三都
三都(江戸時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 15:01 UTC 版)
詳細は「三都」を参照 江戸時代の三大都市は、大坂・京・江戸であり、総じて「三都」と呼ばれていた。それぞれの都を表して『大坂の食い倒れ』『京の着倒れ』『江戸の呑み倒れ』という言葉がある。 1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城を居城としてから江戸の発展が始まるが、それでも江戸幕府が置かれた当時の人口順では京・大坂・江戸だった(江戸の人口#江戸時代初期の人口参照)。山城国の京、および、摂津国の大坂(現代の大阪市は摂津国と河内国にまたがる)はいずれも畿内にあり、合わせて「上方」と呼ばれた(下り物参照)。 大坂の陣(1614年/1615年)により、人口順は京・江戸・大坂に変化した。 大坂は近世日本における物流の中心地(天下の台所)、京は日本最大の工業都市として発展し、江戸は出来たばかりだったが、日本最大の知行地(700万石とも言われる)を持つ幕府の在所であるのみならず、当初は自発的だった参勤交代が1635年(寛永12年)の「武家諸法度」によって制度化されると、各藩の大名と従者が隔年で集住するため、当時の日本で最も富裕層が集まる都市となり、大消費地となった。 17世紀中頃になると、江戸の人口が京の人口を抜いた。さらに元禄年間の1700年頃には大坂の人口が京の人口を抜き、以降幕末まで人口順では江戸・大坂・京となった。 江戸の人口増の背景として、大消費地を支える商業従事者の増加のほか、飢饉や貧困で営農放棄した農民の流入も言われている。また、火事(大火)が発生し易い気候の土地に造られた都市であったため建設業が発達し、大工や細工師などの工人を多く吸引したとも言われる。 また、駿府政権時代の駿府(現在の静岡市葵区)は駿府九十六ヶ町と呼ばれる街区が整備され、江戸(人口15万人)に次ぐ人口12万人を擁し、世界屈指の大都市として機能していた。そのため三都を江戸・上方(京・大坂)・駿府とする場合もある。
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