船歴
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「富士山丸 (飯野海運)」の記事における「船歴」の解説
「富士山丸」は、このような紆余曲折を経て昭和5年8月28日に播磨造船所で起工し昭和6年5月31日に進水、8月27日に竣工した。船体面の特徴として、これまで日本で建造されたタンカーは縦通隔壁が1条しかなく、それがために縦方向の強度が十分ではなかった。「富士山丸」では船体が大きくなったためロイド・レジスター(英語版)の監修を得てこれを改善し、縦通隔壁を2条渡しつつ横隔壁もジグザグ状に配して強度を持たせた。搭載するディーゼル機関はマン社から購入したもので、積載量増加を狙って1基だけ設置した。バルブやフリューガス消火装置など各種備品も当時の最新式のものが導入され、竣工後も期待にそむかない成績を挙げた「富士山丸」は以降、「本邦油槽船の規範」、「当時のタンカーの標準型」と目されるようになった。もっとも、飯野商事が次に整備したタンカーである「東亜丸」(10,052トン)の建造は川崎造船所に発注され、「富士山丸」とは船型も異なっており、「富士山丸」の同型船はなかった。 就役後、「富士山丸」は初航海で海軍向けのオハ原油11,659トン積み取り、徳山に陸揚げした。以降、徴傭されるまでの11年間に海軍向け、民間向け合わせて100航海もの石油輸送を行い、その数量は1,128,852トンに及んだ。100航海のうち、海軍向けは63航海であった。1941年(昭和16年)11月22日付で日本海軍に徴傭され、12月10日付で特設運送船(給油船)として入籍する。12月2日から12月24日まで佐野安船渠で特設運送船としての艤装工事が行われた。特設運送船となった「富士山丸」は、同じく特設運送船(給油船)になっていた「東亜丸」や、特務艦「隠戸」とともに第六艦隊(清水光美中将)に補給部隊として配属される。1942年(昭和17年)2月10日以降は南方作戦に転用され、次いでアリューシャン方面の戦いに加わる。昭和17年7月5日にアメリカ潜水艦「グロウラー」 (USS Growler, SS-215) の雷撃で大破した駆逐艦「霞」の曳航も行った。8月下旬にソロモン方面に転じ、12月10日にはショートランドで爆撃を受け、火災を起こす。1943年(昭和18年)以降は燃料輸送のほか、クェゼリン環礁への陸兵輸送なども行った。 1944年(昭和19年)2月3日、「富士山丸」は特設運送船(給油船)「神国丸」(神戸桟橋、10,020トン)、特設運送船「天城山丸」(三井船舶、7,620トン)および護衛の駆逐艦「春雨」、「時雨」とともに輸送船団を構成し、バリクパパンを出港。2月13日にアメリカ潜水艦「パーミット」 (USS Permit, SS-178) の攻撃を受けるが回避し、2月14日にトラック諸島に到着する。3日後の2月17日、トラックはアメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受ける(トラック島空襲)。「富士山丸」は荷役中だったが、ただちに抜錨してウエノ島(春島)とトノアス島(夏島)間の海域を抜けようとするが、続けさまに直撃弾を受けて備砲が吹き飛ぶなどの被害を受ける。応急修理の末に航行を再開し、2月17日の攻撃ではこれ以上の被害はなかった。翌2月18日も空襲は繰り返され、「富士山丸」はこの日も航行して回避運動を行ったが、機関室への直撃弾と至近弾で搭載の爆雷が爆発して火災が発生、徐々に沈下して左に倒れつつ、11時00分に船体前部の一部が海面上に露出した状態で沈没した。3月31日に除籍および解傭。 時が流れた1976年、春島の東南、水深40~60mの地点で沈没している「富士山丸」が発見された。船体は右舷に傾斜しており、船尾に直撃弾の痕があるが、それ以外は原形をとどめている。
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船歴
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「乾進丸 (1940年)」の記事における「船歴」の解説
乾汽船の新造第5号船として播磨造船所に発注され、1940年3月14日、播磨造船所相生工場で建造番号298番船として起工。8月3日、進水。10月16日、同所で竣工。 1941年2月9日、海軍省により徴傭され、横須賀鎮守府所管となる。8月29日、解傭。 1942年5月16日、北方行船団に加入し駒橋の護衛を受け室蘭へ向け湊発。 6月5日、北方行船団に加入し澤風の護衛を受け小樽へ向け東京湾発。21日、北方行船団に加入し第18号掃海艇の護衛を受け小樽へ向け東京湾発。 1943年2月12日、東行8212船団に加入し眞鶴の護衛を受け横浜へ向け由良発。 7月7日、名古屋在泊中に海軍省により徴傭され用途雑用、横須賀鎮守府所管となる。8日、四日市へ回航。14日、横須賀へ回航。19日、3719船団に加入しトラックへ向け横須賀発。29日、トラック着。 8月6日、5063船団に加入しクェゼリンへ向けトラック発、11日クェゼリン着。25日、6252船団に加入しトラックへ向けクェゼリン発、31日トラック着。 9月8日、4908船団に加入し横須賀へ向けトラック発、19日横須賀着。23日徳山へ向け横須賀発、26日徳山着。30日横須賀へ向け徳山発、10月3日横須賀着。 10月9日、3009乙船団に加入しトラックへ向け横須賀発、22日トラック着。30日、5301船団に加入しクェゼリンへ向けトラック発、11月3日クェゼリン着。 12月4日、6042船団に加入しトラックへ向けクェゼリン発、9日トラック着。 1944年1月4日ラバウルへ向けトラック発、10日ラバウル着。ラバウル在泊中の17日、アメリカ艦上機の攻撃を受けて被雷し、沈没した。沈没の際、船員22名が犠牲となった。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 06:48 UTC 版)
原名はヤコバ、1860年(万延元年)に清国ナンキューで建造された木造気船で、豊津藩の輸送船だった。 明治2年12月26日(1870年1月27日)に豊津藩から献納願いが出され、翌明治3年3月15日(新暦4月15日)付で許可、6月22日(新暦7月20日)に兵部省が受領した。また6月18日(新暦7月16日)、アメリカ人を雇い、虹橋船の機関運転を習うことになった。 7月29日(新暦8月25日)に樺太開拓使の用船で黒田清隆らを護送して北海道へ向かったが、千葉県根津浦で座礁、破壊された。当日は朝7時頃(または4時20分)に220人程を乗せて品海を出港、午後4時7分に上総国夷隅郡河津村根津浦(または花房藩配下川津村海岸字根中)沖の暗礁(根中の瀬)に乗り上げた。船底に穴が開きデッキまで水が来たため、6時頃に便乗者らは陸に避難した。翌日積荷(米600石、味噌50樽、酒250樽、金1,000両など)の多くを揚陸した。穴を帆布で塞ぐ作業を試みたがその後波浪による船体の破壊が進み、最終的に放棄された。なお『海軍省報告書』では8月8日(新暦9月3日)に暗礁に触れて破壊とされている。 坐礁の原因は使用した海図に記載の無い暗礁に乗り上げたためで、船長の処分は無かった。また米国船が用船され、改めて荷物を運送することになった。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 04:56 UTC 版)
本船は、第一次戦時標準船1TM型の26番船として、三菱重工業長崎造船所で建造された。造船所番号第937番船。1943年8月24日に起工し、1943年11月30日に進水し命名。1944年1月15日に竣工した。船名の「萬栄丸」は日東汽船所有船の「○栄丸」という命名慣例に沿っている。竣工と同時に民需用が建前の船舶運営会使用船となり、軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する海軍配当船に指定され、佐世保鎮守府所管となった。 公試の後、1月31日に長崎を出港した萬栄丸は佐世保、下津を経由して門司に移動。2月11日1600、萬栄丸は給油艦大瀬、1TL型戦時標準タンカーの清洋丸(国洋汽船、10,536トン)他輸送船4隻とともにヒ43船団を編成し、海防艦対馬の護衛で門司を出港。船団は基隆、カムラン湾を経由して3月3日1700に昭南に到着した。 同地で石油を積み込んだ萬栄丸は15日1000に特設運送船(給油船)の興川丸(川崎汽船、10,043トン)、姉妹船の栄邦丸(飯野海運、5,068トン)他輸送船10隻とともにヒ50船団を編成し、駆逐艦汐風、海防艦佐渡の護衛で昭南を出港。18日1600、船団はサンジャックに到着し、20日1500に出港。同日、萬栄丸は日本海軍に徴用され、佐世保鎮守府所管の特設運送船(給油船)となった。24日1900、船団はマニラに到着し、27日1400に出港。30日1000に高雄に到着。4月1日1600に出港、2日1700に馬公に到着。4日1600に出港。8日1010に門司に到着し、船団は解散した。萬栄丸は同日中に徳山に移動して積荷を下ろした。 15日、萬栄丸は徳山を出港し、16日に門司に到着。20日0600、栄邦丸、興川丸、逓信省標準TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)他輸送船6隻と共にヒ59船団を編成し、海防艦第10号、第11号の護衛で門司を出港。28日、船団は高雄に到着し、29日に出港。途中、マニラから差し向けられた海防艦倉橋、第20号が船団に合流。5月2日1200、船団はマニラに到着し、解散した。5日、萬栄丸は臨時編成された船団に加わり、駆逐艦朝風、春風、海防艦第10号、第11号の護衛でマニラを出港。7日、船団はミリ行きとバリクパパン行きに分かれることになり、萬栄丸はバリクパパン行き輸送船団(船団名なし)に加わり、第10号海防艦の護衛を受ける。10日、船団はバリクパパンに到着した。 同地で石油を搭載した萬栄丸は15日にバリクパパンを出港し、18日にタウイタウイに到着。同地で積荷を下ろした。 20日、萬栄丸は給油艦鶴見、栄邦丸、姉妹船で特設運送船(給油船)の雄鳳丸(飯野海運、5,227トン)と共に船団を編成。駆逐艦秋月、浦波、海防艦満珠の護衛でタウイタウイを出港。21日、秋月が船団から分離し、タウイタウイに反転していった。同日、船団はタラカンに到着。6月10日、雄鳳丸と船団を組み、海防艦干珠、三宅の護衛でカナンベナに移動。11日、船団はカナンベナを出港し、12日にバリクパパンに到着。 同地で石油を搭載した萬栄丸は雄鳳丸、栄邦丸、特設運送船香久丸(大阪商船、6,806トン)と船団を組み、海防艦干珠、三宅の護衛でバリクパパンを出港。ベラウ川河口を経由して19日にタラカンに到着した船団は香久丸を分離して出港。ツルサン水道を経由して23日0800にセブ島から出港してきた第15号掃海艇、第38号駆潜艇と合流。2150、船団はギマラス湾に到着。24日、特設運送船(給油船)の日栄丸(日東汽船、10,020トン)に横付けし、食糧補給を受けると同時に重油4,860トンを日栄丸に積み替えた。26日、萬栄丸は雄鳳丸と船団を編成し、駆逐艦栂、駆潜艇第38号、49号、58号の護衛でギマラス湾を出港。27日、サンボアンガに到着して第38号駆潜艇を分離。28日にサンボアンガを出港し、30日にタウイタウイに到着。残りの積荷を下ろした。 7月1日、萬栄丸は鶴見、栄邦丸と船団を編成し、駆逐艦栂の護衛で出港。ツルサン水道を経由して2日にタラカン沖に到着。同地で栂を分離し、海軍徴用船鐡洋丸(大阪商船、2,130トン)を加える。3日、ベラウ川河口に到着したが、鐡洋丸が座礁したため船団から分離。自力で離礁した鐡洋丸はタラカンへ向かった。4日、船団は出港し、5日にバリクパパンに到着し、石油を搭載した。 10日、萬栄丸は鶴見、栄邦丸、雄鳳丸と船団を編成し、海防艦干珠、三宅、駆潜艇第38号、49号、58号の護衛でバリクバパンを出港。