江戸時代初期の細倉鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
17世紀前半から後半にかけて、細倉鉱山は銀山であった。これは仙台藩家老の文書に17世紀前半期、細倉銀山と呼ばれていたことがわかる記述が見られることや、地元の古文書からも少し時代が下って寛文年間に細倉銀山と書かれていることなどから明らかである。仙台藩初代藩主の伊達政宗は鉱山開発に熱心であったが、早くも元和年間には金の生産高は減少に転じ、仙台藩は鉱山経営よりも新田開発による収入増に力を注ぐようになった。17世紀半ばから後半にかけて、細倉鉱山も仙台藩全体の鉱山の低迷と歩調を合わせるかのように低迷していたものと考えられる。 寛文年間に入り、細倉鉱山の北隣にあたる後の大土森鉱山から鉛の生産が始まった。続く延宝年間に入ると細倉鉱山でも鉛の生産が始まったことが明らかになっており、17世紀後半には銀ばかりではなく鉛の生産も始まっていた。元禄年間に入ると細倉鉱山には各地から有力な山師が集まり、新鉱脈の発見がなされ鉱山は栄えるようになった。これは長崎貿易の決済用に金、銀、銅の需要が高まる中、粗銅から金や銀を回収する灰吹法で用いる鉛の需要も高まったことが背景にあると考えられている。しかし17世紀末から18世紀初頭の元禄年間はまだ細倉鉱山では鉛よりも銀が重要視されていたと見られるが、やがて仙台藩内で最も有力な鉛鉱山となっていく。
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