天明3年から4年にかけての幕府の米価対策
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「天明の打ちこわし」の記事における「天明3年から4年にかけての幕府の米価対策」の解説
天明3年に東北地方を襲った大凶作と浅間山の大噴火というダブルパンチは、全国的な米価の急騰をもたらしていた。幕府はお膝元である江戸での米価高騰に対して危機感を抱き、矢継ぎ早に対策を講じた。まず天明3年12月17日(1784年1月9日)には、全国の譜代大名の居城などに非常時用に備蓄されていた城詰米のうち、近畿、中国、九州の諸藩を中心とした37藩の11万石余りを江戸に向けて回送するよう命じた。天明4年に入ると江戸の町奉行所は江戸市中の米蔵に対する見分を繰り返し、米を扱う商人を奉行所に出頭させた上、米の買占め、売り惜しみを行わないよう命じた。 天明4年1月16日(1784年2月6日)に幕府は、米穀売買勝手令という法令を公布する。これはこの当時、決められた業者のみが米の流通、販売を行うことが出来るとされていた規制を撤廃し、例えば江戸に持ち込まれた米を問屋を通さずして自由に販売してよいとするものであった。問屋を通さない米の販売を認める米穀売買勝手令は当時としては画期的なものであり、米の流通量を増やして米価を引き下げることを目的とした緊急時の時限立法的な色彩が強い法令であった。しかしこの法令は期待したほどの成果を挙げることはできなかった。これは米の流通の活性化という点からは米穀売買勝手令によって大坂からの米の搬出が活発となったが、今度は大坂が米不足に襲われ価格が急騰したため、大坂町奉行所はあわてて大坂からの米の搬出を厳しく制限する措置を行ったことなどによるものであった。結局米穀売買勝手令は天明4年の秋、米の作柄がある程度期待できることが市場に周知されたことによって米価が落ち着きを見せたため、天明4年9月10日(1784年10月23日)に廃令となった。なお米穀売買勝手令は凶作によって再び米価が激しく高騰した天明6年(1786年)、そして天明7年(1787年)に再施行され、特に天明7年の施行時には法の意図したものとは全く逆の結果を招き、米価高騰に拍車をかけることになった。 天明4年4月23日(1784年6月10日)、幕府は全国を対象として、村役人や農民が所持している自家用以外の米の販売を行うこと、米の買占めを行う者がいたらまず領主に申し出て、打ちこわしという手段に訴えないこと、さらに諸藩が江戸への回米を行う際に道中で米の売買を行うことを禁止する法令を出した。これは全国的な米価高騰を受けて米の流通量の増加を図り、米の買占めの制裁を行う意味での打ちこわしを押さえつけ、そして回米を行う際の米の売買禁止は江戸に流入する米の量を確保する意図があった。幕府としては全国的に米の流通量を増やして米価を引き下げる政策とともに、お膝元の江戸で流通する米の絶対量を確保するという、時には矛盾する政策の遂行を余儀なくされていた。このような矛盾は米不足による米価高騰に対して、大坂からの米の搬出を厳しく制限した措置後の大坂とその周辺地域などでも発生しており、米価高騰の中、難しい経済運営を余儀なくされていた。 しかし天明3年から4年にかけては、天明の大飢饉に直撃された東北地方と浅間山の大噴火による甚大な被害を蒙った関東地方と信濃以外に打ちこわしは広がらなかった。これは天明3年の米の作況が東海以西ではさほど悪くなかったことと、幕府が江戸、大坂、京都の三都で実施したお救い米の支給が功を奏したためである。天明4年2月11日(1784年3月31日)、大坂堂島の米仲買商16名が買占めにより摘発されていたが、天明4年4月23日(1784年6月10日)には16名の仲買商が所有していた196440石の米のうち約三分の一にあたる65000石が、江戸、大坂、京都で米価高騰で困窮する人々へのお救い米として利用されることが決定された。65000石のうち30000石が江戸、25000石が大坂、10000石は京都へ向けられることになり、お救い米として市場価格よりも廉価で売り渡され、困窮した人々への支援に充てられた。端境期に行われたこの措置は米価のさらなる高騰を食い止め、米価が高騰した厳しい情勢はなお続いたものの、天明3年から4年にかけては大規模な打ちこわしが全国的に広まる事態は避けることができた。
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