11日、ベラウ川河口に到着し、特設運送船(給油船)の第二菱丸(近海油槽船、856トン)、特設運送船安興号(拿捕船、2,906トン/元中国船安興)、1E型戦時標準貨物船の辰松丸(辰馬汽船、829トン)が船団に加わる。12日にベラウ川河口を出港し、タラカン、ツルサン水道、タウイタウイを経由し、15日にホロに到着。同地で第二菱丸、安興号、辰松丸、鶴見が分離。16日に船団はホロを出港し、ザンボアンガ、カラバザス、サビヤン、ビラを経由して22日にマニラに到着した。26日、萬栄丸は雄鳳丸と船団を編成し、海防艦干珠、三宅の護衛でマニラを出港。座間味島を経由して8月4日に六連島に到着。萬栄丸は呉に移動して積荷を下ろした後、整備を受ける。 整備完了後の21日、萬栄丸は呉を出航し、22日に門司に到着。25日、萬栄丸は香久丸、陸軍油槽船の音羽山丸(三井船舶、9,204トン)、黒潮丸(東和汽船、10,518トン)他輸送船14隻でヒ73船団を編成し、航空母艦雲鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦千振他護衛艦5隻の護衛で門司を出港する。しかし、26日に機関故障を起こしたため船団から分離し、佐世保に到着。修理を受ける。修理完了後門司へ移動し、雄鳳丸、日栄丸、2TL型戦時標準タンカーのせりあ丸(三菱汽船、10,238トン)他輸送船5隻でヒ75船団を編成し、空母神鷹、駆逐艦夕月、卯月他護衛艦3隻の護衛で門司を出港。12日、特設巡洋艦西貢丸(大阪商船、5,350トン)と護衛の夕月、海防艦満珠が一旦分離。13日1400、船団は高雄に到着。14日、2TL型戦時標準タンカー富士山丸(飯野海運、10,238トン)、同大邦丸(飯野海運、10,045トン)、黒潮丸、水雷艇鵯、第28号海防艦が加入した他、西貢丸以下3隻も合流して出港。その後、2TL型戦時標準タンカーあまと丸(石原汽船、10,238トン)、雄鳳丸が機関故障を起こしたため分離。16日2330、干珠が機関故障を起こしてせりあ丸と衝突するも、損傷は軽微で済んだ。17日1000、西貢丸と護衛の卯月、夕月、飛行艇母艦秋津洲が分離。18日1040、海防艦倉橋が船団に合流。19日1500、船団を追及していたあまと丸が合流。20日昼、黒潮丸、大邦丸、日栄丸、神鷹に機関故障や舵故障が起きる。それでも、22日1300に船団は昭南に到着した。23日、萬栄丸は昭南を出港し、ベルハラ水道、ムシ川河口を経由して25日にパレンバンに到着した。 同地で重油を搭載した萬栄丸は26日にパレンバンを出港し、バンカ島ムントクに移動。同地で特設運送船(給油船)良栄丸(日東汽船、10,017トン)に横付けして重油を積み替えた。27日、萬栄丸はムントクを出港し、ムシ川河口を経由して29日にパレンバンに到着。重油を搭載した。 30日、萬栄丸はパレンバンを出港し、ムシ川河口に移動。海軍配当船あやなみ丸(石原汽船、2,863トン)に横付けして重油の一部を積み替えた。10月2日、ムシ川河口を出港し、3日にデンポウ泊地に到着。特設運送船(給油船)日邦丸(飯野海運、10,536トン)に横付けして重油を積み替えた。6日、萬栄丸はデンポウ泊地を出港し、7日にパレンバンに到着。重油を搭載した。 8日、萬栄丸はパレンバンを出港し、9日に昭南に到着して積荷を降ろした。12日に昭南を出港し、13日にパレンバンに到着。重油を搭載した。 14日、萬栄丸はパレンバンを出港し、15日に昭南に到着。18日、レイテ沖海戦に向かう第二艦隊第一遊撃部隊に随行するよう命令を受けて、同日昭南を出港。22日にブルネイに到着。同地で第一遊撃部隊の帰還を待った。28日、戦艦金剛以下第一遊撃部隊がブルネイに帰還。萬栄丸は金剛、重巡洋艦羽黒、特設運送船(給油船)の御室山丸(三井船舶、9,204トン)に重油の補給・積み替えを行った。31日0630、雄鳳丸、海軍配当船八鉱丸(日本油槽船、10,023トン)、給糧艦早埼で船団を編成し、駆逐艦時雨、海防艦千振、第19号海防艦、第34号駆潜艇の護衛でブルネイを出港し、1930にミリに到着。7,000トンの重油を搭載する。 11月6日、萬栄丸は駆逐艦時雨、海防艦千振、第19号の護衛を受けてミリを出港し、マニラへ向かった。当時、萬栄丸は重油7,000トンを搭載しており、9日にマニラに到着して重油を揚陸する予定だった。だがマニラ到着寸前の8日0133、船団は米潜水艦グロウラー (USS Growler, SS-215)のレーダーにより発見される。当時、グロウラーはレーダーの不調に悩まされていた。グロウラーは米潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365)、ヘイク (USS Hake, SS-256)の2隻とともにウルフパックを組んでおり、2隻に船団を発見したと報告し、呼び寄せた。3隻は浮上したまま船団に接近。0142にはハードヘッドのレーダーも1隻の大型船と2隻の小型船を探知した。グロウラーは船団の左側から、ヘイクとハードヘッドは船団の右側からと、船団をはさみ込む形で攻撃を行おうとした。0253、ハードヘッドはグロウラーのいる位置と思しき辺りから「恐らく雷撃のような音」や得体が知れない爆発音を聴取。また、船団がコースを変えたことを探知した。0257から0259にかけても爆発音を3度聴取し、これ以降グロウラーとは音信不通となった。この攻撃で、時雨と千振、19号は歴戦のアメリカ潜水艦グロウラーを撃沈した。0359、ハードヘッドは艦尾発射管から魚雷を4本発射。魚雷は全て萬栄丸に命中した。大音響と共に大きな水柱と火柱が萬栄丸を包み込み、それが消えた時にはすでに萬栄丸は海上からその姿を消していた。当時の天候は曇りで、さらに真夜中であったことから生存者の捜索ができず、萬栄丸では船長以下船員36名全員、乗船していた軍人全員が戦死した。萬栄丸の沈没地点は北緯13度30分 東経119度25分 / 北緯13.500度 東経119.417度 / 13.500; 119.417のカラミアン諸島ブスアンガ島沖と記録された。萬栄丸が轟沈したため海防艦2隻はミリに反転し、時雨はマニラに入港した。 1945年(昭和20年)1月10日、除籍・解傭。
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「きよたき (消防船・2代)」の記事における「船歴」の解説
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震により発生したコスモ石油千葉製油所の火災では、僚船の「おおたき」、海上保安庁の「あわなみ」「ひりゆう」、東京消防庁の「みやこどり」、千葉市消防局の「まつかぜ」、横浜市消防局の「まもり」の各船と連携して、海上から警戒監視および冷却散水を実施した。
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「つがる (巡視船・2代)」の記事における「船歴」の解説
設計・装備については「つがる型巡視船」を参照 1979年4月17日に竣工し、函館海上保安部(第一管区)に配属された。その後、平成25年度補正予算で延命・機能向上工事費が認められ、2015年9月から2016年2月28日にかけて、ジャパンマリンユナイテッド因島工場で工事を受けた。その際に、主兵装であるボフォース 60口径40mm単装機銃をエリコン 35mm単装機銃へ換装している。
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船歴
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1888年6月:ロンドン&グラスゴー造船所で竣工 1888年8月:日本到着。上海航路に就航 1894年8月:日清戦争開戦により海軍に徴用 1894年9月17日:黄海海戦に参加。損傷を被る 1895年:台湾平定に参加 1895年10月29日:北白川宮能久親王の霊柩を輸送 1903年4月23日:上海航路から撤収 1904年:海軍に徴用。病院船として活動 1913年ごろ:青島航路に就航中 1921年5月7日:栗林商船に売却。上海・大連航路に就航 1927年夏:大阪の尻無川で解体
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船歴
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元はイギリス・グラスゴーで1866年(慶応2年)に竣工したイギリスの鉄製気船OSAKA。明治2年(1869年から1870年)の箱館戦争では外国の運送船オーサカがチャーターされ、青森から乙部まで上陸部隊を輸送した。明治2年8月24日(1869年9月29日)にイギリス人から豊津藩が横浜で購入、翌明治3年6月22日(1870年7月20日)に献納され、兵部省所管となり大坂丸と命名された。
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船歴
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「虎丸」は、1908年(明治41年)9月に、大阪鉄工所で、スタンダード石油の発注により建造された。石炭燃料のレシプロエンジンを動力とした船尾機関型船体で、船体材質は鋼鉄である。タンカーとしてはごく小型の沿岸用で、総トン数531トン、タンク容量は400トンである。本船以前に日本で建造されたタンカーとしては、1907年(明治40年)または1908年に新潟鐵工所が国油共同販売所(日本石油と宝田石油が共同設立)向けに建造した「宝国丸」(94総トン)があるが、船体は鋼鉄製でも推進方式はスクーナー型の帆船であった。したがって、本船が、機械動力付きのものとしては初の日本製の鋼鉄製タンカーということになる。 1915年(大正4年)に、スタンダード石油から日本石油に売却された。その後、山陽燃料、佐野安造船所と船主を転々と変え、最終的に宇和島運輸が取得した。船主が宇和島運輸となっている1939年(昭和14年)時点では、用途種別がタンカーではなく貨物船となっており、登録総トン数も531トンから500トンに変わっている。 「虎丸」の最期は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月6日に、朝鮮半島の木浦南西8海里(約15km)付近の洋上で、アメリカ海軍の陸上航空機の空襲を受けて撃沈された。ただし、松井(1995年)では喪失日が5月16日となっている。また、最終時の船名を「第一虎丸」とする資料もある。
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船歴
