ふん‐しょ【×焚書】
ふんしょ【焚書】
焚書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 03:55 UTC 版)
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焚書(ふんしょ)は、書物焼却行為の中でも、思想弾圧や不快表現抑制の手段として、書物を公開的に焼却する行為、儀式的書物焼却[1][2][3][4][5]。書物の公開処刑[6]。
歴史的に書物公開焼却が行われた著名例として、秦の焚書坑儒や文化大革命、ナチス・ドイツの焚書儀式[4]、悪書追放運動(漫画バッシング)時の手塚治虫作品などを教師やPTAによる校庭で公開焼却[2][3]、南ベトナム陥落による赤化統一時の西洋書物や性的書物の公開焼却[7]などがある。
主な公開焼却例
始皇帝の焚書
焚書という言葉の由来であり、公開処刑の儀式のように見せしめるように行われた[6]。秦の始皇帝は、紀元前213年に李斯の提案にしたがって、焚書を行った。提案の内容は、次の通りであった[8]。
- 秦以外の諸国の歴史書を焼却する。
- 詩経、書経及び諸子百家の書は、博士官(中国語: 博士 (官職))のみがこれを所有する。
- 民間人は、医学・占い・農業以外の書物を博士官に渡し、博士官はそれを焼却する。
- 30日以内に博士官に渡さなかった場合、入墨の刑に処する。
- 法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。
始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す[注 1]などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され、研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがち[誰によって?]であるが、他の諸子百家の書物も燃やされた[要出典]。
ナチス・ドイツの焚書

ナチス・ドイツの行った焚書では、カール・マルクスなどの社会主義的な書物や、ハインリヒ・ハイネ、エーリッヒ・ケストナー、ハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、エーリヒ・マリア・レマルク、クルト・トゥホルスキー、カール・フォン・オシエツキーなどの、「非ドイツ」的とみなされた多くの著作が燃やされた。
ドイツ文学者の山本尤によると、ナチスドイツは始皇帝のように公開処刑的に、そして儀式のように公開書物焼却をしたため、「焚書」と表現が相応しいと指摘している[4]。
また売れない画家としての前歴を持つアドルフ・ヒトラーは、それまでの芸術の規範を飛び越えた近代的な芸術を退廃芸術として弾圧し、それに代わって肉体美や農村などを美化した「古き良き」芸術を大ドイツ芸術展を開いて称揚した[要出典]。
創作における焚書
- 華氏451度
レイ・ブラッドベリ著。本の所持、読書が禁じられた世界を描いたディストピア小説。華氏451度は、本が自然発火する温度。書物の所有が発覚した場合、それらは直ちに昇火士(焚書官、ファイアマン)の手によって焼却される。
- 図書館戦争シリーズ
有川浩著。公序良俗に反する表現を取り締まる法律「メディア良化法」が存在し、良化特務機関(メディア良化隊)によって本が狩られる近未来の日本が舞台の小説。劇場アニメ版、実写映画版では良化隊に没収された書籍が焼却されている。
脚注
出典
- ^ 北原保雄『明鏡国語辞典』(第二版)大修館書店、2010年。
- ^ a b “虫ん坊 2010年5月号(98):TezukaOsamu.net(JP)”. TezukaOsamu.net(JP). 2025年3月29日閲覧。
- ^ a b “「有害指定図書」の是非 教育者とクリエイターの“70年戦争””. ORICON NEWS (2018年5月10日). 2025年3月29日閲覧。
- ^ a b c 「独裁者ヒトラーの全貌」 p289-290 荒地出版社 2006年
- ^ “焚書(フンショ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年3月29日閲覧。 “公開の場で当該の書物を焼き捨てる行為,儀式をいう。”
