバロック様式およびマニエリスムは、社会安定化もたらしたバロックとはつまるところ秩序創造であり、この時代の上階級人々にとって信仰生活は表面的なものとなり、生活の装飾意を用いられるようになったバロック期教会建築は非常に装飾的になったが、社会安定化させるものとなり、一般信徒ひきつけるようになった

※この「改革の進展」の解説は、「対抗宗教改革」の解説の一部です。
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