ビザンツ帝国の侵攻と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)
「ホスロー2世」の記事における「ビザンツ帝国の侵攻と敗北」の解説
622年、サーサーン朝がエーゲ海で大きな前進を遂げたにも関わらず、ビザンツ帝国のヘラクレイオスは戦場へ強力な軍事力を投入することが可能となった。624年、彼は北部アートゥルパーターカーン(英語版)へ進み、その地でファッルフ・ホルミズド(英語版)と、ホスロー2世に対する反乱を起こしていたロスタム・ファッロフザード(英語版)の歓迎を受けた。ヘラクレイオスはその後、いくつかの都市とアードゥル・グシュナースプを含む複数の神殿の解体を始めた。 数年後の626年、ラジスターン(英語版)(コルキス)を占領した。その数年後、シャフルバラーズはボスポラス海峡に面するカルケドンに進出し、ペルシアの同盟軍であるアヴァール人とスラヴ人と共にコンスタンティノープルの占領を試みた。この包囲で、サーサーン朝とアヴァール人、スラヴ人の連合軍はこのビザンツ帝国の首都攻略に失敗した。アヴァール人はこの都市を征服するのに十分な忍耐力と技術を持っていなかった。その上、ビザンツ海軍(英語版)が海峡を堅く守っていたために、攻城戦に精通したペルシア人は軍団と攻城兵器をスラヴ人とアヴァール人が展開するボスポラス海峡の対岸へ輸送することができなかった。更にコンスタンティノープルの城壁は攻城塔や兵器に対して有効に機能した。攻撃が失敗したもう1つの理由は、ペルシア人とスラヴ人が海側の城壁を無視し、連絡を確立するために十分強力な海軍を持っていなかったことである。アヴァール人への補給の欠乏は最終的に彼らに包囲戦の放棄を促した。この作戦が失敗した後ホスロー2世の軍は撃破され、彼は628年にアナトリアから軍を撤退させた。 627年のペルシアと突厥の戦争(英語版)に続いて、ヘラクレイオスはペルシア軍をニネヴェの戦いで撃破し、クテシフォンへ向けて進軍した。ホスロー2世は抵抗することなくクテシフォン近郊のダスタギルド(Dastagird)にあった彼の気に入りの邸宅から逃亡した。ヘラクレイオスはダスタギルドを占領し略奪した。
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