ビザンツ帝国の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:03 UTC 版)
「イヴァン・ステファン」の記事における「ビザンツ帝国の侵入」の解説
イヴァン・ステファンが即位した後、ミハイル3世の後妻テオドラは子供たちを連れてタルノヴォを離れることを余儀なくされ、コンスタンティノープルの兄弟アンドロニコス3世を頼った。一方、タルノヴォの政変を知ったアンドロニコス3世は会議を開き、セルビアとの休戦と弱体化したブルガリアへの攻撃を決定する。アンドロニコス3世は甥たちの権利の保護を大義名分に掲げ、ブルガリアに侵攻した。 ビザンツ軍はブルガリアの支配下にあったトラキア地方に侵入し、アンヒアロス(現在のポモリエ)、メセンブリア(現在のネセバル)などの黒海沿岸部の都市がビザンツ軍に無血開城をした。
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