江戸中期
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「新川 (東京都中央区)」の記事における「江戸中期」の解説
明暦3年(1657年)明暦の大火により霊岸島一帯は焼失、万治2年(1659年)深川に移転、大名屋敷も郊外に転出した。跡地には火災対策の都市計画のため退去せざるを得なくなった住民が移り住み、以下の町が成立した。 霊岸島長崎町一・二丁目 - もと京橋桶町と鍛冶町の間にあったが火除地となり、寛文元年(1661年)または寛文3年(1663年)に本所と霊岸島に分かれて移転した。 霊岸島銀町一~四丁目 - 日本橋竜閑川沿いに防火土手建設のため、本銀町から一部住民が移転して成立した。 霊岸島銀町四丁目続円覚寺屋敷 霊岸島塩町 - 同様に大伝馬塩町から一部住民が移転して成立した。 霊岸島四日市町 - 同様に四日市町から一部住民が移転して成立した。 霊岸島浜町 - 日本橋浜町で浜町川掘削のため、一部住民が移転して成立した。移転前の浜町を元浜町、霊岸島浜町を新浜町と呼ぶこともあった。 霊岸島川口町 - もと築地にあったが、元禄年間築地に米蔵が同所に移されたため、下総高岡藩井上家屋敷跡に成立した。 万治3年(1660年)には新川が掘削され、沿岸には下り酒問屋等が集まった。一方宝永年間には越前堀と亀島川を繋ぐ堀が埋め立てられ、東湊町一・二丁目に組み入れられた。
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江戸中期
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1765年(明和2年)から寛政年間(1789-1801年)を指す。 1765年(明和2年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれるようになる。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価で丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵を生み出す必要条件だった 。 春信の錦絵は、絵暦以外でも、和歌や狂歌 、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの中世文学を、当世風俗画に当てはめて描く「見立絵 」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。パトロンを対象とした、高価格の摺物であり、ユニセックスな人物描写も含め、庶民を購入対象にはしていなかった。 墨の代わりに露草等の染料を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている。 勝川春章は安永年間(1772-81年)に細判錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、相撲絵市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった。弟子の春好 は、役者大首絵を初めて制作した。 鳥居清長は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに出語り(三味線と太夫)を入れ込む工夫をした。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵 のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である 。 喜多川歌麿が名声を得るのは、版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人大首絵を版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入狂歌本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本太閤記』が大坂で摘発され、手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した。 1790年(寛政2年)、「寛政の改革」の一環として、改印(あらためいん)制度ができた。以降も松平定信が老中を辞す1793年(寛政5年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、1872年(明治5年)まで続く。 1795年(寛政7年)5月、蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例の事である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時、歌舞伎座が不況にあえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。蔦重はその間隙を縫ったのである 。これまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者を美化して描いたが、写楽は、悪役の醜さや、女形の老いを描いてしまった。28点が当時、どう評価されたかは不明だが、その後の作品は、登場時の「あく」が薄れ、定紋や屋号の誤りも見られるようになり、太田南畝ほか『浮世絵類考』(1802年・享和2年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった。活動期間は10か月以下だった。 対して、歌川豊国は、典型的な美化した役者絵や、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて、商業的成功を得る。『絵本太閤記』で歌麿と共に摘発されたが、さほど悪影響は受けず、歌麿没後は、美人画でも彼の隙間を埋めることとなる。多くの弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派の基礎を築く。
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