天明の酒株改め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:30 UTC 版)
天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し、噴煙が長らく諸国の空を覆い、くわえて天候不順から東日本を中心として凶作が続くようになった。いわゆる天明の大飢饉である。これを受けて幕府は、天明6年(1786年)に諸国の酒造石高を五割にするよう減醸令(げんじょうれい)を発した。 また、元禄の酒株改め以来、ふたたび酒造株高と酒造米高の格差が広がってきていたので、幕府は天明8年(1788年)天明の酒株改めを実施した。そして、その調査結果をふまえて、建前としての酒造株高ではなく、酒屋に申告させた酒造石高を基準として酒の生産量を三分の一にするようにという法度を発した。いうなれば、いつも酒造株高と酒造米高に生じる格差をうまく利用して幕府の政策の裏をかいていた商人たちに対し、今度は幕府が商人たちの裏をかいたわけである。これを天明の三分の一造り令という。
※この「天明の酒株改め」の解説は、「酒株」の解説の一部です。
「天明の酒株改め」を含む「酒株」の記事については、「酒株」の概要を参照ください。
- 天明の酒株改めのページへのリンク