関ヶ原の戦い以降
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「熊野三所権現長光」の記事における「関ヶ原の戦い以降」の解説
さらに上杉家から徳川将軍家へ本作が伝来するが、その経緯として日本刀剣博物技術研究財団の解説によれば、関ヶ原の戦いに於いて西軍に付いていた上杉家は石高120万石から30万石に改易され、更にお家断絶の危機に直面していた。上杉家家老であった直江兼続が将軍家と交渉し、豊臣家から徳川家へと忠誠を改めたことを証明するものとして、秀吉からもらい受けた本作を徳川家へ献上したものを推察している。以降は徳川家に伝来していたが、1717年(享保2年)には、これまで務めていた寺社奉行兼奏者番の功をねぎらって8代将軍吉宗から福知山藩2代藩主である朽木稙元へ下賜された。この際に本阿弥光林の取次によって金八枚の折紙が出されており、本阿弥家の『留帳』には本作に遺されていた疵についての記述がある。
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関ヶ原の戦い以降
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しかし戦後、徳川家康は毛利氏の中立違反の事実をあげつらい、毛利氏の所領のうち周防国と長門国(現在の山口県)以外の全ての領地を没収した。その結果、毛利氏は安芸国ほか8か国で112万石の大大名から、29万8千石(慶長18年(1613年)に36万9千石へ高直し)の国持ちクラスの大名へ転落した(長州藩)。また輝元への処置とは無関係ではあるが、毛利氏と関係のある小早川秀包や安国寺恵瓊も処分を受けた。 家康は当初、毛利氏を取り潰して吉川広家に周防・長門を与える意向であったが、広家が家康に嘆願しこの処分に落ち着いたという。 後に広家と徳川方の交渉の事実を知った秀元は憤激し、長府藩(秀元の子孫)と岩国領主家(広家の子孫)の間には長く確執が残ったという。
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