ファーティマ朝の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「ファーティマ朝の準備」の解説
統治の最初の数年の間、ムイッズはマグリブ西部への支配の拡大と、シチリア島と南イタリアにおけるビザンツ帝国との戦争に専念していたが、歴史家のポール・E・ウォーカーによれば、ムイッズは、明らかに「その治世の初期からエジプトの征服を意図していた」。ムイッズはすでに965年もしくは966年に食糧の備蓄とエジプトに対する新たな侵略の準備を始めていた。965年までにジャウハル・アッ=スィキッリーの指揮の下でムイッズの軍隊がコルドバを首都とする後ウマイヤ朝に勝利を収めてその利権を奪回し、かつて910年代と920年代にファーティマ朝の将軍によって征服された現代のアルジェリア西部とモロッコに対するファーティマ朝の支配を回復させた。シチリア島ではファーティマ朝の総督が島内の最後のビザンツ帝国の拠点を制圧してイスラーム教徒による島の征服(英語版)を完了し、さらにこれに応じて派遣されたビザンツ帝国の遠征軍を撃退(英語版)した。これらの成功に続いて967年にはファーティマ朝とビザンツ帝国の間で停戦が成立し、両国は余力を残して東方における計画を自由に追求できるようになった。ビザンツ帝国はアレッポのハムダーン朝に対する計画を進め、一方でファーティマ朝はエジプトに対する計画を進めた。ファーティマ朝のカリフは野心を隠さず、交渉中にビザンツ帝国の大使に対して次の交渉はエジプトで行われるであろうと豪語すらしていた。
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