改革への反発と対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:14 UTC 版)
「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「改革への反発と対立」の解説
急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在したアンティオキアでの、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は旱魃に見舞われていた。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した。『ミソポゴン (Misopogon) 』が書かれたのはこのときである。 ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。
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