統治体制の移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:06 UTC 版)
セオドロス2世の隠退と修道院入りの問題を期に専制公領は単独の専制公ではなく、複数の専制公による共同統治の体制に移行した(1428年)。この時に就任したコンスタンディノス(後の皇帝コンスタンディノス11世パレオロゴス)によって、モレアス専制公領は大きく発展を遂げる。彼は同じく共同統治者に就任した末弟ソマスと協力してアカイア公国他ラテン勢力との戦いを有利に進め、1429年にパトラを占領し、翌1430年にはアカイア公国の全土を併合した。これによって、点在するヴェネツィア人の拠点を除く半島全土が東ローマ・ギリシア人の手に戻り、「中世ヘレニズム」の一つの極点を示す事となった。 モレアス専制公領の政治的発展は、同時に文化的発展ももたらした。その中心はミストラスで、ペリヴレプトス修道院、パンダナサ修道院など多数の聖堂・修道院が建てられ、その内部は時代を代表する写実的な画風のフレスコ画で飾られた。文学・哲学などの学芸も発展した。政治的にはオスマン帝国に従属し包囲に揺れるコンスタンティノポリスの閉塞的な状況を嫌って多くの学者がミストラスに移住し、学芸の発展を刺激した。その代表がゲオルギオス・ゲミストス・プリソン(1360年頃 - 1452年)で、彼はプラトン哲学を研究する内に古代ギリシアを再発見し、東ローマ帝国の再建を「ギリシア民族の再生」によって達成すべきとの結論に至った。彼は『マヌイル2世パレオロゴス帝宛、ペロポニソスに於ける国政に関する建白書』などの著作を著して皇帝、専制公などの為政者に社会改革を説いたが、多くは採用されず一部が実行に移されたのみであった。また彼の思想はあまりにも急進的で、異教的であったという事で教会当局から著作を焚書処分にされたりもしている。しかし、彼のような人物の活動を許す、ある種自由な気風がミストラスにはあり、それがここをコンスタンティノポリス、セサロニキと並ぶ、或いは凌ぐ「パレオロゴス朝ルネサンス」の中心地たらしめていた事も確かである。 モレアス専制公領の発展は後期東ローマ帝国に於けるギリシア的傾向「民族意識」の顕著な発露と考えられている。実際、ペロポニソス半島には、スラヴ人との同化を免れたかその影響が低く、帝国の他地域と比べてもギリシア的意識や習慣の強かった地域がごく一部ながら存在していたとみられる。一方で、半島全体としては多民族混淆の状態にあり、ギリシア人(ペロポニソス人)に加えて、イタリア人、スラヴ人、アルバニア人、ロマ、ユダヤ人が居住していたとの記録もある。特にアルバニア人は専制公によって政策的に相当数の移民が為され、社会的貢献と影響力の点で大きなものがあった。従って、専制公領時代のペロポニソス半島には、若干のギリシア「民族主義」的傾向と、多民族社会という二面性が存在していたといえる。
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