- ^ a b 「秦の始皇帝」p33, 吉川忠夫 2002年
- ^ 「諸君第10~12 号 -p254 1993 年·
- ^ 司馬遷. 「史記」『巻六 第六秦始皇本紀』
注釈
- ^ 当時は、紙が発明されていなかったので、もっぱら木簡や竹簡に文章が書かれていた。そのため、壁に埋めて、上から塗りこめても書物が劣化する可能性は低かった。
関連項目
- 焚書
- エレミヤ書 - 第36章23節に、王が巻物を燃やす様子の記述がある。
- 焚書坑儒
- ナチス・ドイツの焚書
- 国際クルアーン焼却日
- 虚栄の焼却
外部リンク
- Dokumentation der Bücherverbrennung 1933 in der Universitätsstadt Göttingen
- GHQ焚書・50音別 - 戦後GHQによって焚書された7769書のうちオンラインで読めるもの
焚書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:24 UTC 版)
ここで再び登場するのが中青協である。中青協はこの年の5月を「青少年育成保護月間」と定め、中青協、東京母の会連合会、日本子どもを守る会、東京防犯協会連合会などが活発に活動した。母の会連合会や東京防犯協会連合会は事実上は警察が運動を仕切っていた団体であることが知られており、特に東京母の会連合会は5月から活動を更に活発化させ、家庭から性を扱った雑誌を一掃すると称して「見ない、読まない、買わない」の「三ない運動」を展開した。 東京母の会連合会は運動を過激化させ、最終的には子供向けのマンガ雑誌の焚書にまで発展した。 「三ない運動」を始めたのは、赤坂少年母の会(東京母の会連合会の1支部)で5月のことである。エロ・グロ雑誌の追放を主張した運動で、「見ない・買わない・読まない」という意味から「三ない運動」と名付けられた。これが、以後続く焚書の直接のきっかけになった。ただし、その運動の当初の理由は若干複雑で、当時の住宅事情から、大人が買った「性雑誌」がどの家にも置いてあり、それを子供が持ち出して友達同士で回し読みするので困る、ということもあったようである。 同会の会長は黒川博子で、黒川武雄(元厚生大臣)の妻である。最初は、身の回りにある問題雑誌・問題書籍をなくそうと主張して、35冊を焚書した。当初、母の会が問題にしたのは、カストリ雑誌や大人向けの赤本やゾッキ本で、焚書した冊数もわずかなものだったが、数ヶ月で運動は大規模化し、運動による焚書の冊数も巨大なものになっていった。 この運動は裏で警察が操っていたことが知られている。実際に、焚書事件からかなり後の1963年(昭和38年)に神崎清(日本子供を守る会副会長)が書いた文章によると、「婦人会を中心とする運動」は「常に警察の権力と結合している」と述べており、さらに「お膳立ては全部警察の方でして、その筋書きに従っているだけで自主性がないわけです」と内情を語っている。 警察関連の動きに関してより具体的に言うと、「三ない運動」が始まる数ヶ月前から警察の側で奇妙な動きが見られた。養老絢雄(警視庁防犯部長・当時)が新聞に登場して、「不良出版物」を取り締まれ、という論を展開した。2月17日付朝日新聞では、「世論の支持さえあれば、いつでもビシビシ取り締まる用意がある」と発言、3月2日付朝日新聞の「論壇」欄では、出版の自由は「その性格が十九世紀的な、いわば国家に先行する純粋に個人的な自然の権利であるとは、到底考えられない」と書き、その自由は制限されて当然という見解を披瀝している。更に、「憲法に保障された自由を主張できる本来の出版物のラチ外にあるものとすら考えたい」とも書き、出版の自由・表現の自由が保障されない表現物があっても問題ないとの考えを述べている。 当時の朝日新聞の報道によると、2ヵ月後の7月には、同運動に参加した3千人の会員が続々と供出し、約五百冊が焚書された、という。その後も焚書は続き、母の会連合会は「悪書追放大会」を開いて、エプロン・かっぽう着姿で約6万冊の雑誌やマンガを焚書するまでになった。
※この「焚書」の解説は、「悪書追放運動」の解説の一部です。
「焚書」を含む「悪書追放運動」の記事については、「悪書追放運動」の概要を参照ください。
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