ビザンツ・ヴェネツィア戦争 (1296年–1302年)
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「ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争」の記事における「ビザンツ・ヴェネツィア戦争 (1296年–1302年)」の解説
1296年、コンスタンティノープルのジェノヴァ人住民がヴェネツィア居留地を破壊し、多くのヴェネツィア人住民を虐殺する事件が起きた。ヴェネツィアとビザンツの間には1285年に休戦条約が結ばれていたが、ビザンツ皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスはこの問題に際してすぐさまジェノヴァ支持を表明し、ヴェネツィア大使マルコ・ベンボを始めとする生き残ったヴェネツィア人を拘束した。 ヴェネツィアは開戦をちらつかせ、ビザンツに損害賠償をもとめた。1296年7月、ルッジェーロ・モロシーニ率いるヴェネツィア艦隊がボスポラス海峡を襲った。第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争と平行したこの時期、ヴェネツィアはポカイアやガラタなどのジェノヴァ植民地を占領するとともに、コンスタンティノープルの金角湾沿岸を焼き払った。一方のビザンツ帝国は、ヴェネツィアとの開戦までは望んでいなかった。 本格的なヴェネツィア・ジェノヴァ間の戦争は、1299年にミラノ条約が結ばれ、ヴェネツィア軍がギリシアで自由に活動できるようになってからであった。
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