統治体制
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「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「統治体制」の解説
13世紀の歴史家のイブン・アル=アミード(英語版)によれば、「サーリフはすべての(国の)問題を整理し、公正な統治手法を導入した」。サーリフは中世のイスラーム国家において典型的であった方針に則って自らの政府を組織した。サーリフは継続的な財政運営を行い、一般市民と軍事に関する諸案件を処理するためにワズィール(宰相)を任命し、司法の諸事案を監督するためにシーア派のカーディー(裁判官)を任命した。さらに、シドン、バールベック、ホムス、ラファニーヤ、およびアッカールを統治する代官を任命した。サーリフのワズィールはタズルース・ブン・アル=ハサンという名のキリスト教徒であり、13世紀のアレッポの歴史家であるイブン・アル=アディーム(英語版)によれば、タズルースはサーリフに対してかなりの影響力を持ち、サーリフのすべての軍事行動において同行していた。アレッポのキリスト教徒は後のミルダース朝の統治者たちの下で主にワズィールの地位を独占していたとみられ、キリスト教徒の共同体に属する人々は政権の経済面におけるかなりの部分を統制していた。 キリスト教徒がサーリフのアミール政権において重要な役割を果たしていたという事実は、サーリフが地元のキリスト教徒の支援に依存していたこと、アレッポに少数派でありながらも規模の大きいキリスト教徒の共同体が存在していたこと、そしてビザンツ帝国との友好関係を確立しようと努めていたことを示している。キリスト教徒の利益を確保する上でのタズルースの影響力はアミール政権内の異なる集団間の緊張を引き起こした。1026年もしくは1027年にマアッラト・アン=ヌウマーンでイスラーム教徒とキリスト教徒が衝突を起こしていた最中に、サーリフは性的な虐待を受けたとしてイスラーム教徒の女性に告発されたキリスト教徒が所有するワインの販売店を破壊した罪で、その町の出身であるイスラーム教徒の名士たちを投獄した。その後、サーリフは兄弟が囚人たちの中に含まれていた詩人のアル=マアッリーの執り成しを受けて投獄した者たちを釈放した。 サーリフがアレッポのアミール政権に加えた重要な行政上の改革に関する情報はほとんど残っていない。サーリフの唯一の知られている制度的な革新は、一般に名望家の出身者からなり、常任のアレッポの市民の代表者としてサーリフの側近を務めたシャイフ・アッ=ダウラ(国家の首長)もしくはライース・アル=バラド(筆頭市民)と呼ばれる職位の設置であった。この職位はキラーブ族の有力氏族のアミールに対する補佐的な役割を果たしていたシャイフの地位を手本としていた。サーリフはサーリム・ブン・アル=ムスタファードをその職に任命し、都市の下層民と中流階級の武装した若い男性からなるサーリムのアフダースを警察組織として利用した。アフダースはサーリフに協力したものの、アフダース自身は独立した勢力として存在していた。また、サーリフは治世中のある時期にトゥルク人のギルマーンを確保したものの、サーリフのギルマーンに関する詳細は史料に残されていない。
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統治体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 06:11 UTC 版)
成漢の皇帝権力は必ずしも強大とは言えなかった。理由は巴人である李氏に秦州(現在の甘粛省東部)の土着勢力、益州の土着豪族により構成された連合政権であり、悪く言えば豪族反乱集団、一種の流寓政権とまで言えた。政治機構は中国王朝に倣って丞相以下百官を設置し、地方には郡県制を導入した。ただし安定したのは李雄の時代だけであり、その死後は政権内部が自立確保派と東晋帰順派に分裂して激しく対立した。これは成漢の政権基盤に漢族が多く、晋が東晋として安定政権を築くと逆に成漢の正当性自体が問題化したためであり、李雄没後の短期間にわたるクーデターにも常に東晋帰順派が絡んでいたとされている。結局、李雄の死後、滅亡まで成漢は内部対立が解消できずに滅んだのである。
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