天明年間とは? わかりやすく解説

天明年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:22 UTC 版)

菅江真澄」の記事における「天明年間」の解説

委寧乃中路イナノナカミチ) - 1783年天明3年3月中旬信州飯田から天龍川右岸沿って北行し、中仙道洗馬宿から5月24日洗馬到着し長興寺近く釜井庵(かまいあん)を拠点として近辺遊覧した12月半までの日記信濃以前日記盗賊盗まれた。釜井庵現存し本洗馬歴史の里資料館として当時のままの姿で残されている。 わがこゝろ - 1783年天明3年8月13日から数日間姥捨山で月を見て善光寺参拝した記録。歌が主になっている。 洲輪の海(スワノウミ) - 1784年天明4年1月15日諏訪神社御頭祭」を記録している。『ふてのまゝ』の中に収められている断篇で、写本の「秀雄北越記本」と「熊谷本」が現存する。 いほの春秋(イオノハルアキ) - 1784年天明4年春に洗馬の可摩永(釜井)という家で、信濃国来てから経験した一年間四季折々の自然の推移人生諸相織りまぜ随筆風に描いた作品。本洗馬民俗記録されている。 來目路乃(クメジノハシ) - 1784年天明4年6月末に本洗馬発って松本経て筑摩の湯を見て穂高神社参詣し有明山の麓を通り登波離橋訪れ、曲渡り仁科神明宮参詣し姨捨山越えて善光寺参拝して戸隠山登り野尻湖見て関川越えて7月30日越後国新井まで出た紀行文。曲久米路のともいうところからこの書を名付けたとある。 齶田假寝アキタノカリネ) - 1784年天明4年9月初に鼠ヶ関から鶴岡入り羽黒山参拝し最上川下り酒田吹浦村象潟本荘矢島町西馬音内経て雄勝郡柳田村達し草薙家逗留の中で新年迎えるまでの日記小野古里 - 1785年天明5年春に雄勝郡滞在中、湯沢院内銀山等を見学し小野小町生地との伝説がある上関村訪問した日記土地風俗詳細に記録されている。(その後横手角館阿仁鉱山形、久保田追分男鹿能代岩館移動した思われるが、その間日記発見されていない。) 頭賀濱風(ソトガハマカゼ) - 1785年天明5年8月中の紀行文秋田津軽の境である木蓮寺から筆を起こし深浦を過ぎ、奥入瀬から山中入り見入観音堂参拝鰺ヶ沢五所川原弘前入って土地文人交わり黒石から浪岡では盗賊狩りの話を聞き青森出て北海道渡ろうとするも善知鳥神社占い結果や、天明の飢饉により松前藩から逃げてきた物貰い集団見て断念する大鰐温泉から矢立峠越え秋田藩長走で宿を取り扇田村宿泊し十二所越え鹿角との境の沢尻滞留し日記津軽藩の床前では、天明の飢饉餓死した人の骨が積み上がっているのを見て長走近くでは津軽から秋田逃げてきた乞食一家に、なにがしかの銭を与えた。 けふの狭布(ケフノセバヌノ) - 1785年天明5年)前の日記続いて盛岡藩入り鹿角郡錦木塚見て村長から狭布のいわれを聞き花輪では紫根染めの話を聞き大里では「錦木観音由来記」を手に入れている。さらに、小豆沢大日霊貴神社参拝しだんぶり長者由来聞く湯瀬宿泊し田山村では盲暦記録し浄法寺村観音堂末の松山等を見学し沼宮内入り、さらに巻堀村金勢明神見て盛岡経て花巻では宿泊した医師の家の火事遭い黒沢尻町和賀神社参拝し仙台藩(旧江刺市片岡まで移動した紀行文駒形 - 1786年天明6年正月からの日記前沢駒形の庄、村上良知の家にいて、この地方正月行事中尊寺祭りの様子詳細に記録されている。1月20日には毛越寺祭典があった。真澄はまず中尊寺金色堂参拝した後に、夕暮れになって毛越寺参拝し祭典様子詳細に記録した鶴形風習弁慶の墓の印を見る。26日達谷山王岩屋達谷窟)を見る。27日毛越寺旧蹟を見に出かける28日毛越寺の僧が比叡山登るので、真澄故郷への手紙を依頼した2月7日中尊寺出かける。 はしわの若葉 - 1786年天明6年4月から6月日記大原一関市大東町)の芳賀慶明邸に宿をとりながら付近見物し正方寺や黒石寺詣で、(一関市)山の目の配志和神社詣でた。4月27日植田義方からの手紙が届いている。6月前沢鈴木家家系由来聞き大原戻り室根山登る。 はしわの若葉続 - 1786年天明6年7月大船渡出て気仙沼につき、五十鈴神社管弦窟を見て大島渡り8月には山の目に戻る様子記録されている。8月11日からは山の目を出て石巻通り松島着いた渡月橋通って雄島で月を見る。瑞巌寺参拝し、舟で塩竃上陸塩竃神社多賀城跡見学し、「宮城野」や「末の松山」「十府」などの歌枕の地を見学し9月18日に山の目に戻る。この一巻仮題である。 膽澤邊(ユキノイザハベ) - 1786年天明6年10月から12月までの日記陸中山目大槻氏に滞在し前沢水沢辺の知友の家を往来している。この年は、藤原秀衡600回忌中尊寺行われたため、数々儀式があった。 (この書の後の天明7年から天明8年5月までの行動明らかになっていない。ただ、松島をさらに2度訪れて福島安積沼安達ヶ原都都古別神社訪れたとも考えられる) 委波底迺夜麼(イワテノヤマ) - 1788年天明8年6月北海道旅行決心し前沢旧知分れ北に向かった紀行文水沢では塩釜神社神主の家に泊まり鎮守八幡神社参拝し、船に乗って北上川北上した岩谷堂では3年ぶりに知り合いの家に泊まり子安観音祭りを見る。国見山極楽寺参拝し山頂から周囲展望する。南部藩入り赤石明神参拝しさらし首になった罪人様子記録する盛岡では、小舟連ねてにした橋船見て、そこで盲人夫婦のいたこを見る。のため岩手山見えなかったが、急に晴れて山頂見えた盛岡浪速芸人鬼吉同行することになった渋民村から沼宮内を過ぎ、御堂村宿を取る小鳥谷村を過ぎ一戸宿を取る浪打峠通り二戸を過ぎ、金田一村を過ぎ朝水村のいわれを記録する五戸では三湖伝説記録し荒涼とした三本木平野を過ぎ、千曳神社参拝して千曳の石物語」を記録する野辺地で宿を取り歌枕の「尾駮の牧」場所を確認する盛岡藩弘前藩との境である野辺地狩場沢で筆を止めている。 率土が濱傅ひ(ソトガハマヅタヒ) - 1788年天明8年)前の日記続いて青森湾南西部沿って小湊津軽半島三厩村までの日記沿道写生画が多い。途中善知鳥神社3年ぶりに参拝している。三厩からは8月13日暮れ小舟乗り翌日早朝副山につく。