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本船は、グラスゴーにあるバークレー・カール社(Barclay Curle & Co Ltd, en)の造船所で、造船所番号第538番船として建造された。、1916年(大正5年)12月20日、貨物船マスラ(Masula)として進水し、12月20日に竣工した。12月24日、イギリスのブリティッシュ・シッピング・コントローラー社(英語版)(British Shipping Controller)に引き渡され、ライムリーフ(Limeleaf)に改名した。改名後は第一次世界大戦での輸送任務に従事。大戦終結後の1919年(大正8年)、オランダのITSM社(Insulinde Tank Stoomboot Mij.)に売却され、カリフォルニア(California)に改名。1924年(大正13年)、イギリスのブリティッシュ・モラセス社(British Molasses Co. Ltd.)へ65,640ポンドで売却され、アセルリル(Athelrill)に改名。この際に改装工事を受けて糖蜜用タンカーとなり、燃料も石炭から重油に切り替えている。元貨物船であるため、船尾機関が主流のタンカーの中で、珍しく中央に機関部のある船型となった。1925年(大正14年)、ブリティッシュ・モラセス社はユナイテッド・モラセス社(United Molasses Co. Ltd.)と改名する。 1926年(大正15年)8月に、本船はユナイテッド・モラセス社から70万円で売却され、小倉石油と岸本汽船の共同所有となった。光洋丸と改名した本船は、石油タンカーとして使用されることになった。第一回の石油輸送任務として、アメリカ合衆国産の重油約8300トンを横浜港へと運搬した。 1926年9月13日午後0時40分頃、第一回の石油輸送を終えた光洋丸は、横浜船渠の艤装場に係留してタンク計測作業中、爆発事故を起こした。重油タンクのうち後部7番・8番タンクで爆発があり、船体の外板が壊れ、火災を生じた。本船には水蒸気をタンクに送りこんで酸素供給を絶つ方式の消火装置が備わっていたが、爆発により破損して機能しなかった。消防隊は左舷水線下に穴を開けてタンクに注水・消火しようとしたが、船体が右舷に傾斜したため穴が水面上に出てしまい、うまく注水できなかった。そのうち前部6番タンクも爆発し、石炭庫にまで延焼した。同日午後11時半頃にほぼ鎮火した。犠牲者数は、9月16日時点で作業員12人死亡・9人重傷・17人軽傷となっており、松井(1995年)によれば死者13人とされる。事故の原因については、荷揚げ後に空となった重油タンクが日光により温度上昇し、気化した重油が自然発火したと推定された(事故直後の会社側見解)。この爆発事故は、日本で起きたタンカーの爆発事故として史上初の事例であった。 事故後、4ヶ月間の修理で光洋丸は復旧した。修理中の1927年(昭和2年)、日本タンカーに移籍。同年1月中旬から、光洋丸は北米航路に再就航している。翌1928年(昭和3年)6月16日、小倉石油に移籍。1934年(昭和9年)2月26日、光洋丸は第三小倉丸と改称した。1941年(昭和16年)6月1日、合併に伴い日本石油に移籍。同年8月のアメリカの対日石油禁輸により北米航路は休止となる。 太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)3月24日、第三小倉丸は日本海軍の徴用を受け、横須賀海軍工廠で艤装工事を受けて横須賀鎮守府所管の特設運送船(給油船)となり、横須賀鎮守府部隊に配属された。改造後しばらくは内地間での石油輸送に従事。8月にショートランドに進出。燃料補給に従事した後、呉に戻った。以降は南方方面での石油輸送に従事する。 1943年(昭和18年)6月6日、第三小倉丸は特設運送船那智山丸(三井船舶、4,433トン)、応急タンカー北安丸(大連汽船、3,712トン)他輸送船7隻と共に第269船団を編成し、特設砲艦華山丸(東亜海運、2,103トン)の護衛を受けて高雄を出港。7日、北緯24度05分 東経122度59分 / 北緯24.083度 東経122.983度 / 24.083; 122.983付近で特設運送船辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)と衝突し中破したため、基隆に移動した。17日、第三小倉丸は基隆を出港し、23日に呉に到着。7月1日、第三小倉丸は呉を出港し、笠戸島に移動。8月6日に笠戸島を出港し、徳山に移動した。10月18日、陸軍輸送船マカッサ丸(南洋海運、4,014トン)、同ひまらや丸(大阪商船、5,229トン)、鶴見他輸送船5隻と共に第2609船団を編成し、駆逐艦若竹、第4号駆潜艇、第41号駆潜特務艇の護衛でバリクパパンを出港。20日、大丸(不詳)が機関故障を起こして後落し、第41号駆潜特務艇がこれに付き添ったものの、後に復帰。21日1000、大丸、乾山丸(興国汽船、4,704トン)、第41号駆潜特務艇がメナドに向かうため分離。1100、貨客船營口丸(日本郵船、1,847トン)が機関故障を起こして後落し、若竹がこれに付き添った。2隻は1230に船団に合流した。22日0830、特設運送船千光丸(日本郵船、4,472トン)がカウに向かうため分離。それからまもなく、マカッサ丸が機関故障をおこして後落し、第4号駆潜艇がこれに付き添った。10分後、2隻は船団に合流した。その後、第4号駆潜艇が船団から分離する。25日2120、船団はパラオに到着した。11月5日、第三小倉丸は応急タンカー白馬山丸(三井船舶、6,641トン)と共に第8505船団を編成し、駆逐艦太刀風の護衛でパラオを出港。船団は11日にトラックに到着し、第三小倉丸は重巡洋艦筑摩に重油1,127トンを補給する。24日、第三小倉丸は白馬山丸と共に第7242船団を編成し、第28号駆潜艇の護衛でパラオを出港。船団は29日にパラオに到着した。12月13日0730、第三小倉丸は白馬山丸、特設運送船(給油船)富士山丸(飯野海運、9,527トン)他輸送船3隻と共に第2515船団を編成し、第26号駆潜特務艇、第27号駆潜特務艇の護衛でパラオを出港。1000、第2号哨戒艇が船団に加わる。14日1615、第26号駆潜特務艇、第27号駆潜特務艇が船団から分離。17日1700、第6号駆潜艇が船団に加わる。18日に日付が変わった直後、北緯03度15分 東経127度03分 / 北緯3.250度 東経127.050度 / 3.250; 127.050付近で、第三小倉丸は白馬山丸、富士山丸他輸送船1隻、第6号駆潜艇と共に船団から分離し、タラカンに向かった。22日、第三小倉丸は富士山丸、平時標準B型貨物船改装応急タンカー松祐丸(松岡汽船、4,408トン)と共に船団を編成し、護衛を受けずにタラカンを出港。23日、マンカリハット付近で第102号哨戒艇が合流。同日2000、船団はバリクパパンに到着した。26日、第三小倉丸は単独で第2614船団を編成し、第2号哨戒艇の護衛でバリクパパンを出港。27日0725、舵故障を起こしたため、タンジョンパガー付近に投錨して応急修理を行い、0940に応急修理を終えて航行を再開。30日0740、北緯05度18分 東経127度03分 / 北緯5.300度 東経127.050度 / 5.300; 127.050付近で特設運送船日本海丸(三井船舶、2,681トン)が船団に合流。31日1800、第33号駆潜艇が船団に合流。 1944年(昭和19年)1月1日、第2614船団はガタラク泊地に到着。同日、第三小倉丸は連合艦隊所属となる。2日、船団はガタラク泊地を出港し、パラオに移動した。3日、第三小倉丸は単独で第8031船団を編成し、第24号駆潜艇、第33号駆潜艇、第39号駆潜艇の護衛でパラオを出港し、9日にトラックに到着。1月中旬、第三小倉丸は共同企業に移籍する。共同企業は石油の輸入、貯蔵、配分を目的として1941年(昭和16年)4月1日に東亞石油協会や東亞燃料工業および日本石油等の主要石油会社の出資により資本金1,000万円で設立された国策会社で、戦局の悪化により昭和石油、日本石油、関東タンカー、丸善石油の各石油会社所有タンカーを集約して所有することに伴う移籍だった。19日、第三小倉丸はタンカー第2共栄丸(共栄タンカー、1,192トン)と共に第7202船団を編成し、駆逐艦浜波、第24号駆潜艇、第30号駆潜艇、第33号駆潜艇、第39号駆潜艇の護衛でトラックを出港。26日、船団はパラオに到着した。30日、第三小倉丸は第2共栄丸と共にネ002船団を編成し、第36号哨戒艇、第15号駆潜特務艇、第22号駆潜特務艇の護衛でパラオを出港。31日1405、第22号駆潜特務艇が船団から分離し、パラオへ反転。2月2日1300、第15号駆潜特務艇が船団から分離しダバオへ向かった。5日、船団はタラカンに到着した。8日、第三小倉丸は第2共栄丸と共に船団を編成し、護衛を受けずにタラカンを出港し、バリクパパンに移動。 17日、第三小倉丸は第2共栄丸と共に船団を編成し、第5号駆潜艇、特設砲艦北京丸(大連汽船、2,288トン)の護衛を受けてバリクパパンを出港し、パラオへ向かった。23日朝、船団は北緯03度53分 東経129度17分 / 北緯3.883度 東経129.283度 / 3.883; 129.283のハルマヘラ島北東沖でアメリカの潜水艦コッド(USS Cod, SS-224)に発見される。コッドは夜まで追跡の後、タンカーに向けて魚雷を4本、護衛艦に向けて魚雷を2本それぞれ発射。魚雷は第三小倉丸に2本命中し、沈没した。指揮官の新美和貴大佐以下乗員18名が戦死した。 1944年(昭和19年)3月31日、除籍・解傭。
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船歴
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当初、スウェーデンのRederi AB Slite(英語版)により、ヴァイキングラインのために「ヨーロッパ」としてマイヤー・ヴェルフトに発注された。塗装が終わり引き渡しを控えた頃、スウェーデン・クローナが10%の切り下げを実施されRederi AB Sliteの資金繰りが困難に陥った。その結果、「ヨーロッパ」はオーナーをフィンランドのFährschiff Europa KBに変え、ヴァイキングラインのライバルであったシリヤラインによって10年間傭船されることになった。 1993年3月14日、ヘルシンキ - ストックホルム間に就航。翌年のエストニアの事故に際しては最初に救難信号を受け取った船の一つとなった。1995年1月12日、「シリヤ・セレナーデ」に代わってトゥルク - マリエハムン - ストックホルムに就航。1999年7月1日には免税対象となるために寄港地にローングネースを追加した。 2001年、冬季の寄港地を燃料の高騰によりストックホルムからカペルシャーに変更し、この年のストックホルム便は2月28日までと5月15日から8月31日の運航となった。同様の運航は少なくとも2004年まで継続された。 2013年1月23日より、「バルティック・プリンセス」に代わってタリン - ヘルシンキ間に就航。 2014年8月、オーストラリアのブリッジマン・サービスによって、チャーターされた。期間は14か月から4年となっている。
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船歴
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「ブレーメン (客船・3代)」の記事における「船歴」の解説
1930年代を予告する革新的な船形デザインの評判と高速性能を誇ったドイツの豪華客船だった。処女航海では西航、東航ともに新記録を樹立し姉妹船オイローパと共に長年にわたり保たれていたイギリス船の速度の記録を覆した。1930年代では、国家間で大きさ・豪華さに重点をおいた客船の建造競争があり、2隻を所有したドイツも、他国と火花を散らしていた。姉妹船オイローパはその後第二大戦の賠償でフランスに譲渡、リベルテと改名している。 1924年、ニューヨーク航路に就航したコルンブス(Columbus・英語版)の好評判を受けてNDLは二隻の新造船を計画、クルーズ航海も可能な3万5千総トンサイズの船体を念頭に進められ起工後にボイラーとその推進機関は25,000馬力を発揮するものに変更され5万総トンの船体に大型化されている。1927年6月18日デシマーク造船(en)、ブレーメン・ヴェザー造船所で起工。ブレーメンとその姉妹船オイローパは、大西洋を巡航速度27.5ノット、5日で横断できるように設計されていた。このことにより、通常3隻を交代させる必要がある大西洋横断を閑散シーズンには2隻で毎週行うことが可能となった。ブレーメンはテストの際、最高速度32ノットを記録した。 運行計画の本来はブレーメンとオイローパは同時に就航する予定であったが、オイローパは艤装作業中に火災が発生、鎮火放水したものが滞留してしまい船尾が着底する沈没状態になり排水引き上げと修理に時間がかかったため、1929年7月16日、ブレーメンはブレーマーハーフェン - ニューヨーク間の処女航海を単独で行った。この際、ブレーメンは4日17時間42分、平均速度27.85ノットでニューヨークに到着し、モーリタニアから西回り航路のブルーリボン賞を奪った。さらに次の航海では、4日14時間30分、平均速度27.91ノットを記録し東回り航路のブルーリボン賞を受賞した。