ビザンツ帝国との戦争
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「ホルミズド4世」の記事における「ビザンツ帝国との戦争」の解説
ホルミズド4世は父親からビザンツ帝国との継続中の戦争(英語版)、およびテュルク人(突厥)との東方での戦争を引き継いだ。ティベリウス2世との間で平和交渉が始められたばかりだったが、ホルミズド4世は父親の征服の成果を一部でも譲り渡すことを傲慢に拒否した。それ故に、この交渉についての詳細を記録しているビザンツ帝国の著作家テオフィラクトス・シモカテス(iii.16 ff)、Menander Protector、そしてエフェソスのヨハネス(英語版)(vi.22)らは彼に対して好意的ではない。 ホルミズド4世に教訓を垂れることを決定したローマ(ビザンツ)の将軍マウリキウスは境界を越えてクルディスタンに侵入した。翌年、メディアと南部メソポタミアに侵攻することを計画したが、ガッサーン朝の王Al-Mundhir3世が裏切り、ティベリウス2世の計画をホルミズド4世に伝えたとされている。マウリキウスは迅速に撤退しなければならなくなったが、ローマ(ビザンツ)領への撤退の途中でペルシアの将軍Adarmahanを戦闘に引き込み打ち破った。 582年、ペルシアの将軍Tamkhosrauはペルシアとローマの国境を越え、コンスタンティアを攻撃したが、敗北して殺害された。しかし、ローマ皇帝ティベリウス2世の健康状態の悪化によってマウリキウスはコンスタンティノープルに急いで戻らなければならなくなった。一方で前線を引き継いだJohn MystaconはNymphius(バトマン川)とティグリス川の合流地点でペルシア軍を攻撃したが敗れ、撤退を余儀なくされた。更に別の戦闘でも敗北したことで、彼はフィリピコス(英語版)に交代させられた。 フィリピコスは584年と585年にペルシア領の奥深くに侵攻した。ペルシア軍は585年にモノカルティウム(Monocartium)とマルティロポリス(英語版)を攻撃して報復した。フィリピコスはソラコンの戦い(英語版)でペルシア軍に大いに打ち破り、586年にはChlomaronの要塞を包囲した。この包囲が不首尾に終わった後、フィリピコスは後退しアミダ(英語版)に展開した。しかし、間もなく587年には彼は将軍大ヘラクレイオス(英語版)の命令を放棄した。 588年、ローマ(ビザンツ)軍の反乱が発生し、これに乗じてペルシア軍は再びコンスタンティアを攻撃したが撃退された。ローマ軍はArzaneneへの攻撃で報復を行ったが成功しなかった。しかし、マルティロポリス(英語版)で行われた別の戦い(英語版)でペルシア軍の別の攻撃を撃退した。 589年、ペルシア軍はマルティロポリスを攻撃し、二度にわたってフィリピコスを打ち破った後、これを占領した。フィリピコスは解任され、Sisauranonでペルシア軍を破ったコメンティオルス(英語版)に交代した。ローマ(ビザンツ)軍はマルティロポリスで包囲されていたが、その最中にもたらされた突厥の侵入の報せがペルシアを駆け巡った。
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ビザンツ帝国との戦争
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「シャフルバラーズ」の記事における「ビザンツ帝国との戦争」の解説
「東ローマ帝国とサーサーン朝の戦争 (602年-628年)」も参照 ホスロー2世は即位時にビザンツ皇帝マウリキウスに支援を受けた見返りとして591年にアルメニアの大部分とメソポタミア、そしてイベリア王国の西半分をビザンツ帝国に譲渡していた。ビザンツ帝国でマウリキウスが殺害されると、ホスロー2世はその報復を名目として602年にビザンツ帝国との戦端(英語版)を開いた。この戦争は両帝国の間で行われた戦争の中で最後、かつ最も破壊的なもので26年間に渡って続いた。シャフルバラーズはこの戦争の中で初めて記録に登場する。ホスロー2世はシャフルバラーズとやシャーヒーンなどの将軍たちと共にダラ(英語版)とエデッサを604年に征服した。北方では591年の国境(英語版)までビザンツ帝国を後退させた。失われた領土を再征服した後、ホスロー2世は戦場から引き揚げ軍事作戦は将軍たちに引き継いだ。シャフルバラーズはこの将軍たちの1人であった。610年、アルメニア人ヘラクレイオスはビザンツ皇帝フォカスに対して反乱を起こしてこれを殺害し、自らビザンツ帝国の帝位に就いた。