江戸中期とは? わかりやすく解説

江戸中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:24 UTC 版)

新川 (東京都中央区)」の記事における「江戸中期」の解説

明暦3年1657年明暦の大火により霊岸島一帯焼失万治2年1659年深川移転大名屋敷郊外転出した跡地には火災対策都市計画のため退去せざるを得なくなった住民移り住み、以下の町成立した霊岸島長崎町一・二丁目 - もと京橋町と鍛冶町の間にあった火除地となり、寛文元年1661年)または寛文3年1663年)に本所霊岸島分かれて移転した霊岸島銀町一~四丁目 - 日本橋竜閑川沿いに防火土手建設のため、本銀町から一部住民移転して成立した霊岸島銀町四丁目円覚寺屋敷 霊岸島塩町 - 同様に大伝馬塩町から一部住民移転して成立した霊岸島四日市町 - 同様に四日市町から一部住民移転して成立した霊岸島浜町 - 日本橋浜町浜町川掘削のため、一部住民移転して成立した移転前の浜町を元浜町霊岸島浜町新浜町と呼ぶこともあった。 霊岸島川口町 - もと築地にあったが、元禄年間築地米蔵同所移されたため、下総高岡藩井上家屋敷跡成立した万治3年1660年)には新川掘削され沿岸には下り酒問屋等が集まった一方宝永年間には越前堀亀島川を繋ぐ堀が埋め立てられ東湊町一・二丁目に組み入れられた。

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江戸中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:17 UTC 版)

浮世絵」の記事における「江戸中期」の解説

1765年明和2年)から寛政年間(1789-1801年)を指す。 1765年明和2年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美し色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれるうになる上述奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵生み出す必要条件だった 。 春信錦絵は、絵暦以外でも、和歌狂歌『源氏物語』伊勢物語『平家物語』などの中世文学を、当世風俗画当てはめて描く「見立絵 」が多く教養人でないと、春信意図理解できなかった。パトロン対象とした、高価格摺物であり、ユニセックス人物描写含め庶民購入対象にはしていなかった。 墨の代わりに露草等の染料用いた水絵」(みずえ)が、明和年間初頭流行り春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分褪色ししまっている。 勝川春章安永年間(1772-81年)に細判錦絵にて、どの役者見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な鳥居派のそれを圧倒した同様の手法で、相撲絵市場席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画軸足移し武家購入するほど、高額でも好評であった弟子春好 は、役者大首絵初め制作した鳥居清長書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像大判2・3続き表現した前景群像後景名所図は、違和感なく繋がり遠近法理解が、前世代奥村らより進んだことが分かる鳥居派として、役者絵描いたが、上述組み合わせ応用し役者後ろ出語り三味線太夫)を入れ込む工夫をした。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵 のように極端な横長サイズに、愛す男女トリミングして入れ込んだ斬新な構図である 。 喜多川歌麿名声を得るのは、版元蔦屋重三郎組み1791年寛政3年)頃に、美人大首絵版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井美人の名前を出せないお触れ出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした無線摺」、花魁から最下層遊女まで描く等、さまざまな試み蔦重の下で行った。また絵入狂歌本画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年文化元年)、『絵本太閤記』が大坂摘発され手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した1790年寛政2年)、「寛政の改革」の一環として改印あらためいん)制度ができた。以降松平定信老中辞す1793年寛政5年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた上述歌麿受けた、「市井美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、1872年明治5年)まで続く。 1795年寛政7年5月蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名絵師に、大部でかつ高価な黒雲母大判任せるのは異例の事である。版元判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時歌舞伎座不況あえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。蔦重その間隙を縫ったのであるこれまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者美化して描いたが、写楽は、悪役醜さや、女形老い描いてしまった。28点が当時、どう評価されたかは不明だが、その後の作品は、登場時の「あく」が薄れ定紋屋号誤り見られるようになり、太田南畝ほか『浮世絵類考』(1802年享和2年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった活動期間10か月以下だった。 対して歌川豊国は、典型的な美化し役者絵や、曲亭馬琴山東京伝らの読本挿絵描いて商業的成功を得る。『絵本太閤記』で歌麿と共に摘発されたが、さほど悪影響受けず歌麿没後は、美人画でも彼の隙間埋めることとなる。多く弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派基礎を築く。

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