これによりブレーメンは、初めて処女航海で記録を破った船舶となった。後に、ブレーメンの記録は1930年に西回り航路を姉妹船オイローパに、1935年に東回り航路をノルマンディーに破られた。 ブレーメンはバルバス・バウを採用した最初の大型客船だが、姉妹船オイローパ は採用していない。建造に際しドイツの最先端工業技術を結集し、内装デザインや備品をドイツ国内から広いコンペティションで募集した。竣工時にはカタパルトが設置され1935年まで、ハインケルHe12で入港に先立つ24時間前頃に郵便物を積み込み先行輸送するサービスを行っていた。 斬新な船形デザインが災いし、のちに煤煙対策で煙突は6.4mかさ上げ延長された。 1933年1月にナチスが政権を握った際、ブレーメンはニューヨーク港の桟橋に停泊しており、ナチズムやファシズムを批判する抗議活動に使用された。7月、反ナチズム活動家のグループが乗り込み、船首マストに掲げられていたナチ党旗(ハーケンクロイツ旗)を引きずり下ろし、ハドソン川に投げ込む事件が発生した。当時のナチス・ドイツでは、帝政時代と同じ三色旗を暫定的な国旗とし、これと共にハーケンクロイツ旗を掲揚すると定めていたが、ドイツ側からの抗議に対しアメリカ政府は「棄てられたのは正式な国旗ではなくあくまでナチ党旗であり、国旗の名誉を汚したとは言えない」旨の返答をしたため、これを受けて総統アドルフ・ヒトラーは、1935年9月15日に「国旗法」を公布し、三色旗を廃止してハーケンクロイツ旗のみを国旗とすることを定めた。 1939年8月26日、ドイツ海軍はポーランド侵攻の事前準備としてすべてのドイツ商船は即時ドイツの港へ向かうよう命じた。この命令を受け取ったとき「ブレーメン」は西への航海中でニューヨークまで2日の距離にあり、船長はそのままニューヨークへ向かって1770名の乗客を降ろすことにした。1939年8月30日に「ブレーメン」は乗客を乗せずにニューヨークから出航。9月1日、「ブレーメン」はソ連のムルマンスクへ向かうよう命じられた。その途中、乗組員は偽装のため船を灰色に塗装した。「ブレーメン」は悪天候や高速を生かしてイギリスの巡洋艦から逃れ、9月6日にムルマンスクに到着。冬戦争が勃発すると、「ブレーメン」は12月10日にブレーマーハーフェンへ向かい13日に到着した。その際、イギリス潜水艦「サーモン」に発見されて誰何されたが、Do 18が「ブレーメン」を護衛していたため「サーモン」は安全のため潜航。「サーモン」艦長は相手は合法的な目標ではないと思い、攻撃は行わないことにした。 ドイツ国防軍は、アシカ作戦に向けてブレーメンを徴用する計画であったが、中止となったため、艤装半ばのまま係船された。1941年、造船所の埠頭で火災に遭い全焼した。調査によるとこの火災は放火によるもので、レジスタンスの破壊工作などではなく、容疑者はキャビンボーイのある少年で、所有者の待遇や管理職上司に対する個人的な恨みによる犯行で、当夜の出火した時刻に船長は所用でブレーメンから外出していた。戦況から再生可能な備品機器は撤去転用され、ブレーメンの船骸は敗戦後に1946年に解体された。解体工事では水底に埋没した船底の一部が残された。
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船歴
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「乾安丸 (1942年)」の記事における「船歴」の解説
乾汽船の新造第6号船として播磨造船所に発注され、1941年2月21日、播磨造船所相生工場で建造番号299番船として起工。1942年3月30日、進水。5月30日、同所で竣工。 1942年12月4日、西行第56船団に加入し澤風の護衛を受け青島へ向け船形発。 1943年3月8日、2308船団に加入し第24号掃海艇の護衛を受け芝浦へ向け室蘭発。同船団7隻中の1番船に指定され第一分隊に配置。同日、2308船団は尻屋崎沖でアメリカ潜水艦パーミットの攻撃を受けて損害を出したため、一旦八戸へ退避。9日、船団は八戸出港。12日、船団は名古屋行きの2隻を除き、東京湾に入る。 6月18日、八幡在泊中に海軍省により徴傭され、呉鎮守府所管となる。同日、若松港へ回航。19日、呉へ回航。20日、呉で20cm砲ほか10門などウェーク島防御用の各種兵器弾薬と軍用郵便物を積載。24日、芝浦へ回航。27日から30日にかけて芝浦で兵器弾薬、酒保物品、自動車などを積載。便乗者225名乗船。30日、横須賀へ回航。 7月2日、3702甲船団に加入しトラックへ向け横須賀発。12日、トラック着。トラックで軍用郵便物を積載。15日、5152船団に加入しクェゼリンへ向けトラック発。20日、クェゼリン着。軍用郵便物を揚陸。23日、第33号駆潜艇の護衛を受けウェーク島へ向けクェゼリン発。27日、ウェーク島着。これまでに積載あるいは乗船させた物品と便乗者を全て降ろし、軍用郵便積載、便乗者43名乗船。30日、引き続き第33号駆潜艇の護衛を受けクェゼリンへ向けウェーク発。 8月3日、クェゼリン着。軍用郵便揚陸、便乗者26名乗船。9日、6093船団に加入し特設砲艦第二号長安丸の護衛を受けトラックへ向けクェゼリン発。14日、トラック着。軍用郵便揚陸、便乗者5名退船。21日、4821船団に加入し夕月、電の護衛を受け横須賀へ向けトラック発。29日、横須賀着。これまでに積載あるいは乗船させた軍用郵便と便乗者を全て降ろす。9月9日にかけて兵器弾薬、糧食、酒保物品、建築資材、軍用郵便積載。便乗者824名乗船。 9月9日、サイパンへ向け横須賀発。16日、サイパン着。積載物と便乗者を全て降ろし現地の還納廃品、マンガン鉱、リン鉱石、鉄木、軍用郵便積載、便乗者424名乗船。30日、サイパンに入港してきた4926船団に加入し横須賀へ向サイパン発。 10月6日、横須賀着。積荷のうち天然資源以外のもの全てを降ろす。9日、横浜へ回航し同日着。サイパンで積載した天然資源を揚陸。12日、佐世保へ回航。16日、佐世保着。兵器弾薬、酒保物品、電纜、軍用郵便積載、便乗者690名乗船。22日、108船団に加入し松輪らの護衛を受け馬公へ向け佐世保発。本船は同船団の第二分団に配され第二分団本隊は27日高雄着。本船は28日馬公着。便乗者1名退船、同4名乗船。31日、334船団に加入し特設砲艦北京丸の護衛を受けサンジャックへ向け高雄発。 11月6日、サンジャック着。便乗者29名乗船。8日、523船団に加入しセレターへ向けサンジャック発。11日、セレター着。積荷の全てを降ろし、便乗者729名退船。26日、ビンタンへ向けセレター発。同日、ビンタン着。ボーキサイト3,600トン積載。27日、シンガポールへ向けビンタン発。同日シンガポール着。便乗者55名乗船。 12月1日、臨時編成された船団に加入しマニラへ向けシンガポール発。9日、マニラ着。便乗者35名乗船。12日、高雄へ向けマニラ発。15日、高雄着。石炭、郵便物積載、便乗者乗船。20日、内地へ向け高雄発。以後門司、徳山、若松、呉、横浜間の輸送に従事。 1944年2月3日、横浜着。ガソリンなど積載。10日、サイパンへ向け横浜発。19日、サイパン着。ガソリンなど揚陸。21日、グアムへ向けサイパン発。同日、グアム着。ガソリン、石炭を揚陸。22日から29日まで、グアム-サイパン間のガソリン、車両等の輸送に従事。29日、サイパン着。 3月4日、内地へ向けサイパン発。以後、21日まで横須賀、横浜、木更津間の輸送に従事。21日、木更津着。22日、東松三号船団に加入しパラオへ向け木更津発。30日に発生したパラオ大空襲のため、パラオ行き船団は一旦サイパンに退避。その後出港しなおして4月14日、パラオ着。以後、パラオ、ヤップ、サイパン間の輸送に従事。4月27日、パラオ着。 4月28日、サイパンへ向けパラオ発。5月3日、サイパン島北西沖30km北緯15度20分 東経145度34分 / 北緯15.333度 東経145.567度 / 15.333; 145.567の地点でアメリカ潜水艦サンド・ランスの攻撃を受けて被雷し、沈没した。沈没の際、船員10名と便乗者39名が犠牲となった。
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「りすぼん丸」は、「対馬丸」などと同じT型貨物船系列の1万載貨重量トン級大型貨物船として、1919年(大正8年)に横浜船渠で起工された。T型貨物船系列のうち「りま丸」および「りおん丸」とともにL型貨物船とも呼ばれるグループに属する。 1920年(大正9年)に竣工された後に、姉妹船とともにパナマ運河経由のニューヨーク行き定期線へ就航した。日本郵船の主力貨物船として活躍したが、1930年頃には大阪商船の畿内丸型貨物船など競合各社の船に速力や燃費で劣るようになり、1934年(昭和9年)に就役したN型貨物船と交代でニューヨーク航路を去った。以降はムンバイ航路やヨーロッパ航路で運航された。 日本が対米戦の準備に着手すると、「りすぼん丸」も1941年(昭和16年)11月1日に日本陸軍によって徴用され、船倉へ蚕棚と呼ばれる兵員輸送用の多段式ベッドを設置するなど軍隊輸送船として改装された。「りすぼん丸」は同年12月24日、同じT型の「龍野丸」、「豊橋丸」、「富山丸」を含む23隻の輸送船とともにフィリピンの戦いでルソン島ラモン湾(英語版)への上陸戦に参加した。その後、1942年(昭和17年)2月2日に第21師団を乗せて護送船団に8番船として加入し馬公からハイフォンへ向かおうとした際、出港直後に日本海軍が敷設した防潜網(英語版)へ入りこみ付属機雷が爆発して大破、19人が死傷した。馬公警備府へ曳航して応急修理の後、香港造船所で9月18日まで本修理を受けた。復旧した「りすぼん丸」は、9月27日に香港にいた捕虜及び便乗日本兵を乗せて日本本土へ出港したが、後述のように10月1日にアメリカ潜水艦「グルーパー」の雷撃を受け、翌日に沈没した。
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「晨風丸 (久留米藩)」の記事における「船歴」の解説
原名マルチインウアイト。元治元年(1864年)アメリカ・ボストンで建造された木造汽船。慶応2年9月12日(1866年10月20日)に長崎でロビネットから53,000ドルで購入した。
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船歴
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「でりい丸」は、大阪商船のバンコク・スラバヤ航路用貨客船として、1922年(大正11年)に大阪鉄工所因島工場で進水した。当初は予定航路に就航したが、1926年(大正15年)に他社との競争に敗れた大阪商船はバンコク・スラバヤ線から撤退する。そのため、1927年(昭和2年)に大阪商船が台湾総督府命令航路として運航中の高雄港・広東線へ配船替えとなった。高雄・広東航路では海賊の襲撃を複数回受け、「またもやられたでりい丸」と話題になった。 1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発すると、「でりい丸」は日本海軍により徴用された。同年10月末に大阪商船から海軍へ引き渡され、同年11月23日までの播磨造船所における工事で特設砲艦として改装された。青島占領や廈門攻略作戦(1938年5月)、広東作戦(1938年10月)などに参加し、艦砲射撃や海上封鎖に従事した。 1939年(昭和14年)中に徴用解除となった「でりい丸」は商用航海に復帰。1941年(昭和16年)8月には、南部仏印進駐で重要航路となったサイゴン・バンコクと日本を結ぶ線に就航している。 1941年後半、日米関係の極度の悪化を受けた開戦準備が進み、同年11月18日付けで「でりい丸」は再び日本海軍により徴用された。そして、太平洋戦争勃発直後の同年12月10日付けで特設砲艦籍へ編入、武装の搭載など所要の改装が施される。馬公警備府に配備され、ルソン島アパリ(英語版)で拿捕されたアメリカ貨物船「セタス」(Cetus)の回航や、陸軍部隊を乗せた護送船団の護衛など台湾周辺で行動した。1942年(昭和17年)4月10日に新設の第一海上護衛隊へ編入され、船団護衛任務でシンガポールまで行動するが、同年7月20日には横須賀鎮守府部隊へ異動となった。横須賀鎮守府では日本近海で船団護衛に従事した。 1943年(昭和18年)12月からアメリカ海軍潜水艦による熊野灘や遠州灘での通商破壊被害が続出したのに対抗し、日本海軍は、囮船を使って敵潜水艦を誘い出して撃沈する作戦を計画した。そして、「でりい丸」が囮船に選ばれた。「でりい丸」は、防水隔壁の増設、敵魚雷を食い止める防雷網(英語版)、敵魚雷の磁気信管を誤作動させるための磁力発生装置搭載などの改装工事を佐世保で施された。大砲や爆雷、水中聴音機・水中探信儀などの対潜兵装も搭載されていたが、外見は非武装の商船に見えるよう擬装された。 囮船に改装された「でりい丸」は、引き続き横須賀鎮守府部隊に属して1944年(昭和19年)1月に囮船として初めての出撃をした。しかし、後述のように1月16日に八丈島付近でアメリカ潜水艦の奇襲を受け、悪天候も重なって沈没した。
