学問・思想とは? わかりやすく解説

学問・思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)

寛政の改革」の記事における「学問・思想」の解説

寛政異学の禁 柴野栗山西山拙斎らの提言で、朱子学幕府公認学問定め聖堂学問所官立昌平坂学問所改め学問所においての陽明学古学講義禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問異学として禁じ傾向広まっていった(p99)。 処士横議の禁 在野論者による幕府対す政治批判禁止した海防学者林子平などが処罰された。さらに贅沢品取り締まる倹約徹底公衆浴場での混浴禁止など風紀粛清出版統制により洒落本作者山東京伝黄表紙作者恋川春町版元蔦屋重三郎などが処罰された。 学問吟味 江戸幕府旗本御家人層を対象実施した漢学筆答試験実施場所聖堂学問所昌平坂学問所)で、寛政4年1792年)から慶応4年1868年)までの間に19実施された。試験の目的は、優秀者に褒美与えて幕臣の間に気風行き渡らせることであったが、慣行として惣領非職の者に対す役職登用が行われたことから、立身糸口として勉強動機付け役割果たした。これは幕末になればなるほど、学問吟味合格者のなかから、対外関係を中心に新たな局面対応できる有能な幕臣排出されていくことになる(p100-101)。類似の制度として、年少者対象にした素読吟味寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。 文教振興 改革主導するにあたって幕政初期精神立ち戻ることを目的とし、『寛政重修諸家譜』など史書地誌編纂資料整理保存などが行われた。また、近江堅田藩主で若年寄として松平定信とも親交のあった堀田正敦など好学大名文教振興行った

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学問・思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:35 UTC 版)

田沼時代」の記事における「学問・思想」の解説

足軽身分平賀源内などとも親交持ちパトロンになった田沼時代自由な気風のなか、江戸で大槻玄沢蘭学塾開き安永3年1774年)には杉田玄白前野良沢らがオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した解体新書』を刊行市井では庶民文化興隆する。

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学問・思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 08:55 UTC 版)

江戸時代」の記事における「学問・思想」の解説

江戸時代には、戦乱静まり社会安定し平和になったことと経済活動活発になったことにより、人々言論活動活発になり、多様な学問開花した。また経済の発展による庶民台頭は、学問担い手生むこととなった江戸時代学問特徴としては、研究者個人直感的連想的思考を軸とする中世的な発想研究進めるのではなく文献などに基づき実証的研究するという態度現れたことが挙げられる。また一部には身分制度否定したりする思想現れた。このように中世離れ近代に近い時期として、江戸時代歴史の上近世定義されている。 江戸時代中期になると、藩政改革一環として藩校開学各地行われるうになる基本的に藩士の子弟に朱子学剣術奨励徹底するものだが、一部には医術西洋技術講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶知識階級庶民の子どもを集めて基本的な読み書き教えた。この寺子屋増えていったことで日本識字率高まっていき、幕末から明治にかけての近代化支え原動力となったまた、京都大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎古義堂を開くなど、私塾構えるところもあったが、江戸中期から郷村村塾といわれる私塾出てきた。 儒学 論語はじめとする儒教経典古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者連れ帰られたこと、また、徳川家康論語愛し藤原惺窩とその弟子林羅山重用したことで朱子学研究本格化した。幕府昌平坂学問所徳川家私設学問所として設立した民間では「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹や、朱子の「祖述」を旨とした山崎闇斎学派存在し民間にも朱子学伝わっていった。へルマン・オームスは朱子学神道統合した闇斎学派によって「徳川イデオロギー」が完成したとする。松平定信寛政異学の禁昌平坂学問所での朱子学以外の講義禁じ大坂町人学問所である懐徳堂公認した陽明学中江藤樹弟子である熊沢蕃山学んでいたほか、大塩平八郎吉田松陰幕末の志士にも学ばれた。 朱子学勢いづくに従ってその批判起こった山鹿素行聖学称して古学派先駆者となり、貝原益軒朱子学教説への懐疑露にした。伊藤仁斎伊藤東涯朱子によらず経典書かれ中国古代字句の意味明らかにする古義学打ち立てた荻生徂徠古文辞学はこれらを大成するものであり、古代聖人による「物」(事物儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ政治的な復古主義主張した懐徳堂学んだ富永仲基山片蟠桃儒教・仏教神道全て否定する無鬼論を主張した国学 儒学朱子学陽明学古学古義学古文辞学 国学尊王論宝暦事件明和事件 心学 水戸学 蘭学寛政異学の禁シーボルト事件蛮社の獄 和算

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学問・思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:05 UTC 版)

出口延佳」の記事における「学問・思想」の解説

延佳は、中世以来伊勢神道教学復興注力し、そこに儒教思想など新たな解釈加えることで「後期伊勢神道」と呼ばれる教学形成した。 延佳は、『陽復記』で「それ神道と云(いふ)は、人々日常の間にありて、一事として神道にあらずと云(いふ)事なし」と述べ神道とは日本人日常生活中にある道であり、日本人生き方そのものであると主張し、『太神宮神道或問』では「神を祭る法などは禰宜神主のする事にて、神道と云(いふ)は上一人より下万民まで行ふ旦暮道なり」と述べ神社祭儀はあくまで神主が行うことであり、それだけ神道とするのではなく身分が高い者も低い者も日々の自らのつとめを全うすることこそが神道だと説いたこのように、延佳の思想日常中に神道見出し神道民衆一般に解放するところに特徴があった。 また、儒教仏教については、日本人の生活規範である神道踏まえた上で礼儀や徳などを身につけるために、神道の「羽翼」として補助的に学んで用いるべきであると主張した

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