学問・思想
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寛政異学の禁 柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が広まっていった(p99)。 処士横議の禁 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。 学問吟味 江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792年)から慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。これは幕末になればなるほど、学問吟味合格者のなかから、対外関係を中心に新たな局面に対応できる有能な幕臣が排出されていくことになる(p100-101)。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。 文教振興 改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻ることを目的とし、『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。また、近江堅田藩主で若年寄として松平定信とも親交のあった堀田正敦など好学大名も文教振興を行った。
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学問・思想
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足軽身分の平賀源内などとも親交を持ちパトロンになった。田沼時代の自由な気風のなか、江戸では大槻玄沢が蘭学塾を開き、安永3年(1774年)には杉田玄白、前野良沢らがオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行、市井では庶民文化が興隆する。
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学問・思想
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江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。 江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。 儒学 論語をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、藤原惺窩とその弟子林羅山を重用したことで朱子学の研究が本格化した。幕府は昌平坂学問所を徳川家私設の学問所として設立した。民間では「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹や、朱子の「祖述」を旨とした山崎闇斎の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。へルマン・オームスは朱子学と神道を統合した闇斎学派によって「徳川イデオロギー」が完成したとする。松平定信は寛政異学の禁で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である懐徳堂を公認した。陽明学は中江藤樹の弟子である熊沢蕃山が学んでいたほか、大塩平八郎や吉田松陰ら幕末の志士にも学ばれた。 朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。山鹿素行は聖学と称して古学派の先駆者となり、貝原益軒は朱子学教説への懐疑を露にした。伊藤仁斎と伊藤東涯は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。荻生徂徠の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ富永仲基や山片蟠桃は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した。 国学 儒学:朱子学、陽明学、古学、古義学、古文辞学 国学、尊王論、宝暦事件、明和事件 心学 水戸学 蘭学、寛政異学の禁、シーボルト事件、蛮社の獄 和算
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学問・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:05 UTC 版)
延佳は、中世以来の伊勢神道の教学復興に注力し、そこに儒教の思想など新たな解釈を加えることで「後期伊勢神道」と呼ばれる教学を形成した。 延佳は、『陽復記』で「それ神道と云(いふ)は、人々日常の間にありて、一事として神道にあらずと云(いふ)事なし」と述べ、神道とは日本人の日常生活の中にある道であり、日本人の生き方そのものであると主張し、『太神宮神道或問』では「神を祭る法などは禰宜神主のする事にて、神道と云(いふ)は上一人より下万民まで行ふ旦暮の道なり」と述べ、神社の祭儀はあくまで神主が行うことであり、それだけを神道とするのではなく、身分が高い者も低い者も日々の自らのつとめを全うすることこそが神道だと説いた。 このように、延佳の思想は日常の中に神道を見出し、神道を民衆一般に解放するところに特徴があった。 また、儒教や仏教については、日本人の生活規範である神道を踏まえた上で、礼儀や徳などを身につけるために、神道の「羽翼」として補助的に学んで用いるべきであると主張した。
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