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船歴
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「新興丸」は浦賀船渠第441番船として1938年8月16日に起工。1938年11月29日に進水。1939年3月7日に竣工した。「新京丸」を1番船とする浦賀船渠設計の2000総トン級貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部の設計に差異が多いうち、「瑞興丸」と本船が回廊付きの船橋を有する完全な同型である。細部の異なる同系列船は22隻あるほか、逓信省が定めた統一規格船(平時標準船)C型も基本的に同設計で、こちらは41隻が建造された。船体中央に機関部と船橋を置き、その前後に2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部は区切られていない。「新興丸」の搭載主機は当時一般的な三連成レシプロエンジンではなく、浦賀船渠が開発した新型エンジンを採用しており、低圧シリンダーを蒸気タービンに変更したタービン付複二連成機関と呼ばれる方式である。三連成レシプロの新京丸と比べ200馬力以上も最高出力が向上した。搭載主缶は石炭専焼缶を搭載した。 商船として竣工後、当初は大阪商船所有船だったが、1939年8月12日に東亜海運に移籍する。新船主の東亜海運は、1939年8月に海運各社の現物出資で設立された国策企業であった。 日米関係の悪化で対米戦準備が始まると、1941年(昭和16年)9月5日付で新興丸は日本海軍に徴用され、9月20日に特設砲艦兼敷設艦へ類別された。このとき、同じ特設砲艦に同名の「新興丸」(丸井汽船、934トン)がおり、区別のため海軍部内限りで「第二号新興丸」と改称した。特設砲艦兼敷設艦の標準武装は12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真の分析によると本艦改装完了時の兵装は船首・船尾・中央構造物後端に12cm単装砲各1基が設置されている。機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動用軌条が2列敷かれ、船尾楼を貫通して船尾から突き出し、そのまま海面へ連続投下可能となっている。後部船倉が機雷庫となり、定数で93式機雷120個を搭載した。なお、新京丸型は特設砲艦へ改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦・本船を含む7隻が特設砲艦兼敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦と特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている。 「第二号新興丸」は大湊警備府部隊、一時はその隷下の千島方面特別根拠地隊に属し、大戦の全期間にわたって北海道・樺太・千島列島方面で行動した。船団護衛や哨戒に従事している。戦術の変化に対応し、対空兵器の強化やレーダーの装備も実施された(要目表参照)。1943年(昭和18年)8月8日に樺太東方のオホーツク海上北緯46度50分 東経144度40分 / 北緯46.833度 東経144.667度 / 46.833; 144.667でアメリカ海軍潜水艦「サーモン」の雷撃を受けるが、被害を免れた。木俣(1993年)は、1945年(昭和20年)6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷堰構築に「第二号新興丸」も参加したとしている。7月には空襲を受けた青森市の復旧・救護のための物資・食糧輸送を行い、終戦を迎えた。終戦時、平時C型を含む新京丸型系列船計64隻のうち残存していたのは「第二号新興丸」と「国津丸」のみで、戦後浮揚された「金津丸」(平時C型)、「第十八眞盛丸」(平時C型)を含めても4隻だけだった。 1945年8月11日に樺太の戦い (1945年)が始まった。当時日本領だった南樺太には40万人以上の民間人が居住しており、樺太庁は民間人の本土輸送を図った。日本の陸海軍も輸送に協力することとなり、「第二号新興丸」も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送を命じられた。8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表後も8月23日にソ連軍が島外移動禁止を発令するまで輸送は継続され、船団を組む余裕も無く、各個に避難民を収容して北海道へ脱出した。「第二号新興丸」も大泊で民間人約3600人を収容すると8月20-21日の夜に単独で出航、9ノットの速力で小樽港へ向かった。8月22日午前5時過ぎに留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明の艦船を発見した直後に魚雷攻撃を受け、回避を試みたが右舷2番船倉に1発が命中した。これは留萌沖に偵察任務で派遣されたソ連潜水艦「L-19」で、続けて浮上砲撃を加えてきた。この時点で日本海軍はすでに一切の戦闘を禁じていたが、「第二新興丸」は便乗民間人の協力も得て12cm砲と25mm機銃による応戦を開始した。1発を相手潜水艦に命中させたとの説もある。「第二号新興丸」は通報により飛来した日本軍の水上偵察機1機に援護され、留萌港へ逃げ込むことに成功した。犠牲者数は死者250人・行方不明100人とも、遺体が確認できただけで298人とも言われる。なお、同様に小樽へ向かっていた「小笠原丸」と「泰東丸」も本艦と前後して留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けいずれも撃沈されている(三船殉難事件)。 「第二号新興丸」は修理され、第二復員省(旧海軍省)の下で復員輸送艦として使用された。1946年(昭和21年)8月に徴用解除となって民間船を統制する船舶運営会へ引き渡され、船名も元の「新興丸」に戻された。同年10月、GHQの命令により船主の東亜海運が解散され、閉鎖機関に指定される。樺太・千島地区からの日本人引き揚げがソ連によって許可されると、同年12月の第1次引揚に「新興丸」も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日に第3船として函館港へ帰還した。1948年(昭和23年)10月10日、船主を関西汽船に変更。第二復員局にチャーターされて特別輸送艦となり、小樽と樺太との間の復員輸送に従事する。1951年(昭和26年)1月20日、関西汽船に返還。1956年(昭和31年)5月、搭載主缶を重油専燃缶に交換した。1961年3月6日、「新興丸」は佐野安商事に売却され、「第二金丸」に船名を変更する。同年5月、主機をディーゼル機関に交換するなどの改装を受ける。1965年(昭和40年)4月30日、「第二金丸」は新興汽船に売却された。1966年(昭和41年)1月26日、「第二金丸」はパナマのゴールデン・バッファロー海運へ売却されて「ゴールデン・バッファロー」と改名した。1970年(昭和45年)、「ゴールデン・バッファロー」はユエン・タ汽船に売却され、「ユエン・タ」と改名した。1972年(昭和47年)「ユエン・タ」はチ・ファ海運。に売却され「チ・ファ」と改名した。1973年(昭和48年)、「チ・ファ」はリエン・シン・ナビゲーション・コーポレーションに売却され、「リエン・シン」に改名した。1974年(昭和49年)に撮影された「リエン・シン」の写真では、船橋周辺が大幅に改装されていた。1975年(昭和50年)以降の詳細な行動はわかっていないが、昭和を超えた1992年(平成4年)に船籍が抹消された。 第二次世界大戦に参加した日本商船の最後の生き残りとしては、現存唯一の徴用船である「氷川丸」(日本郵船、11,622トン)があるが、現役の商船として使用されたのは本船と、逓信省平時E型標準貨物船の「久津丸」(大阪商船、838トン/パナマ船籍貨物船として1992年船籍抹消)が最後であった。なお、第二次世界大戦に参加した大日本帝国海軍艦艇で海軍艦船として使用されたのは「四阪」(中国人民解放軍海軍の練習艦として1990年退役)が最後で、特務艦艇としては「宗谷」(現海上保安庁巡視船)が唯一健在である。
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船歴
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「拓洋 (測量船・2代)」の記事における「船歴」の解説
大陸棚限界調査は、本船の就役にあわせて、昭和58年度より開始された。後には新造の「昭洋」も加わり、1983年から2008年6月までの25年にわたって調査が実施され、測量船が航行した距離は108万キロ(地球27周分)に達した。この調査に基づいた申請により、2012年4月には、約31万平方キロメートルにおよぶ大陸棚の延長が承認された。 2014年6月には、「ごんどう」を用いた調査で、久米島西方30キロに国内最大の海底熱水鉱床が発見され、同機の名前をとって「ごんどうサイト」と命名された。 2016年7月22日夕方、測量調査中に「ごんどう1」が拓洋の左舷スクリューに接触し全損した。拓洋も左舷スクリューの異常で右舷スクリューのみで東京港に帰投した。
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1969年6月12日 石川島播磨重工業東京第2工場にて進水式。郵政省が「原子力船進水記念」の記念切手を発行。 1970年7月 船体工事完了、定係港の大湊港(青森県むつ市)へ補助機関のみでの回航。 1971年11月 原子炉艤装工事完了。 1972年8月 日本原子力船開発事業団へ引き渡し。 1974年8月26日 漁船団の包囲網の、台風14号によるスキを突いて、大湊を出港(予定は25日であった)。 8月28日 原子炉が初臨界に達する。 9月1日 遮蔽リングの設計ミスにより、北太平洋航行中に放射線(高速中性子)漏れを観測。試験中止。 9月5日 陸奥湾漁民ら、帰港反対を決議。「むつ」の"漂流"が始まる。 10月14日 自由民主党総務会長、青森県知事、むつ市長、県漁連会長の4者が合意調印(2年半以内に母港撤去、半年以内に新母港決定、地元対策に12億円)。 10月15日 帰港。原子炉を封印、係留。 1976年2月7日 長崎県佐世保市に修理港受入を要請。 1977年2月27日 佐世保市で受入賛否両派が集会、反対派デモに右翼が突入。 4月30日 長崎県議会、核燃料抜きで、佐世保修理受入を議決。 1978年5月13日 政府、長崎県と佐世保市に核封印で修理寄港を要請。 5月26日 「むつ念書」取り決め。 7月21日 長崎県、佐世保市、修理受入協定調印。 10月16日 佐世保入港。1982年にかけて改修工事。 1979年7月9日 改修のため佐世保重工業ドック入り。 1980年8月14日 大湊の再母港化を要請。 1981年5月24日 政府、地元関係者五者会談、母港をむつ市関根浜に建設で合意。 9月29日 むつ市、大湊仮母港を拒否。 1982年9月6日 むつ市大湊港に再入港。 1984年1月17日 自民党科学技術部会が廃船決定発表。 1988年1月26日 大湊港を出港。 1月27日 新母港の関根浜港に入港。 8月4日 関根浜港で原子炉の蓋容器開放、点検始まる。 1989年10月30日 蓋開放点検終了。 1990年3月6日 起動前試験終了。 7月 原子力航行を行う。 1991年2月~12月 実験航海、82000km(地球2周以上)を原子力で航行。 1992年 原子炉停止。 1993年3月 原子炉を解体撤去し、海洋地球研究船への改装工事に着手。 1996年8月21日 海洋地球研究船「みらい」として就航。
