ビザンツ帝国への侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)
「ホスロー2世」の記事における「ビザンツ帝国への侵攻」の解説
「東ローマ帝国とサーサーン朝の戦争 (602-628)」も参照 彼の治世が始まった頃、ホスロー2世はビザンツ帝国と良好な関係にあった。しかし、602年にマウリキウス帝が将軍フォカス(在位:602年-610年)によって殺害され、ローマ(ビザンツ)皇帝位を奪われた時、ホスロー2世はコンスタンティノープル政府に対する攻撃を企図した。表向きの理由はマウリキウス殺害に対する報復であったが、彼の目的が可能な限りのビザンツ帝国領を併合することであったのは明らかである。ホスロー2世はシャフルバラーズと他の最良の将軍たちとともに、604年に迅速にダラ(英語版)とエデッサを占領し、北部でも失われた領土を再占領し、バフラーム・チョービン(英語版)に対抗するための支援の代償としてマウリキウスにホスローが領土を譲渡した591年以前の境界まで国境を押し戻した。喪失領土を回復した後、ホスロー2世は戦場から戻り、軍事作戦はシャフルバラーズとShahin Vahmanzadeganに引き継いだ。サーサーン朝の軍隊はその後、シリアと小アジアを奪い、608年にはカルケドンまで前進した。 610年、アルメニア人ヘラクレイオスは、フォカスに対して反乱を起こし彼を殺害して自らビザンツ帝国の帝位に就いた。彼はその後和平交渉を試み、ホスロー2世の宮廷に外交使節団を送った。だが、ホスロー2世は彼らの申し入れを拒否し、「その王国は余の物であり、余はマウリキウスの息子、テオドシウスを帝位に就けるだろう。(ヘラクレイオスは)余の命令無しに支配権を奪い、我々の物である宝物を我々への貢物として捧げようとしている。しかし余は彼を我が掌中に納めるまで止まることはない。」と述べた。その後、ホスロー2世は外交使節団を処刑した。 613年と614年、将軍シャフルバラーズはダマスカスとエルサレムを包囲占領し、聖十字架(真の十字架)を戦利品として持ち去った。すぐ後に、Shahinはビザンツ軍を何度も撃破しながらアナトリアを進軍し、618年にはシャフルバラーズがエジプトを征服した。ビザンツ帝国は内部対立によってバラバラになっていてほとんど対抗処置を取る事ができず、ドナウ川を越えて帝国に侵入したアヴァール人とスラヴ人にも圧迫されていた。622/3年、ロドス島とエーゲ海東部のいくつかの島がサーサーン朝の手に落ち、コンスタンティノープルは海上からの攻撃の脅威に晒された。コンスタンティノープルに漂う絶望感は、ヘラクレイオスが政府をアフリカのカルタゴへ移転させることを考えるほどのものであった。
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