ビザンツ帝国と教義論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「エジプトの歴史」の記事における「ビザンツ帝国と教義論争」の解説
「カルケドン公会議」も参照 ローマ帝国は3世紀には政治的・軍事的混乱と内乱の時代(3世紀の危機)を経験し、軍人皇帝と呼ばれる皇帝たちの時代を経て、4世紀には複数の皇帝によって分割統治される体制が常態化した。幾たびかの分割の後、395年に史上最後となる帝国の分割が行われた。エジプトは東帝国の管轄となり、東帝国の中枢はボスポラス海峡沿岸のコンスタンティノープル市に置かれた。この東帝国(東ローマ帝国)は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。「ローマ帝国」と「ビザンツ帝国」の境界は明確ではないが、本記事では以降、ビザンツ帝国と呼称する(ビザンツ帝国の「開始」にまつわる問題は東ローマ帝国を参照)。 西帝国(西ローマ帝国)がフン族やゲルマン人(ゲルマニア人)諸部族の侵入と戦乱で実態を喪失していく中、ビザンツ帝国は強大な政治勢力として存続した。しかし、首都の教会であるコンスタンティノープル総主教庁の権威が増大する一方で、エジプト教会とコンスタンティノープル教会の対立は深刻化した。アレクサンドリア主教テオフィロス(英語版)(在任:384年-412年)によって異端とされたエジプト人修道士たちが自分たちの正しさをコンスタンティノープルに訴え出たのを切っ掛けに、最初の本格的な対立が始まった。この最初の論争はアルカディウス帝(在位383年-408年)と皇后アエリア・エウドクシア(英語版)を巻き込み、最終的にコンスタンティノープル主教ヨハネスの罷免と追放に至った。以降、5世紀前半には権力闘争と一体化した教義論争が繰り広げられた。 2度目の激しい対立は428年にコンスタンティノープル主教に就任したネストリウス(ネストリオス、在任:428年-431年)とアレクサンドリア主教キュリロス(在任:412年-444年)の間で発生し、神とキリストの「神性」と「人性」を巡って論争が行われた。これは単なる神学解釈の問題にとどまらず、「ローマ帝国の首都の教会」であるコンスタンティノープル教会と、福音書記者マルコに起源をもつ伝統的教会であるアレクサンドリア教会のどちらが格上であるか、という問題と結びついていた。キュリロスはローマ教皇ケレスティヌス1世とも連携してネストリウスを罷免に追い込んだが、もう一つの有力教会であるアンティオキア教会がネストリウス派であったため、自らコンスタンティノープルに乗り込んで政治工作を続け、435年にはネストリウスの見解を支持する人々(ネストリウス派)を異端と宣言させることに成功した。しかしこの結果としてアレクサンドリア教会とアンティオキア教会の間に大きな亀裂が残った。 そして単性説の登場によって3度目の対立が燃え上がった。これはキュリロスの影響を強く受けた修道院長エウテュケス(英語版)が、キリストの神性と人性は受肉によって完全に合一され、ただ一つの本性たる神性のみになったとする教義を説いたもので、それを巡って再び激しい議論と闘争が行われた。この争いは451年のカルケドン公会議において教義の複雑な合成と妥協によって収められたが、一連の議論を通じてコンスタンティノープル教会の特権が確認され、アレクサンドリア教会はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ第3の教会に落ちる結果となったため、アレクサンドリア教会にとっては実質的な敗北となった。以降のエジプト教会はエジプト外における影響力を大きく減じていった。しかしエジプト内においてはアレクサンドリア主教がなお大きな力を維持しており、アレクサンドリア主教位を巡って親ビザンツ派(カルケドン派)と反ビザンツ派(反カルケドン派)が激しい対立を続けた。結局、両派の争いは535年頃にそれぞれが別のアレクサンドリア総主教座を設置するという結末を迎え、このうち反ビザンツ派の建てた総主教座が今日も存続しているコプト正教会へと繋がっていく。
※この「ビザンツ帝国と教義論争」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「ビザンツ帝国と教義論争」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。
- ビザンツ帝国と教義論争のページへのリンク