江戸時代以降の大名家の改易
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関ヶ原の戦いの戦後処理により、石田三成(近江)、小西行長(肥後)、宇喜多秀家(備前岡山)、長宗我部盛親(土佐)を始め西軍についた88の大名家が改易され、その上で三成、行長等は斬首、秀家は遠流、盛親は蟄居となり、毛利家(毛利輝元及び吉川広家、毛利秀元)、上杉家(上杉景勝)など5大名家が大幅な減封を受けた。 詳細は「#関ヶ原の戦いで敗れた大名家の改易・減封」を参照 大坂の陣以後、戦争が無くなると、世嗣断絶と幕法違反による改易が主なものとなり、末期養子(大名が危篤になってから養子を願い出ること)が禁止されていたため、多くの大名家が世嗣断絶により改易となった。また福島正則は広島城無断修築を咎められた幕法違反により改易されている。大久保忠隣や本多正純のように幕府内部の権力闘争に敗れて改易された大名もいた。 改易に関する規定としては、『御定書百箇条』に、 御仕置仕形之事 従二前々之例一一 改易(かっこ内は割書で、縦書き右行に「大小渡、宿へ相帰し、」左行に「夫より為二立退一申候」) 但家屋敷取上、家財無レ構とあり、また『諸例類纂』には、「 一 改易は、住所御構等は無レ構 御暇被レ下 平民に相成まで此名目は当主竝に嫡子に限り候事 とある。 戦争が無くなっても大名家が咎により改易される場合に大名自身は切腹(赤穂事件の浅野長矩など)となることもあり、それ以外でも他の大名家などへお預けとなって厳しい監視の下で蟄居させられた(松平忠直・松平忠輝など)。城と領地は没収となり、改易となった大名家に仕えていた多くの家臣も、禄を失って浪人となった。切腹ではなく打首となったのは島原の乱の原因を作った松倉勝家のみである。 ただし、改易の処分を受けても後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することも少なくなかった。譜代・親藩の中には、改易処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例もある。唯一の例外として改易された有馬晴信の子直純は、そのまま跡を継ぐことが許された。 江戸時代初期には旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策が取られたために、家康、秀忠、家光の三代の時代に外様大名82家、親藩・譜代大名49家が改易された。幕府は改易、減封によって生じた空白地を天領(直轄地)にし、親藩・譜代大名を新たに配置して、外様大名を遠隔地に転封するなどして幕府権力の絶対優位を確立していった。 しかし、改易によって大量の浪人が生じて社会不安につながり、浪人による反乱未遂事件(慶安の変)が起きた。このため幕府は政策を見直し、4代家綱の時代に末期養子の禁は緩和された。5代綱吉の時代には廃絶政策は譜代大名に向けられ27家が改易された。これ以後は幕藩体制が確立して改易、転封は減少して大名は固定化されるようになり、幕末に至った。関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家、親藩・譜代大名121家の計248家が改易されている。 詳細は「#江戸時代に改易に遭った大名」を参照 大坂の陣で豊臣家が滅ぼされて以後、武力抵抗をした大名は皆無であり、全て無抵抗で城と領地を幕府へ明渡している。 幕末に長州藩が幕府軍に武力抵抗して打ち勝ち(長州征伐)、幕府の弱体化が顕になって大名への絶対的統制は崩れ、鳥羽・伏見の戦い以後の戊辰戦争により幕藩体制は終焉した。後、明治新政府により、1家(請西藩林家)が改易、会津藩松平家、仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など22家が減封の処分を受けた。1871年(明治4年)7月2日には太政官札贋造事件で福岡藩知事黒田長知は免職となり、有栖川宮熾仁親王が後任の福岡藩知事に就任したが、その直後の7月14日に全国一斉に廃藩置県を迎えることとなった。
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