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天明年間(1781年 - 1789年)

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大相撲優勝力士一覧」の記事における「天明年間(1781年 - 1789年)」の解説

場所番付四股名成績備考1781年(天明元年)10月 西関脇 谷風 9勝0敗1休 59連勝1782年(天明2年)2月 東関虹ヶ嶽 6勝0敗1分1預2休 7日目谷風63連勝止まる1782年(天明2年)10月 西大関 谷風 7勝0敗1無勝負1休 1783年(天明3年)3月 西大関 谷風 5勝0敗1無勝負4休 1783年(天明3年)11月 西大関 谷風 8勝0敗1分1休 1784年(天明4年)3月 西大関 谷風 6勝0敗2預2休 1784年(天明4年)11月 東関脇 小野川 9勝0敗1無勝負 1785年(天明5年) - - - 不景気のため本場所開催なし。 1786年(天明6年)3月 西大関 谷10全勝 1786年(天明6年)11月 東関脇 小野川 7勝0敗3休 1787年(天明7年)5月 - - - 番付発表のみして中止1787年(天明7年)11月 東大ヶ濱 7勝0敗1分2休 1788年(天明8年)4月 西関脇 谷風 7勝0敗1分1預1休 1788年(天明8年)11月 西小柏戸 8勝0敗1分1無勝負

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