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船歴
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「りま丸」は、「対馬丸」などと同じT型貨物船系列の1万載貨重量トン級大型貨物船として1919年(大正8年)に横浜船渠で起工された。T型貨物船系列のうち「りすぼん丸」および「りおん丸」とともにL型貨物船とも呼ばれるグループに属する。1920年(大正9年)に竣工後、ヨーロッパ航路向けの日本郵船の主力貨物船として活躍した。その間1923年(大正12年)に関東大震災が発生した際には横浜船渠で整備中で、崩れた石材の激突により破損して機械室に浸水する被害を受けた。 日中戦争が始まると、「りま丸」は日本陸軍によって1937年(昭和12年)9月1日-1938年(昭和13年)3月30日と1938年6月24日-1939年(昭和14年)1月16日の2度にわたって軍隊輸送船として徴用された。1941年(昭和16年)には日米関係が緊迫する中で米国ロサンゼルスへ航空用ガソリンの積み取りに行き、当時は日本領だった台湾の高雄港へ運んでいる。 日本が対米戦の準備に着手すると、既に船齢20年超と老朽船の部類に入っていた本船も1941年9月13日に再び日本陸軍によって徴用された。太平洋戦争開戦後、「りま丸」は同年12月22日に同じT型の「但馬丸」「対馬丸」などを含む総数84隻の護送船団の第2船隊第8分隊に属して野砲部隊を搭載、フィリピンの戦いでルソン島リンガエン湾への上陸戦に参加した。1942年(昭和17年)の蘭印作戦では、香港の戦いを終えた陸軍部隊を収容してスマトラ島パレンバンへ上陸させた。ビルマの戦いにも参加してラングーンまで進出、帰途にはマレーの戦いで大破した貨物船「阿蘇山丸」(三井船舶:8811総トン)をパタニから香港まで曳航している。同年11月12-29日には、門司からラバウルまで貨物船「富浦丸」(日本郵船:3821総トン)と船団を組み、工兵部隊の陸軍将兵1234人・馬118頭を無事に輸送した。1943年(昭和18年)はマニラを拠点として主にフィリピン方面で行動した。同年3月16日と4月6日に敵潜水艦と遭遇するが自衛用火砲で砲撃するなどして難を逃れ、陸軍から表彰された。 本船の最後の航海は、1944年(昭和17年)2月7日出航のサンフェルナンドへの輸送任務であった。船内には独立混成第19旅団や航空部隊等の輸送人員3241人が乗船し、徴用船員85人と自衛用武装を操作する船砲隊12人が運航を担当した。兵器や弾薬なども約4000トンが積載されていた。門司発・基隆港行きのモタ02船団(輸送船14隻・護衛艦2隻)へ加入し、船団の基準船として先頭中央に位置した「りま丸」は、門司出港翌日の2月8日午後10時40分頃、五島列島東南沖の東シナ海上を9ノットの低速で之字運動G法を実施しつつ航行中、アメリカ潜水艦「スヌーク」の魚雷攻撃を受けた。右舷2番船倉・機関室付近・船尾に計3本の魚雷が命中した「りま丸」は、10時45分または54分に北緯31度05分 東経127度37分 / 北緯31.083度 東経127.617度 / 31.083; 127.617の地点で沈没した。このとき貨物船「白根山丸」(三井船舶:4739総トン)も雷撃を受けて大破している。水雷艇「鷺」と第38号哨戒艇および「第五共栄丸」が「りま丸」乗船者の救助にあたったが、輸送兵員2700人・船砲隊9人・船員56人の計2765人が戦死した。日本の輸送船として当時史上最悪の人的被害を出した事例であり、大内(2010年)によると終戦までの全期間でも日本輸送船のうちで7番目に多い。船倉内に多数の兵員が押し込められていたため短時間の脱出が困難だったことや船倉が直撃を受けたことが犠牲者数を大きくした。生存者を収容した護衛艦艇は「白根山丸」とともに佐世保港へ帰投した。なお、モタ02船団は一時鹿児島湾へ退避した後、2月16日に台湾の基隆へ到着した。第38号哨戒艇は爆雷による反撃で効果確実と報じたが、実際には「スヌーク」は健在であった。 沈没したと推定される海域では、九州工業大学特別教授の浦環による海底調査が2018年8月に行われたが、船体は発見されなかった。一部の犠牲者の遺体は、東へ300km以上離れた馬毛島(鹿児島県西之表市)に漂着し、島民により仮埋葬された。厚生労働省による遺骨調査が2018年10月末~11月初に予定されている。
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船歴
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阿里山丸は、第二次戦時標準船2A型(改A型)の14番船として玉造船所(現:三井E&S造船玉野工場)で建造された。形式的な発注者は戦時統制団体の産業設備営団であるが、実質的な船主は三井船舶である。船名はおそらく台湾の嘉義県にある阿里山に由来するが、言及文献が発見できない。なお、三井船舶所有船の「○山丸」という命名慣例に沿っている。2A型は第二次戦時標準船の代表格というべき大型貨物船である。建造を容易にするためブロック工法に適した直線的な外観で設計され、二重底の廃止・スクリュー軸の短い船尾機関式の採用など性能低下を忍んだ徹底的な簡易設計に特徴がある。2A型の搭載機関は船によって多様であるところ、本船は艦本式タービン甲25型1基を積み、最高速力13ノットだった。自衛武装として、短二十糎砲1門と爆雷4発を装備している。 1944年(昭和19年)6月22日に竣工した阿里山丸は民需用が建前の船舶運営会使用船となった。軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍配当船としても行動している。最初の航海は、樺太北小沢炭鉱産の石炭輸送で、6月29日に門司を出港した。7月5日に北小沢に到着して石炭を積み取り、船川港を経て伏木港で荷を下ろしている。門司に戻った後、沖縄本島への部隊・兵器の輸送に充てられ、8月1日に出航。8月6日に鹿児島港で護送船団のカタ626船団(輸送船15隻・護衛艦12隻)へ加入し、9日に那覇港へ到着。帰路はドラム缶と人員を積んで、やはり鹿児島経由で8月28日に門司へ戻った。 当時、日本軍はフィリピン方面の防備強化が急務となっており、阿里山丸もフィリピンへの軍事輸送に投入されることとなった。阿里山丸は、8月30日から9月2日に釜山港でフィリピンへ向かう増援部隊を乗船させた。門司でミ船団の一つであるミ19船団(輸送船18隻・護衛艦6隻)に加入し、9月9日に経由地の高雄港へ向けて出航する。翌10日に逓信省標準B型貨物船改装応急タンカー千早丸(日本郵船、4,701総トン)がアメリカの潜水艦サンフィッシュの魚雷により撃沈されたため、本船は他の船とともに珍島沖へ一時退避した後、18日に高雄へ到着した。ここでミ19船団と分かれて9月26日に出港、ルソン島北岸アパリ(英語版)とサンフェルナンドを経由して、10月4日にマニラへ到着した。 揚陸を終えた阿里山丸は、日本への帰路では、乗船を沈められて滞留中の日本船員204人とアメリカ兵捕虜1781人などを輸送することになった。日本軍は、アメリカ軍の上陸に備え、フィリピン所在の捕虜の日本本土移送を活発化させていた。カバナトゥアン(英語版)捕虜収容所などから9月下旬に旧ビリビッド刑務所へ集められていた捕虜が、護送隊40人とともに阿里山丸へ乗船した。捕虜の乗船時期は、ウィリアム・ボーエンの調査によると、10月10日以前である。しかし、『徴傭船舶行動概見表』に捕虜輸送として記載されているのは10月20日以降の航海だけである。レイテ島の戦いと関連したアメリカ軍機動部隊のマニラ空襲を避けるため、阿里山丸は10月10日にマニラを出港してパラワン島バキット湾へ18日まで退避した。19日にマニラへ戻った阿里山丸は物資を補充後、マタ30船団(春風船団)へ加入して10月20日に出航した。だが高雄へ向かう途中、次に述べる通り竣工からわずか4カ月余りの10月24日に撃沈された。
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長崎の三菱造船所で1901年(明治34年)5月に起工。翌年10月4日進水。同月25日に竣工。翌月に宮内省から海軍に移管、雑役船「初加勢」とされた。 1905年(明治38年)の観艦式には皇室ヨットとして使用された。 1921年(大正10年)からは高松宮が海軍兵学校で使用した。 1945年(昭和20年)の敗戦により米軍が接収し、「ドロシー」と改名された。1949年(昭和24年)に日本に返還され、志摩航運に売却。「初風」と改名され観光船となった。この時、機関を蒸気機関からディーゼルに換装している。1950年(昭和25年)3月18日に鳥羽沿岸で座礁し、船体放棄された。
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「宮古丸」は、大阪商船が、造船奨励法の適用を受けて「那覇丸」「八重山丸」の同型船2隻とともに竣工させた小型貨客船である。建造所は姉妹船3隻で異なっており、本船は大阪鉄工所桜島工場で1914年7月18日に進水して「宮古丸」と命名されたのに対し、「那覇丸」は藤永田造船所、「八重山丸」は神戸三菱造船所で建造された。船名は宮古島などいずれも沖縄の地名に由来するが、沖縄航路専用船として設計されたわけではなく、主に大阪港・鹿児島港間の定期航路用として建造された船であった。 竣工した「宮古丸」は、大阪から神戸港を経由して鹿児島に至り、さらに奄美大島名瀬港を経て沖縄本島那覇港までも足を延ばす航路に就航した。その後、先島諸島方面にも就航したが、1919年(大正8年)に沖縄県の要望に応えて、従来は「大義丸」(1492総トン)1隻だけであった大阪商船の鹿児島・那覇間の定期航路増強へ投入された。1921年(大正10年)12月9日には、航海の途中で諏訪之瀬島の噴火を目撃し、観察記録を残している。1922年(大正11年)に「宮古丸」は鹿児島・基隆港間の定期航路へ移され、さらに1932年(昭和7年)には台湾東岸航路へ移っていたが、1937年(昭和12年)に鹿児島・名瀬・那覇間の定期航路に戻された。また、1924年10月31日には西表島北北東海底火山の噴火を初めて観測している[要出典]。 1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発後も、「宮古丸」は基本的に鹿児島・名瀬・那覇を結ぶ定期民間船として運航された。船舶運営会の設置後は、その使用船の形式となっている。1941年から南西諸島へ送る部隊や補給物資などの軍事輸送にも使用され、1942年(昭和17年)には陸軍による徴用も検討されたが、徴用を避けて運送契約による方式が採られた。アメリカ潜水艦による通商破壊が沖縄方面でも行われたため、護送船団に組み込んでの運航も行われた。1944年(昭和19年)7月3日には、タカ604船団(輸送船9隻・護衛艦10隻)に加入して鹿児島へ向かう途中、同行の貨物船「大倫丸」(大阪商船:6862総トン)がアメリカ潜水艦「スタージョン」に撃沈されるなど安全な航路ではなかった。 1944年8月5日、「宮古丸」は、後述のように小型艇3隻に護衛されて沖縄本島へ向かう途中、アメリカ潜水艦「バーベル」の雷撃を受けて沈没した。
