天明の打ちこわしと大政委任論の成立
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「天明の打ちこわし」の記事における「天明の打ちこわしと大政委任論の成立」の解説
江戸幕府成立後、一般的に幕府の正統性は天から政務を委任されていることにあり、天から政務を委任されている以上、将軍は仁政を行う義務があると考えられていた。しかし天明の大飢饉、浅間山大噴火、そして関東地方の大洪水に続いて全国各地に打ちこわしが広まり、特に将軍のお膝元である江戸打ちこわしでは町奉行が対応できないほどの大混乱に陥ったため、「仁政を行おうとしない幕政に対して天が罰を下した」と考える天譴論が広範囲に広まった。このような情勢下では天が幕府に政務を直接委任していると考えるこれまでの考え方では、幕府支配の正統性が十分担保し得ないようになった。 そのような中で天明末期から寛政初年にかけて大政委任論が唱えられるようになった。これは天皇は天地のあらゆる神々に護られ、万民を子とする存在であり、将軍はその天皇から征夷大将軍に任じられ、万民と日本の国土を天皇から委任され、統治を行うという考え方である。打ちこわしが全国各都市に広まり、特に将軍のお膝元の江戸では一時鎮圧が困難な大規模な打ちこわしとなったことに示されるように、幕府に対する批判がかつて無いほど高まる中でその権威が大きく揺らぎ、その一方で朝廷、そして天皇の権威が高まったことが大政委任論の成立要因と考えられている。幕府としては権威、威光を保つ手段として、天皇の高い権威を利用する必要性に迫られたために大政委任論を公式に認めることになり、その結果、大政委任論は社会に定着していくことになる。そして天皇が万民の父であり、将軍は天皇から万民と国土の統治を委任されている存在であるとの思想の定着は、天皇が権威ばかりではなく政治的な権力を持つ存在となるきっかけとなっていった。
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