江戸時代初期の人口
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慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、家康は各大名に江戸の市街地普請を命じ、江戸の大規模な拡張を開始した。即ち神田山(現本郷台地)を切り崩し、各所に濠を掘り、その土砂で日比谷入江などを埋め立てた。慶長13年(1608年)の江戸の様子を描いたとみられる『慶長江戸絵図』では、江戸城と武家屋敷を中心に約4 km2に広がっている江戸城下町の様子が描かれているが、町屋敷や船入場が並んでいた江戸前島は描かれていない。慶長14年(1609年)に江戸を訪れたロドリゴ・デ・ビベロは江戸の人口を15万人と伝えているが、同時に京の人口を30万〜40万人(本人の目算では80万人以上)、大坂の人口を20万人と記録しており、当時の三都の中ではまだ一番人口が少なかった。慶長17年(1612年)には江戸町割が実施され(『慶長記』)元和9年(1623年)には武家地に町人が住むことが禁じられる。 寛永9年(1632年)の江戸の様子を描いた『武州豊島郡江戸庄図』では、低湿地帯の埋め立てと城下町建設がすでに完了し、江戸城下町はほぼ15 km2の面積に広がっている。小宮山綏介(1891年)は、『大猷院殿御実紀』に寛永11年(1634年)の江戸市中の町方戸数が3万5419戸だと記載されていると解釈し、1戸4.2人として江戸の町方人口を約14万8719人と推定した。この数字はしばしば江戸初期の町方人口の推定値として引用されるが、実際の『大猷院殿御実紀』の記述では3万5419戸は京洛市中の庄屋の戸数であり、小宮山綏介の計算は誤りである。『大猷院殿御実紀』には同じ年に銀5000貫目(12万枚)を、江戸市中の町方へ配ったとの記述があり、その際20年前から土着の家には銀5枚、20年土着の家には銀3枚、それ未満の家には銀2枚を配ったとされる。中部よし子(1967年)はこの記述から江戸市中の町方戸数を3万〜6万戸と見積もり、1戸4.2人として12万6000〜25万2000人と推定した。これに徳川家家臣団の武家人口を加えると江戸には約25万〜40万人がいたことになり、江戸の人口は大坂の陣の荒廃から復興したばかりの大坂の人口(寛文元年(1661年)の大坂三郷は町方人口25万2446人(『開国五十年史』)で、その後の人口増加率から逆算すると1634年頃は人口20万人前後)と同じか、あるいはそれを上回っていたが、まだ京の人口(寛永11年(1634年)の洛中町方人口は41万0089人(『京都御役所向大概覚書』))には及ばなかったとみられる。『東めぐり』によると、寛永年中の江戸町数は約300であった。 寛永12年(1635年)に参勤交代が始まると、新たに大名のための武家屋敷が建設され、武家人口のみならず、それを支える町方人口も増加した。明暦3年旧暦1月19日(1657年3月2日)に明暦の大火が発生し、多大な被害が生じる。『むさしあぶみ』によると町中500余町、大名小路500余町、大名屋敷500余宇、小名宿所600余宇、江戸城、橋60ヶ所、寺院350余宇などが焼け、10万2100余人の焼死者が発生したとされる。また『寛明事蹟録』では、武家屋敷では大名160戸、旗本・御家人608戸、町屋の被害は両側町で400町、片町で800町、戸数4万8000戸、家主不明の町屋830戸余、焼死者3万7000余人としている。この年、被災した町屋戸数4万7636戸に見舞い金が支払われており、小宮山綏介は被災町屋戸数を町方全体の7割、1戸4.2人を仮定することで江戸の町方人口を約28万5814人と推定した。
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