ビザンツ帝国の攻勢と689年の条約
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「アブドゥルマリク」の記事における「ビザンツ帝国の攻勢と689年の条約」の解説
シリア北方の国境沿いでは678年にアラブ軍によるコンスタンティノープルに対する最初の包囲戦が失敗して以降、ビザンツ帝国が攻勢に出ていた。679年には30年にわたる平和条約が締結され、ウマイヤ朝は毎年の貢納として金貨3,000枚、馬50頭、奴隷50人を引き渡し、ビザンツ帝国の沿岸地帯で占拠していた前進基地からの軍の撤退を余儀なくされた。さらに、イスラーム教徒の内戦が勃発したことでビザンツ皇帝コンスタンティノス4世(在位:668年 - 685年)はウマイヤ朝に領土の割譲と莫大な貢納を強いることができた。685年に皇帝が自ら軍隊を率いてキリキアのモプスエスティア(英語版)へ向かい、国境を越えてシリアに入る準備を始めたが、シリアでは既に土着のキリスト教徒の集団であるマルダイテス(英語版)が大きな混乱を引き起こしていた。これに対し、アブドゥルマリクは自分の立場が不安定であったことから、ビザンツ帝国へ毎日金貨1,000枚を支払い馬1頭と奴隷1人を引き渡すという条約を結んだ。 ビザンツ帝国はユスティニアノス2世(在位:685年 - 695年、705年 - 711年)の下でより攻撃的な姿勢に出たが、9世紀のイスラーム教徒の歴史家であるバラーズリー(英語版)が記しているように、ビザンツ帝国が直接攻勢をかけたのか、それともマルダイテスを利用してイスラーム教徒に圧力をかけたのかはよくわかっていない。マルダイテスによる略奪行為はレバノン山脈やガリラヤ高地の南部にまで至るシリア一帯に及んだ。これらの襲撃は688年にビザンツ帝国が短期間アンティオキアを奪還したことで最高潮に達した。 イラクにおける失敗はウマイヤ朝を弱体化させていた。そして689年に結ばれた新しい条約はビザンツ帝国にとって非常に有利な内容だった。9世紀のビザンツ帝国の年代記作者であるテオファネスによれば、この条約は685年の貢納義務を繰り返すものであったが、同時にビザンツ帝国とウマイヤ朝はキプロス、アルメニア、およびイベリア(英語版)(現代のジョージア)一帯を共同統治下に置き、これらの地域の歳入を両国間で分配することになった。そしてビザンツ帝国はこの条件と引き換えにマルダイテスを自国の領内に再定住させることを約束した。その一方で12世紀のシリアの年代記作者であるシリア人ミカエル(英語版)は、アルメニアとアーザルバーイジャーンがビザンツ帝国の完全な支配下に置かれることになったと記している。ビザンツ学者のラルフ=ヨハンネス・リーリエ(英語版)によれば、この時点でアーザルバーイジャーンは実際にはウマイヤ朝の支配下に入っていなかったため、恐らくこの協定はアブドゥルマリクがビザンツ帝国に対してアーザルバーイジャーンにおけるイブン・アッ=ズバイル派への攻撃を全面的に容認したことを意味している。また、この協定は双方にとって好都合なものだった。アブドゥルマリクは対立勢力の影響力を減らして北方の国境地帯を守り、一方でビザンツ帝国は領土を獲得して表面的にはイスラーム世界の内戦で勝利したかに見える勢力(ウマイヤ朝)の力を削ぐことができた。およそ12,000人のマルダイテスが実際にビザンツ帝国の領内に再定住したが、多くのマルダイテスは現地に残り、これらのマルダイテスはワリード1世(在位:705年 - 715年)の治世になってようやくウマイヤ朝に服従した。マルダイテスの存在はウマイヤ朝の補給線を混乱させ、ウマイヤ朝はマルダイテスによる襲撃を防ぐために恒常的に軍隊を駐留させる必要があった。 このようなビザンツ帝国の反攻は、初期のイスラーム教徒による征服の前に敗れた人々がイスラーム勢力に対して初めて反撃を挑んだことを意味していた。さらにマルダイテスによる襲撃は、それまでほとんど反乱を起こすことのなかったシリアの大半のキリスト教徒の沈黙に国家がもはや頼ることができないことをアブドゥルマリクとその後継者たちに示した。現代の歴史家であるハーリド・ヤフヤー・ブランキンシップ(英語版)は、689年の条約を「厄介な負担であり完全に屈辱的な条約」と表現し、アブドゥルマリクが戦争時の軍資金に加えて例年の貢納金の支払いも可能であった理由は、かつてのスフヤーン家のカリフによる軍事行動の間に獲得した国庫の資金とエジプトからの歳入に頼ることができたからではないかと推測している。
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