エジプトの自立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 21:52 UTC 版)
「エジプト第26王朝」の記事における「エジプトの自立」の解説
ヘロドトスの記すプサメティコス1世と下エジプトの支配者達との戦いは、アッシリアの宗主権下において行われたものであり、反アッシリア勢力の統制という面も持ち合わせていたが、ともかくも下エジプトにおける支配が確立された。その後、彼は上エジプトのテーベに対しても自らの権威を承認させることに成功した。第25王朝時代よりテーベの長官の地位にあったメンチュエムハトはプサムテク1世の娘ニトクリスが、将来「アメンの聖妻」の地位に着くことを受け入れたことが端的にそれを示している。 こうして国内における支配を確立したプサメティコス1世は、新王国の行政制度を手本とした内政改革に取り掛かった。しかしその称号は古王国風のものが採用され、意識的に「過去の栄光」が追求された。こうした支配者の傾向は美術品にも強く影響し、古王国や中王国風の様式を手本とした復古的な美術様式が形成された。こうした動きは「サイス・ルネサンス」と呼ばれ、この時期に作成された彫像やレリーフの中には、時に現代の学者が古王国時代に作成されたものか第26王朝時代のものか、判別に困難を感ずるほどのものもある。 そしてオリエントにおけるアッシリアの勢力が縮小に転じたことによって、紀元前653年頃までにはその宗主権下から離脱した。そしてシリア方面への勢力拡大を図った。ヘロドトスの記録によれば、プサメティコス1世はアシュドドを29年間かけて陥落させた(en:Fall of Ashdod)。一方でこの頃オリエントに侵入したスキタイ人がシリア地方に入ると、プサメティコス1世は「贈り物と泣き落としで」彼らの攻撃を回避したとも言う。
※この「エジプトの自立」の解説は、「エジプト第26王朝」の解説の一部です。
「エジプトの自立」を含む「エジプト第26王朝」の記事については、「エジプト第26王朝」の概要を参照ください。
- エジプトの自立のページへのリンク