天明3年の噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
安永9年と天明元年の噴火によって大きな被害を受けた青ヶ島であったが、天明3年(1783年)3月からの噴火はこれまでのものよりも規模が大きく、甚大な被害が出た。 2月には島の北部にある神子浦(みこのうら)が大崩壊を起こし、舞い上がった土砂が島内の耕地に積もった。そして3月9日(1783年4月10日)には地震が頻発、そして池之沢に大きな火口が出現し、島内に灼熱した噴石が降り注いだ。そのために噴火開始時に池之沢にいた14名が死亡し、高温の噴石によって火災が発生して61軒の家屋が焼失した。噴石の噴出後には火山灰が激しく噴出し、島内は真っ暗となり火山灰が厚く降り積もった。火山灰は青ヶ島全体の耕地に壊滅的な被害をもたらしたうえに島の水源をも埋め、雨が降ると火山灰交じりの水が流れ出して人家に流れ込むといった二次災害を引き起こした。 天明3年の噴火は八丈島からも激しい火の手と猛烈な噴煙が立ち昇るのを見ることができた。青ヶ島からの報告を受けた八丈島役所では青ヶ島の被害状況の見分を行うこととして、視察は5月に八丈島を出発し、噴火後の青ヶ島の状況を約1か月見分して八丈島に戻る際、船が上総の興津まで流されたうえ、ようやく八丈島へと戻った。青ヶ島は多くの耕地が噴出した火山灰によって失われ、厳しい食糧不足に悩まされることになり、また多くの家も焼失した。しかし今回は年貢が免除となり、救援の穀物の支給なども行われた。また噴火の影響で荒廃した青ヶ島から八丈島へ住民が避難することも勧められた。 天明4年(1784年)には噴火はなく、青ヶ島の島民は噴火からの復興に向けて努力をしていた。しかし翌天明5年(1785年)に破局的な大噴火が起こり、青ヶ島島民は全島離島に追い込まれることになる。
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