天明元年の噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
安永9年の噴火は翌安永10年(1781年) 4月ごろまでには小康状態となったが、翌月の天明元年(1781年)5月からは今度は火山灰を噴出する噴火が池之沢で始まった。噴煙は島全体を覆い、再び池之沢内の池の水位が著しく上昇したが、今度は水が引いてしまい、このときに耕地の土が池に流出し、耕地には大きな石が残されるといった被害が発生した。 天明2年(1782年) 3月、青ヶ島で名船頭として知られた惣兵衛らが乗り込んだ「無人島」を探検する船が八丈島を出港した。惣兵衛らは青ヶ島からさらに南へ向かい、現在の鳥島付近まで探検を行ったが、その後、悪天候によって漂流を続けたうえ、何とか江戸にたどり着くことができた。惣兵衛らは天明3年(1783年)3月、勘定奉行より酒食の振る舞いを受け、さらに4月には韮山代官である江川太郎左衛門からも酒食の振る舞いを受けたうえ、惣兵衛は八丈島へ戻った。のちに惣兵衛は天明5年(1785年)に発生した大噴火の発生直後、青ヶ島へ向かい噴火直後の青ヶ島の状況を目の当たりにすることとなる。 天明2年(1782年)4月には韮山代官所の代官の手代らが、八丈島に在島していた名主の七太夫らとともに青ヶ島の巡検を行った。巡検が行われたときには噴火は小康状態となっており、池之沢内で噴火の被害を受けた農地の復興が進められていることが報告されている。
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