ビザンツ帝国との戦争とは? わかりやすく解説

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ビザンツ帝国との戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)

ホルミズド4世」の記事における「ビザンツ帝国との戦争」の解説

ホルミズド4世父親からビザンツ帝国との継続中戦争英語版)、およびテュルク人突厥)との東方での戦争引き継いだティベリウス2世との間で平和交渉始められたばかりだったが、ホルミズド4世父親征服成果一部でも譲り渡すことを傲慢に拒否したそれ故に、この交渉についての詳細記録しているビザンツ帝国著作家テオフィラクトス・シモカテス(iii.16 ff)、Menander Protector、そしてエフェソスヨハネス英語版)(vi.22)らは彼に対して好意的ではない。 ホルミズド4世教訓垂れることを決定したローマビザンツ)の将軍マウリキウス境界越えてクルディスタン侵入した翌年メディア南部メソポタミア侵攻することを計画したが、ガッサーン朝の王Al-Mundhir3世が裏切りティベリウス2世計画ホルミズド4世伝えたとされている。マウリキウス迅速に撤退しなければならなくなったが、ローマビザンツ)領への撤退途中でペルシア将軍Adarmahanを戦闘引き込み打ち破った582年ペルシア将軍Tamkhosrauはペルシアローマ国境越え、コンスタンティアを攻撃したが、敗北して殺害された。しかし、ローマ皇帝ティベリウス2世健康状態の悪化によってマウリキウスコンスタンティノープル急いで戻らなければならなくなった一方で前線引き継いだJohn MystaconはNymphius(バトマン川)とティグリス川合流地点ペルシア軍を攻撃した敗れ撤退余儀なくされた。更に別の戦闘でも敗北したことで、彼はフィリピコス(英語版)に交代させられた。 フィリピコスは584年585年ペルシア領の奥深く侵攻したペルシア軍は585年にモノカルティウム(Monocartium)とマルティロポリス(英語版)を攻撃して報復した。フィリピコスはソラコンの戦い英語版)でペルシア軍に大い打ち破り586年にはChlomaronの要塞包囲した。この包囲不首尾に終わった後、フィリピコスは後退しアミダ英語版)に展開した。しかし、間もなく587年には彼は将軍ヘラクレイオス英語版)の命令放棄した588年ローマビザンツ)軍の反乱発生し、これに乗じてペルシア軍は再びコンスタンティアを攻撃した撃退された。ローマ軍はArzaneneへの攻撃報復行った成功しなかった。しかし、マルティロポリス(英語版)で行われた別の戦い英語版)でペルシア軍の別の攻撃撃退した589年ペルシア軍はマルティロポリスを攻撃し二度わたってフィリピコスを打ち破った後、これを占領した。フィリピコスは解任され、Sisauranonでペルシア軍を破ったコメンティオルス(英語版)に交代したローマビザンツ)軍はマルティロポリスで包囲されていたが、その最中もたらされ突厥侵入報せペルシア駆け巡った

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ビザンツ帝国との戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:44 UTC 版)

