内政と国外への軍事行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:05 UTC 版)
「ヤズィード1世」の記事における「内政と国外への軍事行動」の解説
統治体制に関してヤズィードは概ねムアーウィヤが発展させたモデルを継承していた。ムアーウィヤがそうであったように、ヤズィードは親族ではなく地方の総督とアシュラーフに依存した統治を続けた。また、ムアーウィヤの下でバスラの総督を務めたイブン・ズィヤードや財務長官を務めたシリア出身のキリスト教徒であるサルジューン・ブン・マンスール(英語版)を含むムアーウィヤに仕えていた一部の公職者を留任させた。ムアーウィヤと同様に、ヤズィードは支持を得るために各地方から部族の名士 (Wufūd) の代表団を迎え入れたが、その際には恐らく下賜品や賄賂の分配も伴っていた。カリフの政権運営と軍事体制はムアーウィヤの時代と同様に地方に分権化されたままであった。地方は税収の多くを保持し、ごく一部のみがカリフへ送られていた。地方の軍隊は地元の部族から構成され、その指揮権もアシュラーフに委ねられていた。 ヤズィードは要求に応じてナジュラーンのアラブ人キリスト教徒(英語版)の部族に対する税の軽減を認めたが、一方でイスラーム教徒の征服者への支援に対する恩恵として以前のカリフたちから与えられていたサマリア人の民族宗教の共同体に対する特例的な税の免除を廃止した。また、ヤズィードは後にナフル・ヤズィード(Nahr Yazīd)の名で知られるようになった運河を開削することでダマスクスに近いグータの肥沃な大地の灌漑システムを改善した。 ムアーウィヤはその治世が終わる頃にビザンツ帝国と30年間の和平協定を結んだものの、ウマイヤ朝はビザンツ帝国への毎年3,000枚の金貨、50頭の馬、50人の奴隷の貢納と、以前に占領していたロドス島とアナトリアの海岸地帯の前線基地に駐屯しているイスラーム教徒の部隊の撤退を受け入れざるを得なかった。その後、ヤズィードの下でマルマラ海沿いのイスラーム教徒の基地は放棄された。父親の下で開始され、広範囲に及んでいたビザンツ帝国に対する襲撃とは対照的に、ヤズィードはビザンツ帝国との国境を安定させることに重点を置いた。シリアの軍事防衛体制を改善し、ビザンツ帝国の侵入を防ぐために、ヤズィードはシリアの軍事区(ジュンド)の一つであるジュンド・ヒムス(英語版)の一部を分割してシリア北部の国境地帯にジュンド・キンナスリーン(英語版)を設置し、守備隊を駐屯させた。 ヤズィードは北アフリカ中央部のイフリーキヤを征服したものの、ムアーウィヤによって解任されていたウクバ・ブン・ナーフィ(英語版)を再びイフリーキヤの総督に任命した。ウクバは681年に北アフリカ西部への大規模な遠征を開始した。ベルベル人とビザンツ帝国軍を破ったウクバは大西洋岸に到達し、タンジェとヴォルビリスを占領した。しかし、ウクバはこれらの地域に対する恒久的な支配を確立することはできなかった。イフリーキヤに戻ったウクバはヴェスケラの戦い(英語版)でベルベル人とビザンツ帝国の部隊による奇襲を受けて殺害され、征服した領土を失う結果となった。同じ681年にヤズィードはイブン・ズィヤードの兄弟であるサルム・ブン・ズィヤード(英語版)を北東の国境地帯に位置するホラーサーンの総督に任命した。サルムはトランスオクシアナ(中央アジア)においていくつかの軍事作戦を指揮し、サマルカンドとホラズムを襲撃したものの、いずれの地に対しても恒久的な支配の足掛かりを得ることはできなかった。そして683年のヤズィードの死とその後の東方地域の混乱に伴い、これらの軍事活動は収束した。
※この「内政と国外への軍事行動」の解説は、「ヤズィード1世」の解説の一部です。
「内政と国外への軍事行動」を含む「ヤズィード1世」の記事については、「ヤズィード1世」の概要を参照ください。
- 内政と国外への軍事行動のページへのリンク