改革の限界(ギリシャの独立・エジプトの自立化)
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「マフムト2世」の記事における「改革の限界(ギリシャの独立・エジプトの自立化)」の解説
マフムト2世の進めた様々な改革は一定の成果を納めたが、この時代に帝国が抱えていた深刻な内憂外患は、彼の晩年の対外関係をきわめて苦しいものにした。 マフムト2世の専制体制化は、長らくオスマン帝国の地方における軍事力を代行していたアーヤーンや陸軍力を担ってきたイェニチェリを滅ぼしたために、一時的な軍事力の弱体化をもたらさざるを得なかった。 1821年にワラキアの首都ブカレストで蜂起が発生した。(ワラキア蜂起)。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、それに呼応するかのように3月にギリシャ人のアレクサンドロス・イプシランデスがヤッシーで蜂起し、ここにギリシャ独立戦争が勃発した。その後、ギリシャにイプシランデスやバルカン半島の諸民族、コサックなどが集結した。オスマン側も反撃し、6月にドラガツァニの戦いで独立軍を撃破した。しかしやがてペロポネソス半島は独立軍に占領され、クレタ島でも反乱が起きたため、マフムト2世はこれを鎮圧するためにジハードを宣言、コンスタンティノープル総主教のグリゴリオス5世を処刑した。オスマン側は徹底的な殲滅戦を繰り広げたが、対するギリシャ側はゲリラ戦法で反撃し、さらにヨーロッパ諸国から義勇軍がペロポネソス半島に集結してしまい全域に広がった蜂起を鎮圧しきれずにいた。1822年には反乱軍に海上戦で敗北、さらに中央政府がギリシャにできてしまい、半独立化していた。 追い詰められたマフムト2世は1824年に独自の西洋化政策を進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーにペロポネソス半島とクレタ島、そしてシリアの3つの総督の地位を彼に与えることを引き換えにして援軍の派遣を要請した。翌年派遣されたムハンマド・アリーの息子のイブラヒム・パシャは次々と反乱軍を打ち破っていき、クレタ島をも占領した。オスマン側はさらに北の守りを固めるために1826年に不利な条件ながらアッケルマン条約を締結し、ロシアと協調関係をむすぼうとした。しかし1827年にはロシアはギリシャの支援を再開し、イギリス、フランス、ロシアの連合艦隊にナヴァリノの海戦で敗北。この時、艦隊の8割近くを失い6000人が敗死した。1828年にはロシアが正式に宣戦布告をしてきた。マフムトはエジプトに再び2万人の援軍を要請したが拒否され、帝国第2の首都のエディルネを占領されてしまった。結局翌年アドリアノープル条約でギリシャの自治を認め、さらにロンドン議定書で完全独立を認めた。 同年には帝国の西北端に位置するセルビア公国の自治を承認させられ、1830年に帝国南西端のアルジェリアがフランスによって占領された。 そして1831年、ギリシア独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して、エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きた(第一次エジプト・トルコ戦争)。単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手であるロシアを頼り、エジプト問題を列強の介入によりさらに複雑化させた。ロシアの支援を得るために、ウンキャル・スケレッシ条約でトルコ海峡をロシアに解放した。 1833年、キュタヒヤ条約を締結し、第一次エジプト・トルコ戦争はムハンマド・アリーへのシリア総督職授与で決着したが、報復を期すマフムト2世とオスマン帝国政府からの自立とシリア方面における権益の拡大を狙うムハンマド・アリーとの間の対立関係は収まらなかった。 再衝突の緊張が高まった1838年、マフムト2世はエジプト問題におけるイギリスの支持を取り付けるため、イギリスの利益に大幅に譲歩して専売制の廃止と低率の固定関税を定め、オスマン帝国の関税自主権を喪失させる不平等条約を結ぶ道を選んだ。これによりイギリスの支持は得られたが、マフムト2世の崩御後、帝国が半植民地化に向かう直接的な契機はこの時点に求められる。 しかしともかくも、イギリスの支持を得たマフムト2世は1839年4月に満を持してエジプトとの間に戦端を開き、ムハンマド・アリーの支配する北シリアの要衝アレッポにオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日、オスマン帝国軍はエジプト軍によって打ち破られ、第二次エジプト・トルコ戦争もまた、ムハンマド・アリーの優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムトは崩御した。 この戦争は最終的にイギリスの介入により、1840年7月にオスマン帝国側の優位で決着するが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲権が認められた。だが、これにより関税自主権のない不平等条約がエジプトにも適用されることになり、エジプトにとってもこの一連の事件は半植民地化の契機となってゆく。 マフムト2世とムハンマド・アリーの激突とその結果は、マフムト2世の改革が同時代のエジプトにおけるムハンマド・アリーによる改革に比べれば十分な結果を残すことができなかったことを意味している。
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