シャフルバラーズ」の記事における「ビザンツ帝国との戦争」の解説

東ローマ帝国とサーサーン朝の戦争 (602年-628年)」も参照 ホスロー2世即位時にビザンツ皇帝マウリキウス支援受けた見返りとして591年アルメニア大部分メソポタミア、そしてイベリア王国の西半分ビザンツ帝国譲渡していた。ビザンツ帝国マウリキウス殺害されると、ホスロー2世はその報復名目として602年ビザンツ帝国との戦端英語版)を開いた。この戦争は両帝国の間で行われた戦争の中で最後、かつ最も破壊的なもので26年間に渡って続いたシャフルバラーズはこの戦争の中で初め記録登場するホスロー2世シャフルバラーズとやシャーヒーンなどの将軍たちと共にダラ英語版)とエデッサ604年征服した北方では591年国境英語版)までビザンツ帝国後退させた。失われた領土再征服した後、ホスロー2世戦場から引き揚げ軍事作戦将軍たちに引き継いだシャフルバラーズはこの将軍たちの1人であった610年アルメニア人ヘラクレイオスビザンツ皇帝フォカスに対して反乱起こしてこれを殺害し、自らビザンツ帝国帝位就いたビザンツ皇帝となった後、彼は613年アンティオキア近郊サーサーン朝対す本格的な反撃準備行ったが、シャフルバラーズはこれを決定的に打ち破りビザンツ軍に重大な損害与えた英語版)。そしてこの都市占領し地中海サーサーン朝海軍を展開可能とした。 ビザンツ帝国軍がアンティオキア近郊撃破された後、ヘラクレイオステオドロス英語版)は将軍ニケタス英語版と共に、彼らの軍勢シリア合流させたが、これもシャフルバラーズ彼の軍勢によって撃破された。そしてダマスカス包囲占領され多数ビザンツ兵が捕虜となった。更にシャフルバラーズは、ビザンツ軍をAdhri'at(ダルアー近郊でも打ち破った。このことはクルアーンコーラン)で言及されている。シャフルバラーズ経歴の中で最も重要な出来事は、彼がサーサーン朝軍隊パレスチナ英語版)へ向け、包囲戦の後キリスト教徒聖地エルサレム占領したことである。エルサレム征服の後、彼は聖十字架真の十字架)を戦利品として運び去った618年シャフルバラーズホスロー2世エジプト攻略を命ぜられ、619年ビザンツエジプト英語版)の首都アレクサンドリア占領しサーサーン朝の物とした。 アレクサンドリア陥落の後、シャフルバラーズとその軍隊サーサーン朝支配地をナイル川沿って南に広げた621年までに属州英語版)に安定したサーサーン朝支配確立され、Shahralanyozan(Shahrālānyōzān)と呼ばれる人物エジプト総督として赴任した622年ヘラクレイオスサーサーン朝対す反撃アナトリア開始したシャフルバラーズはこれに対抗するために現地派遣されたが、最終的に敗退したヘラクレイオス勝利の後カフカス・アルバニアへと進みそこで越冬したシャフルバラーズシャーヒーンおよびShahraplakanと共にヘラクレイオス軍勢掣肘するためにホスロー2世によって派遣された。シャーヒーンビザンツ軍を潰走させることに成功したサーサーン朝将軍たちの間の嫉妬故にシャフルバラーズ勝利栄光分け前にあずかるために行軍急がせたヘラクレイオスティグラノケルタで彼らに相対し、Shahraplakanとシャーヒーン軍勢各個撃破した。この勝利の後、ヘラクレイオスアラス川渡り対岸平野野営したシャーヒーン自身とShahraplakanの残存兵力と共にヘラクレイオスへと向かうシャフルバラーズ合流したが、沼沢地によって彼らの行軍速度鈍った。Aliovitの地で、シャフルバラーズ彼の軍を分散させ、6,000人の兵をヘラクレイオス待ち伏せるために送り残り部隊はAliovitに留まらせた。ヘラクレイオス625年2月サーサーン朝主力キャンプ夜間奇襲行いこれを破壊したシャフルバラーズ単身逃亡余儀なくされた。 ヘラクレイオスヴァン湖の北で残りの冬を過ごした625年、彼はユーフラテス川まで戦線押し戻すことを試みた7日間のうちにアララト山とアルサニアス川(英語版))(ムラト川)沿いの200マイル迂回しアミダディヤルバクル)とティグリス川上流重要な要塞マルティロポリス(英語版)を占領したヘラクレイオスシャフルバラーズ追撃してユーフラテス川進み続けたアラブ史料によれば、彼はSatidamaまたはバトマン川で止まり、そこで敗北した。だが、ビザンツ史料ではこの敗北言及されていないヘラクレイオスシャフルバラーズの他の小規模な小競り合いアダナ近郊セイハン川(英語版)(Sarus川)で発生したシャフルバラーズ軍団ビザンツ軍の対岸駐留させた。セイハン川にはかかっており、ビザンツ軍はただちに突撃行ったシャフルバラーズビザンツ軍を伏兵にかけるため偽装後退行いビザンツ軍の前衛間もなく壊滅した。だが、シャフルバラーズその後の橋防御怠りヘラクレイオスサーサーン朝軍の射撃した矢を無視して後衛とともに川を越えて突撃し戦いの流れ変えたシャフルバラーズヘラクレイオス対す称賛サーサーン朝側についていたギリシア人に「そなたの皇帝見よ!彼は矢やに対して金床感じ程度恐怖感じていない![訳語疑問点]」と語ったという。Sarusの戦いビザンツ軍の成功した退却戦であり、その成功ヘラクレイオス称揚英語版)する人々によって誇張された。戦いの後ビザンツ軍はトレビゾンド越冬した

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