改革の限界とは? わかりやすく解説

改革の限界(ギリシャの独立・エジプトの自立化)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)

マフムト2世」の記事における「改革の限界(ギリシャの独立エジプトの自立化)」の解説

マフムト2世進めた様々な改革一定の成果納めたが、この時代帝国抱えていた深刻な内憂外患は、彼の晩年対外関係をきわめて苦しいものにした。 マフムト2世専制体制化は、長らくオスマン帝国地方における軍事力代行していたアーヤーン陸軍力担ってきたイェニチェリ滅ぼしたために、一時的な軍事力弱体化をもたらさざるを得なかった。 1821年ワラキア首都ブカレスト蜂起発生した。(ワラキア蜂起)。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、それに呼応するかのように3月ギリシャ人のアレクサンドロス・イプシランデスがヤッシー蜂起し、ここにギリシャ独立戦争勃発したその後ギリシャにイプシランデスやバルカン半島諸民族コサックなどが集結したオスマン側も反撃し6月ドラガツァニの戦い独立軍撃破した。しかしやがてペロポネソス半島独立軍占領されクレタ島でも反乱起きたため、マフムト2世はこれを鎮圧するためにジハード宣言コンスタンティノープル総主教グリゴリオス5世処刑したオスマン側は徹底的な殲滅戦繰り広げたが、対すギリシャ側はゲリラ戦法反撃し、さらにヨーロッパ諸国から義勇軍ペロポネソス半島集結してしまい全域広がった蜂起鎮圧しきれずにいた。1822年には反乱軍海上戦敗北、さらに中央政府ギリシャにできてしまい、半独立化していた。 追い詰められマフムト2世1824年に独自の西洋化政策進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーペロポネソス半島クレタ島、そしてシリア3つの総督地位彼に与えることを引き換えにして援軍派遣要請した翌年派遣されムハンマド・アリー息子イブラヒム・パシャ次々と反乱軍打ち破っていき、クレタ島をも占領したオスマン側はさらに北の守り固めるために1826年不利な条件ながらアッケルマン条約締結しロシア協調関係をむすぼうとした。しかし1827年にはロシアギリシャ支援再開しイギリスフランスロシア連合艦隊ナヴァリノの海戦敗北。この時、艦隊の8割近く失い6000人が敗死した。1828年にはロシア正式に宣戦布告をしてきた。マフムトエジプトに再び2万人援軍要請した拒否され帝国第2の首都エディルネ占領されてしまった。結局翌年アドリアノープル条約ギリシャ自治認め、さらにロンドン議定書で完全独立認めた同年には帝国西北端に位置するセルビア公国自治承認させられ1830年帝国南西端のアルジェリアフランスによって占領された。 そして1831年ギリシア独立戦争への参戦大きな犠牲払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議してエジプト軍シリア武力侵攻させる事件起きた第一次エジプト・トルコ戦争)。単独ムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題圧迫受けてきた相手であるロシア頼りエジプト問題列強介入によりさらに複雑化させた。ロシア支援を得るために、ウンキャル・スケレッシ条約トルコ海峡ロシア解放した1833年キュタヒヤ条約締結し第一次エジプト・トルコ戦争ムハンマド・アリーへのシリア総督授与決着したが、報復期すマフムト2世オスマン帝国政府からの自立シリア方面における権益拡大を狙うムハンマド・アリーとの間の対立関係は収まらなかった。 再衝突緊張高まった1838年マフムト2世エジプト問題におけるイギリス支持取り付けるため、イギリス利益大幅に譲歩して専売制廃止低率固定関税定めオスマン帝国関税自主権喪失させる不平等条約を結ぶ道を選んだ。これによりイギリス支持得られたが、マフムト2世崩御後帝国半植民地化に向かう直接的な契機はこの時点求められる。 しかしともかくもイギリス支持得たマフムト2世1839年4月満を持してエジプトとの間に戦端開きムハンマド・アリー支配するシリア要衝アレッポオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日オスマン帝国軍エジプト軍によって打ち破られ第二次エジプト・トルコ戦争また、ムハンマド・アリー優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムト崩御した。 この戦争最終的にイギリスの介入により、1840年7月オスマン帝国側の優位決着するが、ムハンマド・アリーエジプト世襲認められた。だが、これにより関税自主権のない不平等条約エジプトにも適用されることになり、エジプトにとってもこの一連の事件半植民地化の契機となってゆく。 マフムト2世ムハンマド・アリー激突その結果は、マフムト2世改革同時代エジプトにおけるムハンマド・アリーによる改革比べれば十分な結果を残すことができなかったことを意味している。

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