エジプトの征服
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「アレクサンドロス3世」の記事における「エジプトの征服」の解説
「ティール包囲戦」および「ガザ包囲戦」も参照 アレクサンドロスは、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、頑強に抵抗したフェニキアのティール(Tyre、現ティルス)とガザを屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。 エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託に等しかった。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。 エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。
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エジプトの征服
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「アムル・イブン・アル=アース」の記事における「エジプトの征服」の解説
アムルはエルサレムでカリフのウマルにエジプト遠征計画を進言した。ウマルは決断をためらって「汝にエジプトから引き返すように命令する書簡が、エジプトのどこかに侵入する前にとどいたときは引き返せ。しかし汝が余の書簡を受け取る前にその地に踏み込んでいたときは、前進してアッラーの援けを乞え」と語ったが、結局遠征を許す。 しかしマディーナ(メディナ)に帰って他の有力者たちと協議したウマルは、エジプトが本国からあまりにも隔たっていることに不安を覚えて遠征許可を取り消す。その報せが届いたときアムルはエジプト国境を目前にしていたが、先のウマルの言葉を思い出してしばらく書簡を開封せず、そのまま国境を越えた。エジプトに入った時点で開いた書簡には遠征許可を取り消す旨が記されていたが、アムルはすでに国境を越えたことを理由としてそのまま前進を続けた。 アムルのエジプト遠征軍はわずか4千騎であったが、アムルは若い頃にたびたび隊商を率いてエジプトへ旅したため地理を熟知していたうえ、エジプトでは東ローマ帝国の支配が嫌われていたため、征服はさほど困難ではなかった。アムルは教義問題をめぐってコンスタンティノープル教会と対立していたコプト派キリスト教徒を味方につけ、640年2月にペルシウムを攻略。現在のカイロ市にあったバビュロン城を包囲し、7月にアイン・シャムス(古代のヘリオポリス)近郊で東ローマ軍2万を撃破した(ヘリオポリスの戦い(英語版))。翌641年4月にバビュロンを陥落させ、5月13日にナイルデルタ西部の要衝ニキウを降し、本国からの援軍を加えた2万の軍で東ローマ帝国エジプト支配の中枢、アレキサンドリアを攻囲(アレキサンドリア攻囲戦(英語版))。アレクサンドリアには5万人の東ローマ軍が篭城していたが、東ローマ側指揮官キルスは641年11月8日に降伏し、翌年9月に東ローマ軍はエジプトから撤退した。なおアムルはアレキサンドリア攻略後、エジプト西方の安全を確保するためリビアのバルカまで侵攻し、この地方の住民に服従を誓わせている。 646年には東ローマ帝国がエジプト回復を狙ったが、ニキウの戦い(英語版)で撃破した。 アムルはエジプト支配の拠点として、バビュロン城に近いナイルデルタの頂点に軍営都市ミスル・アル・フスタートを建設した。これが現在のカイロ市の原型である。またアムルがフスタートの中心に建てたアムル・モスクはアフリカ大陸最古のモスクといわれる。また古代に作られたナイル川と紅海を結ぶ運河を浚渫し、復興した。しかしウマルはアムルがエジプトから十分な収益を上げていないと考えて、上エジプトに別の総督を任じ、後継カリフのウスマーンはアムルをエジプトから召喚した。
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