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船歴
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1982年に最初の南極航海を行い、研究者とともに基地設営資材と雪上車を輸送した。その後、例年11月から翌年3月ごろにかけては南極へ航海し、ドイツの南極観測拠点であるノイマイヤー基地などへの補給と、南極圏の科学研究に従事している。 1990年の東西ドイツ統一に際しては、東ドイツの南極観測拠点であるゲオルク・フォルスター基地の観測要員を収容して統一されたドイツに迎え入れた。 1991年、スウェーデンの砕氷船オーデンとともに北極の調査航海を実施し、9月7日に北極点に到達した。非核動力の船舶が北極点に達したのはこれが史上初であった。北極点へはその後2001年にもアメリカの砕氷船ヒーリーと共に到達。さらに2011年には単独で北極点に達し、氷の厚さの変化などを調査した。 1995年には、南極のベリングスハウゼン海において知られていた海底地質の異常を調査し、215万年前に起きた直径1~4kmの小惑星衝突跡であることを明らかにした(エルタニン衝突)。 2000年11月には南極のHNLC海域において鉄散布実験EisenExを実施し、鉄を投入することで植物プランクトンを大幅に増殖させ得るという鉄仮説の裏付けを得た。その後2004年と2009年にも同様の実験を行い、海洋の二酸化炭素吸収を促進させる観点から研究を行っている 。 2008年の世界気象機関(WMO)による国際極年共同観測事業には12ヵ国47名の科学者を乗船させて参加。北極を周回する10.800海里(レイキャビク~ブレーマーハーフェン)を航海し、多岐に渡る北極海のデータを収集した。この航海によってポーラーシュテルンは北東航路と北西航路をいちどに通過した初めての調査船となった。 現在、ポーラーシュテルンは既に船齢が30年を越えているため、新しい砕氷船の建造が検討されている。
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船歴
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「昭洋 (測量船・2代)」の記事における「船歴」の解説
1998年(平成10年)に退役した同名船の代船として、同年3月20日に三井造船玉野事業所で竣工した。上記の通り技術的に見るべき点が多く、竣工同年の「シップ・オブ・ザ・イヤー98」を受賞した。 就役直後の1998年9月には、「マンボウII」の初仕事として明神礁の調査が行われた。同地は、1952年9月、噴火の調査のために派遣された海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が噴火に巻き込まれて遭難、乗員・調査団31名全員が殉職した因縁の地であり、「マンボウII」の調査によって詳細な海底地形図が作成された。 この調査は、文部省の測地学審議会の建議を受けて行われる「海域火山基礎情報図調査」の初の例であり、その後も各所の海底火山調査が行われていた。そして2015年6月に行われた10回目の海域火山基礎情報図調査では、本船により、2013年より断続的に噴火を再開した西之島の調査が行われた。特に「マンボウII」は、その特性をいかして、半径4キロメートルの噴火警戒範囲にまで進入して、マルチビーム測深機による海底調査を行った。これは噴火後初の海底調査であり、噴出物の体積や地下構造など、従来行われてきた航空観測では得られない有力な情報が多く観測された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/31 09:20 UTC 版)
「オーデン (砕氷船・2代)」の記事における「船歴」の解説
1991年にドイツの砕氷船ポーラーシュテルンと共に北極調査航海を実施し、同年9月7日、非核動力の船舶として初めて北極点に到達した。 2004年には統合国際深海掘削計画(IODP)による史上初の北極深海掘削調査プログラムACEXに参加。ロシアの原子力砕氷船ソビエツキー・ソユーズと連携して、ロモノソフ海嶺から海底堆積物のコアを採取するノルウェーの掘削調査船ビダール・ビキングの周囲を周回して砕氷し、その掘削作業をサポートした。 2006年から2010年にかけてはアメリカ国立科学財団との契約によって南極へ遠征し、マクマード基地への航路啓開に従事すると同時に、アメリカ側と共同で南極の研究調査を行っている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/25 04:00 UTC 版)
ゾンネは1977年から2014年までの間に300回以上の科学調査航海を行い、海洋学・生物学から資源探査まで幅広い分野にわたる研究のプラットフォームとなった。 2012年3月から約1か月をかけ、ブレーメン大学・海洋研究開発機構など日独共同チームによって、東日本大震災の震源である三陸沖海底の調査が行われた。この調査はドイツ連邦教育・研究省およびドイツ研究振興協会 (DFG) の資金提供を受け、無人潜水機を投入した音響探査・地質サンプル取得・海底地震計設置などが実施された。 2013年4月からは台湾大学などと協力し、台湾南西海域にてメタンハイドレート探査を行った。調査航海の終了後に一部の設備を台湾の調査船「海研5号」に提供している。 2014年には新たな海洋調査船である2代目ゾンネが竣工し、初代ゾンネは同年8月にインド洋で行った海底地質調査を最後の航海として、ドイツの海洋調査船としての役割を終えた。その後、2015年にアルゼンチンの国立科学技術研究評議会 (CONICET) によって購入された初代ゾンネは船名をオーストラル (ARA Austral) と改め、アルゼンチン海軍の水路調査部門に所属する調査船として新しい任務に就くこととなった。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 05:54 UTC 版)
1983年3月19日に竣工し、塩釜海上保安部(現在の宮城海上保安部; 第二管区)に配属された。大型巡視船の船名は、本来なら海峡・島嶼に由来することになっているが、塩釜海上保安部付近には金華山海峡以外に海峡・島嶼が無く、仮に「きんかさん」または「きんか」と命名しても「金隠し」などと揶揄される可能性があった。このため、巡視船の命名基準としては本来なら小型巡視船に用いられる山の名前ではあるが、蔵王連峰に因んで「ざおう」と名づけられた。 2011年の東日本大震災の際には、地震発生から津波到達まで猶予がなかったことから出港できず、停泊状態で津波を受けたために係留索が切断し、漂流状態となったが、船内にいた一部の乗組員によって錨を投入し、座礁を免れた。 平成30年度予算で延命・機能向上工事費が認められ、2019年8月にかけて工事を受けた。改修費は約32億円であった。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:27 UTC 版)
「アセニア (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説
アセニアはアンカー・ライン社(英語版)とドナルドソン・ライン社の合弁会社であるアンカー・ドナルドソン・ライン社にて運用するために建造された。フェアフィールドは姉妹船(英語版)としてレティシア(英語版)を建造し、1924年10月に進水し、1925年に竣工させている。アセニアとレティシアはドナルドソン・ライン社で運航された旅客船では最大であった。これらの船は、夏はリバプールとグラスゴー、ケベックとモントリオール、冬はハリファックスを結ぶ大西洋で運航された。 1928年、ハリファックスにピア21遠洋定期船ターミナルが建設された後、アセニアはハリファックスへより頻繁に運航されるようになり、入港した回数は100度を超えた。1935年にアンカー・ライン社は売却され、ドナルドソン社がその資産のほとんどを購入した。1936年にドナルドソン社はドナルドソン・アトランティック・ライン社として再構成された。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/14 06:50 UTC 版)
明治元年(1868年)の戊辰戦争で捕獲し鹿児島藩に移管され、後に返納され軍務官所管となった。 明治2年(1869年)10月23日に再度鹿児島藩へ移管された。 その他の詳細は不明。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 10:24 UTC 版)
1990年2月28日に竣工し、新潟海上保安部(第九管区)に配属された。船名は越後国に由来する。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/31 23:25 UTC 版)
1984年9月27日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。船名は摂津国に由来する。その後、1986年3月3日には神戸海上保安部(第五管区)に配属替えとなった。 2009年7月3日、和歌山県白浜町の南西約29キロの紀伊水道で、神戸海上保安部所属の巡視船「せっつ」が前部甲板にある35ミリ機関砲の射撃訓練を行ったところ、衝撃で砲身が吹き飛んで海中に落下した。乗組員約40人にけがはなかった。神戸海上保安部の発表によると、「せっつ」は20ミリ機関砲の訓練を終え、35ミリ機関砲を右舷に向け1発発射した直後、砲身が外れたという。砲身は、ねじって砲にはめ込む仕組みになっており、常時取り付けられている。訓練前の点検でも異状はなかったという。 その後、2019年より延命・機能向上工事に入り、2020年10月1日に完工。任務に復帰している。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 03:36 UTC 版)
