関ヶ原の戦い以後
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慶長6年(1601年)、家康は秀治に書状を送り、徳川家の直轄領になっていた佐渡で起きた一揆の鎮圧を直政に命じた。慶長10年(1605年)頃になると、家康の命により高台院の望む秀吉の菩提寺の建設にかかった。秀吉が生前建てた康徳寺を移転・拡張し、高台寺を建て、費用の半分を直政が負担した。開山堂内陣には直政の木像が祀られている。高台寺建築中、伏見に滞在しており、この時家康に秀治の息子に徳川家からの嫁を懇願していた。家康はこれを聞き入れ、外孫にあたる本多忠政の娘の百合姫を徳川秀忠の養子として嫁がせた。さらに秀忠の偏諱を与えて忠俊と改名させ、松平姓も与えられたが、終生、徳川将軍家の親藩・譜代としての扱いは受けられなかった。慶長10年(1605年)、堀親良と対立する。慶長11年(1606年)5月に秀治が死去すると、幼少の忠俊を補佐した。 慶長13年(1608年)12月、62歳で死去した。歴戦をくぐり抜けた勇将であったと言われている。『堀鉄団公記』によると死後「城東の圓昌寺」というところに埋葬されたという。後に直寄の手により、高野山正智院に改葬された。
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関ヶ原の戦い以後
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「日本丸 (安宅船)」の記事における「関ヶ原の戦い以後」の解説
文禄・慶長の役後の日本丸の消息として、『浄清遺筆』には慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時に、西軍となった嘉隆が鬼宿丸(日本丸)に座乗したとある。また『日本海運図史』(逓信省管船局)には嘉隆の領地鳥羽へ回航され、九鬼家の後に鳥羽藩主となった内藤忠重によって500石積み60丁立の船に縮小改造の上「大龍丸」に改名。以後は内藤家断絶後も、鳥羽藩の持ち船として使用され、老朽化のため安政3年(1856年)に解体されるまでほぼ江戸時代を通して残存したとある。 これが事実であれば船歴263年になるが、一般に木造船の寿命は長くとも20年程度であり、200年以上使用という記述には疑点もある。しかし寛永7年(1630年)には存在が確認できる天地丸は文久2年(1862年)に廃船になるまでの230年以上の間、将軍の御座船として存在した実例があり、維持管理次第では200年以上の存続も不可能ではない。 大龍丸の名を持つ船の動向として、『駿河国巡村記』(山梨稲川)には小龍丸と共に元和元年(1615年)8月に大坂より下り、大龍丸は深川の船蔵に入れたとある。『寛政重修諸家譜』には慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣で、三国丸以下安宅船5艘、早船(関船・小早)50艘で出陣した九鬼守隆率いる九鬼水軍は、野田・福島の戦いで大坂方の福島丸・伝帆丸・盲船1艘を鹵獲したとある。この内の福島丸・伝帆丸が記載された点から、大坂の陣後に比定される九鬼家の持ち船を記載した『船付之覚』には、安宅船として三国丸・阿波丸・豊後丸の3艘が記載されている。このため、残りの2艘が大龍丸・小龍丸に比定され、大坂の陣に参加し、終結後に幕府が召し上げた。 なお阿波丸・豊後丸は慶長14年(1609年)9月の西国大名に対する大船没収で没収した大船の内、翌年閏2月に幕府より守隆へ阿波国の蜂須賀至鎮、豊後国の稲葉典通の大船2艘を与えられており、船名からもこの2艘に比定される。三国丸は鳥羽の船大工の記録『志州鳥羽船寸法』から、阿波丸は没収時に蜂須賀家が作成した目録から日本丸よりも大型か同等で、より新しいことが分かり、幕府は九鬼水軍の安宅船から比較的古く小型の2艘を召し上げた。 続いて寛永年間の江戸を描いた『江戸図屏風』内の船手頭向井忠勝が挙行した船行列には最大の船として、江戸幕府の船印と向井家の「む」の旗印を付けた大龍丸の姿がある(右画像3段目、図屏風の評価については後述を参照)。図屏風には関船天地丸(500石積み76丁立)も描かれているが、小龍丸・大龍丸はそれよりも大型で、安宅船時代の姿を描いている。寛永期に行われた船行列の内、寛永7年(1630年)6月25日と同12年(1635年)6月2日の船行列に大龍丸の名が確認できる。 その後、『寛文年録』記載の寛文2年(1662年)6月10日の船行列では大龍丸の櫓数が60丁立になっている。延宝8年(1680年)の鳥羽城関係の史料に公儀の船として「大竜丸五拾挺立陣船」とあり、以上に従えば大坂夏の陣までは九鬼家の持ち船だった日本丸は、豊臣家滅亡後に幕府の持ち船となるまでに大龍丸へ改名され、幕府の手で縮小改造された後に内藤家へ預けられたことになる。
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