天明の大飢饉と米沢藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 20:59 UTC 版)
天明3年(1783年)は天候が不順で、早くから凶作とそれに伴う飢饉の可能性が指摘されていた。そこで当時の藩主・上杉治憲は、藩の執政であった莅戸善政らに対応策を命じた。莅戸らは、藩士・領民に対して白米を食べることを禁じるとともに米を原料とする酒や菓子の製造を中止させて主食の食い延ばしを図り、同時に代用食となる動植物の調査を行った。 また、比較的米に余裕があった庄内地方や越後国から米を買い入れるだけでなく、縁戚であった尾張藩などからも米を借入した。その年の秋、米の作柄は例年の1/4となり、米沢藩では藩内の義倉(郷倉)のみならず全ての蔵を開いて領民に米をはじめとする穀物を計4万8000俵を放出し、配給を施した。 その結果、いわゆる天明の大飢饉においては辛うじて領民の犠牲を防いだものの、藩の財政は破綻状態に陥って治憲が進めてきた藩政改革の成果は水泡に帰し、治憲は失意のうちに養子の治広に家督を譲る事になった。
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