天明6年の不作と政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「天明6年の不作と政変」の解説
天明6年(1786年)は、再び東北地方を始め気候が寒冷な年となった。しかも天明6年の場合、冷害以上に風水害が米の不作に拍車をかけた。まず天明6年7月、関東地方が大雨に見舞われた。天明6年7月12日(1786年8月5日)に降り始めた大雨は、先年の浅間山大噴火による降灰で河床が浅くなっていた利根川を始めとする関東地方の各河川を氾濫させ、江戸を始め関東地方各地は大洪水に見舞われた。天明6年7月の水害は江戸の町始まって以来の大水害と言われ、江戸の町は広く水浸しとなった。そしてこのときの大雨は関東地方の多くの田畑に甚大な被害をもたらした。天明6年の風水害はこれで終わらなかった。天明6年8月になると今度は全国的に強風が吹き荒れ田畑に被害をもたらした。結局天明6年の米の収穫高は全国平均で平年作の約三分の一にまで落ち込んだと言われている。 天明6年の米の作柄は全国的に著しい不作となったが、その中では九州、北陸、そして東北地方は比較的作柄が良かった。天明6年、東北地方は冷害に見舞われたものの、弘前藩の米の作柄が平年作の6割から7割程度であったように、不作とはいえ場所によっては収穫が皆無となった天明3年のようなことにはならなかった。全国的に著しい不作の年であった天明6年、東北地方はある程度の収穫高を確保できた。しかし東北地方の人々の脳裏には天明3年から4年にかけての大飢饉の惨状が生々しく残っていた。天明6年から7年にかけて東北地方の諸藩は地元での食糧確保を重視して回米にブレーキをかけ、そのことが全国的な不作で高騰していた米価を更に押し上げることに繋がった。 そのような中、幕府の政局は大きな転換点を迎えていた。将軍徳川家治が天明6年8月に体調を崩し、天明6年8月25日(1786年9月17日)に死去する。そして天明6年8月27日(1786年9月19日)、田沼意次は老中を依願免職となる。折りしも天明6年の8月にはこれまで田沼意次が推進してきた重要政策であった全国御用金令、印旛沼干拓などが中止に追い込まれ、その政治責任を追及する声が高まっていた。天明6年閏10月5日(1786年11月25日)には田沼意次の領地のうち2万石が没収となり、さらに大坂の蔵屋敷と神田橋の上屋敷の返上、そして意次本人の謹慎が命じられた。 しかし田沼意次の政治生命はここで完全に絶たれたわけではなかった。天明6年12月27日(1787年2月14日)には田沼意次の謹慎措置は解除となり、天明7年1月1日(1787年2月18日)に江戸城で行われた年賀の席で、田沼は老中に準じる席次で参列し、次期将軍徳川家斉に拝謁した。そして田沼意次は老中を辞めたとはいえ、当時の幕府中枢部の多くは田沼によって引き立てられた人物であり、田沼復活の可能性はまだ残されていた。
※この「天明6年の不作と政変」の解説は、「天明の打ちこわし」の解説の一部です。
「天明6年の不作と政変」を含む「天明の打ちこわし」の記事については、「天明の打ちこわし」の概要を参照ください。
- 天明6年の不作と政変のページへのリンク