ビザンツ皇帝となった後、彼は613年にアンティオキアの近郊でサーサーン朝に対する本格的な反撃の準備を行ったが、シャフルバラーズはこれを決定的に打ち破りビザンツ軍に重大な損害を与えた(英語版)。そしてこの都市を占領し、地中海にサーサーン朝の海軍を展開可能とした。 ビザンツ帝国軍がアンティオキア近郊で撃破された後、ヘラクレイオスとテオドロス(英語版)は将軍ニケタス(英語版)と共に、彼らの軍勢をシリアで合流させたが、これもシャフルバラーズと彼の軍勢によって撃破された。そしてダマスカスが包囲占領され、多数のビザンツ兵が捕虜となった。更にシャフルバラーズは、ビザンツ軍をAdhri'at(ダルアー)近郊でも打ち破った。このことはクルアーン(コーラン)で言及されている。シャフルバラーズの経歴の中で最も重要な出来事は、彼がサーサーン朝の軍隊をパレスチナ(英語版)へ向け、包囲戦の後にキリスト教徒の聖地エルサレムを占領したことである。エルサレム征服の後、彼は聖十字架(真の十字架)を戦利品として運び去った。618年、シャフルバラーズはホスロー2世にエジプト攻略を命ぜられ、619年にビザンツ領エジプト(英語版)の首都アレクサンドリアを占領し、サーサーン朝の物とした。 アレクサンドリア陥落の後、シャフルバラーズとその軍隊はサーサーン朝の支配地をナイル川に沿って南に広げた。621年までに属州(英語版)に安定したサーサーン朝の支配が確立され、Shahralanyozan(Shahrālānyōzān)と呼ばれる人物がエジプトの総督として赴任した。622年、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する反撃をアナトリアで開始した。シャフルバラーズはこれに対抗するために現地へ派遣されたが、最終的に敗退した。 ヘラクレイオスは勝利の後カフカス・アルバニアへと進みそこで越冬した。シャフルバラーズはシャーヒーンおよびShahraplakanと共にヘラクレイオスの軍勢を掣肘するためにホスロー2世によって派遣された。シャーヒーンはビザンツ軍を潰走させることに成功した。サーサーン朝の将軍たちの間の嫉妬故に、シャフルバラーズは勝利の栄光の分け前にあずかるために行軍を急がせた。ヘラクレイオスはティグラノケルタで彼らに相対し、Shahraplakanとシャーヒーンの軍勢を各個に撃破した。この勝利の後、ヘラクレイオスはアラス川を渡り、対岸の平野で野営した。シャーヒーンは自身とShahraplakanの残存兵力と共にヘラクレイオスへと向かうシャフルバラーズに合流したが、沼沢地によって彼らの行軍速度は鈍った。Aliovitの地で、シャフルバラーズは彼の軍を分散させ、6,000人の兵をヘラクレイオスを待ち伏せるために送り、残りの部隊はAliovitに留まらせた。ヘラクレイオスは625年2月にサーサーン朝の主力キャンプに夜間奇襲を行いこれを破壊した。シャフルバラーズは単身で逃亡を余儀なくされた。 ヘラクレイオスはヴァン湖の北で残りの冬を過ごした。625年、彼はユーフラテス川まで戦線を押し戻すことを試みた。7日間のうちにアララト山とアルサニアス川(英語版))(ムラト川)沿いの200マイルを迂回し、アミダ(ディヤルバクル)とティグリス川上流の重要な要塞マルティロポリス(英語版)を占領した。ヘラクレイオスはシャフルバラーズを追撃してユーフラテス川へ進み続けた。アラブの史料によれば、彼はSatidamaまたはバトマン川で止まり、そこで敗北した。だが、ビザンツの史料ではこの敗北は言及されていない。ヘラクレイオスとシャフルバラーズの他の小規模な小競り合いはアダナ近郊のセイハン川(英語版)(Sarus川)で発生した。シャフルバラーズは軍団をビザンツ軍の対岸に駐留させた。セイハン川には橋がかかっており、ビザンツ軍はただちに突撃を行った。シャフルバラーズはビザンツ軍を伏兵にかけるため偽装後退を行い、ビザンツ軍の前衛は間もなく壊滅した。だが、シャフルバラーズはその後の橋の防御を怠り、ヘラクレイオスはサーサーン朝軍の射撃した矢を無視して後衛とともに川を越えて突撃し、戦いの流れを変えた。シャフルバラーズはヘラクレイオスに対する称賛をサーサーン朝側についていたギリシア人に「そなたの皇帝を見よ!彼は矢や槍に対して金床が感じる程度の恐怖も感じていない![訳語疑問点]」と語ったという。Sarusの戦いはビザンツ軍の成功した退却戦であり、その成功はヘラクレイオスを称揚(英語版)する人々によって誇張された。戦いの後、ビザンツ軍はトレビゾンドで越冬した。
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