1917年(大正6年)8月18日、川崎重工業神戸造船所の第404番船として起工した。船名は第十六大福丸であった。1917年11月27日に進水。12月22日、大阪商船(現・商船三井)が第十六大福丸を購入し、すまとら丸に改名。1917年12月25日に竣工した。建造日数は130日であった。船名の由来はスマトラ島から。 竣工後は第一次世界大戦により増大した船舶輸送需要に対応し航海を行った。大戦終結後の1920年(大正7年)にはへいぐ丸(5,824トン)、ほのるる丸(5,751トン)、あむうる丸(7,770トン)、あまぞん丸(7,770トン)、あるたい丸(7,772トン)、あらすか丸(7,379トン)と共に、シンガポールから上海、門司、神戸、横浜、バルボア、パナマ運河を経由してニューヨークとの間を結ぶニューヨーク線に就航した。1926年(大正15年)3月31日、セイロン島で停泊中に火災事故を起こして損傷している。1930年(昭和5年)には東航北米航路が開設され、畿内丸型貨物船が就航したあおりをうけ、あらすか丸が1933年(昭和8年)にアフリカ航路へ転配され、1934年(昭和9年)にほのるる丸が日本合同工船へ、あむうる丸が山下汽船(現・商船三井)の大華丸(2,196トン)、中華丸(2,188トン)と交換する形でそれぞれ売却され、購入した大華丸、中華丸は台湾方面の航路に使用された。同年にあまぞん丸、あるたい丸が第一次船舶改善助成施設の見合い解体船に指定されて解体されてしまう。1935年(昭和10年)にはインド航路からあとらす丸(7,342トン)が転配され、ニューヨーク線は3隻体制で細々と運航された。1941年(昭和16年)9月、日米関係悪化によりニューヨーク線は休航が決定し、すまとら丸は10月10日に陸軍に徴用されて陸軍輸送船となり、陸軍船番号964番が付与された。 12月13日、E作戦に参加してマレー半島に上陸する第5師団を乗せてカムラン湾を出港。16日にマレー半島北端のタイ王国内のシンゴラに到着し、乗船部隊を揚陸した。 1942年(昭和17年)3月19日にはU作戦輸送に参加し、25日にラングーンに到着して輸送任務を完了した。12月2日には八号演習輸送に参加して佐伯を出港し、15日にラバウルに到着した。その後ラバウルを出港し、24日にパラオに到着した。 1943年(昭和18年)4月20日、パラオからフィリピンのマニラへ向けて航行中にサンベルナルジノ海峡で海中のサンゴ礁に座礁。その後離礁したものの、損傷により北緯12度44分 東経124度08分 / 北緯12.733度 東経124.133度 / 12.733; 124.133のサンベルナルジノ海峡東方沖7km付近にあるルソン島ブルサン沖の入り江に投錨し、カモフラージュがされた。5月12日、同地で米潜ガジョン(USS Gudgeon, SS-211)がすまとら丸を発見。0920、ガジョンは魚雷2本を発射。1本は海岸に命中したが、もう1本が4番船倉に命中。爆発により6.4mの穴があいたすまとら丸は浸水し、大破着底した。この被雷により船員1名が戦死した。27日、修理不能と判断され放棄された。 1944年(昭和19年)11月22日、陸軍はすまとら丸に関わる全賠償額のうち一般海難賠償額相当分を差し引いた額を大阪商船に支払った。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 13:51 UTC 版)
「みずほ (巡視船・2代)」の記事における「船歴」の解説
2019年8月22日、名古屋海上保安部(第四管区)に配属。 上記の通り、当初は初代「みずほ」の代船として計画されていたが、昨今の情勢変化により、同船は「ふそう」と船名を変更して配備を継続することになったため、代替ではなく増強配備となった。また2番船の建造も期待されていたが、海上保安庁を取り巻く環境が想定以上に大きく変化したこともあって、不透明となっている。
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「みずほ (巡視船・初代)」の記事における「船歴」の解説
設計・装備については「みずほ型巡視船 (初代)」を参照 1986年3月19日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。その後、「しきしま」の就役に伴い、1991年12月16日には名古屋海上保安部(第四管区)に配属替えとなった。 また2019年7月5日には、新「みずほ」の就役に伴って舞鶴海上保安部(第八管区)に配属替えとなり、この際に「ふそう」に改名された。なお旧「みずほ」時代の搭載機はそのまま新「みずほ」に移行したため、「ふそう」は当面は固有の搭載機なしで運用されている。 「みずほ」時代の船影
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/29 14:33 UTC 版)
「おおすみ (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
設計・装備については「つがる型巡視船」を参照 1979年10月18日に竣工し、鹿児島海上保安部(第十管区)に配属された。船名は大隅半島に由来する。 その後、新造の「しゅんこう」が同保安部に配属されることになったことから、2019年12月25日付けで横浜海上保安部(第三管区)へ配属替えとなった。1979年10月から2019年10月までの間で、航走距離は約95万海里、457回の海難出動で304人を救助した。 なお平成22年度補正予算で延命・機能向上工事費が認められ、2012年1月から同年6月まで工事を受けた。その際に、主兵装であるボフォース 60口径40mm単装機銃をエリコン 35mm単装機銃へ換装している。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 06:20 UTC 版)
「シティ・オブ・パリ (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説
シティ・オブ・パリはスコットランド、クライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニーで建造される。シティ・オブ・ニューヨーク進水の7ヶ月後に進水し、1889年3月19日に公試を行い、4月3日に処女航海に出航した。20ノットの速度を出し、客船エトルリアのブルーリボン賞の記録を更新した。1891年にホワイト・スター・ラインの客船マジェスティックにより記録を更新されたものの、1892年に再び記録を更新し、翌年までそれを保持している。シティ・オブ・パリは東回り航路の記録を1892年に姉妹船のシティ・オブ・ニューヨークによって破られるまで保持していた。2隻は1893年にインマン・ラインからアメリカン・ラインに移籍し、同時にイギリス政府による資金援助が廃止された。シティ・オブ・パリはパリ (Paris) と改名され、アメリカ・イギリス間の航路を航行した。米西戦争の間、アメリカ海軍はパリをチャーターし、イェール (USS Yale) として運用した。戦後は再びパリと改名し、商用運航された。 1899年5月21日、西回り航路を航行中、パリはイギリス西部で座礁した。離礁が試みられた後、ひどく破損したパリはアイルランドのベルファストで修復が行われ、新たな主機と、2本の高い煙突に代えて3本の煙突が装着された。パリはフィラデルフィア (Philadelphia) と改名され、北大西洋での旅客輸送を再開する。アメリカ合衆国が1917年に第一次世界大戦に参戦すると、フィラデルフィアはアメリカ軍の兵員輸送に従事した。ヨーロッパへの輸送任務は1918年まで続けられ、その後にアメリカ海軍が船を取得し、ハリスバーグ (USS Harrisburg) と改名された。1919年に船主に返還されると再びフィラデルフィアと改名し、アメリカ、イギリス、フランス間での旅客輸送を再開した。フィラデルフィアは老朽化していたものの、1922年に売却される。新たな所有者はフィラデルフィアを地中海で運航するよう計画したが、財政上の問題でイタリアのナポリで足止めされた。その後、フィラデルフィアは1923年にスクラップとして売却されるまで同所で停泊した。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/07 16:31 UTC 版)
1938年12月20日進水。1939年竣工。 第二次世界大戦が始まると、クラン・フレーザーは地中海で連合国軍の作戦を支援するために用いられた。クラン・フレーザーは、マルタ及びアレクサンドリアへ補給物資を送る1940年11月のカラー作戦に参加した3隻の商船の内の1隻である。妨害に出撃してきたイタリア艦隊との間でスパルティヴェント岬沖海戦が発生し、その後クラン・フレーザーと姉妹船クラン・フォーブズはマルタへの航海を続けた。 1941年4月6日、ドイツ軍がギリシャへの侵攻を開始した。この日、クラン・フレーザーが停泊していたギリシャ・ピレウス軍港はドイツ空軍による空襲を受け、クラン・フレーザーにはハヨ・ヘルマンの操縦するJu 88爆撃機が投下した250kg爆弾が命中した。この時クラン・フレーザーは250トンのTNT火薬を積んでおり、爆弾の命中で大爆発を起こし、港の中で沈没した。これにより6人が死亡し、9人が負傷した。また、この爆発により周辺の船舶や港にも大きな被害が生じた。 この項目は、船に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 交通/ウィキプロジェクト 船)。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:47 UTC 版)
「ジャン・ニコリ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
スウェーデンのランズクルーナに造船された。1998年6月13日にミノアン・ラインスに引き渡され、7月4日、パトラ~アンコーナ航路に就航。2009年にSNCMに買収され、「ジャン・ニコリ」と改名された。マルセイユ~アジャクシオとマルセイユ~ポルト=ヴェッキオの路線に就航する。彼はSNCMの破産後、2016年にコルシカ・リネアに転勤しました。2020年のドック入り時には、SOxスクラバーを搭載しファンネルが長方形のものに交換された。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:07 UTC 版)
本船以前の大型練習船としては、日本初の大型練習船として1897年(明治30年)に建造された月島丸があった。月島丸は日本の練習船として初めて太平洋往復を果たすなど活躍したが、1900年(明治33年)11月17日に駿河湾沖で台風による荒天で遭難、123名が死亡する重大海難となった。 月島丸の喪失を受け、代船として大馬力の補助機関を有する堅牢で安全な大型帆船を国内建造することとなり、川崎造船所神戸工場で起工、1903年(明治36年)12月2日に進水、大成丸と命名された。日露戦争開戦の年に竣工した本船は、さっそく海軍に徴用され、試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事した。 その後、徴用を解かれ、帆装を復旧して練習船として復帰、1906年(明治39年)10月に最初の遠洋航海を行った。 1910年(明治43年)10月26日、本船は第6次遠洋航海として横浜港から一度目の東回り世界一周航海に出発した。実習生94名を含む154名が乗船、出発前日には当時の逓信大臣後藤新平が来船、訓示の後、自署入りの扇子とハンカチを乗員全員に贈った。フランス領タヒチ、フォークランド諸島スタンリー、ケープタウン、メルボルンを経由、2度の暴風に遭遇しながらも航海日数307日、航海距離約56,300kmを経て、1911年(明治44年)8月25日に横浜港に帰港した。 1912年(明治45年)7月上旬、本船は館山港から再び東回り世界一周航海に出発した。実習生125名を含む180名が乗船、サンディエゴ、ケープタウン、セントヘレナ、リオデジャネイロ、フリーマントル、南洋諸島を経て帰港したが、北大西洋を航行中に明治天皇崩御の報に接したのを皮切りに、2度目の世界一周航海は苦難の連続であった。 サンディエゴでは船長が突如下船し、後任の船長が赴任するまで47日間に渡って同港で停泊、その間に三等運転士が病死した。その後も、無風、荒天に見舞われ、南インド洋では一か月余り晴天がなく栄養失調もあり、70名以上が脚気を発症、学生2名、大工1名が病死した。航海日数456日、航海距離3万6,377海里を経て、1913年(大正2年)12月中旬に帰港した。この航海には、後に初の労働大臣となる米窪満亮が乗船しており、乗船記を「大成丸世界周遊記」として『東京朝日新聞』に連載、夏目漱石の激賞を受けた。周遊記は米窪太刀雄の筆名で『海のロマンス』と改題して単行本として出版され、漱石が序文を寄せた。この単行本はベストセラーとなり、商船学校や海軍兵学校への志願者が増加したと言われている。 その後も練習船として遠洋航海を続けた。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。1941年(昭和16年)に再び海軍に徴用され、帆装を取り外し輸送船として石炭輸送に従事した。無事終戦を迎えたが、直後の1945年(昭和20年)10月9日11時頃、神戸港内でアメリカ軍の残存機雷に触雷して沈没、実習生31名が死亡した。 就航から沈没までの間、本船は約630,000海里を航行、63回の遠洋航海を行い、学生2,330名(延べ8,873名)が乗船した。船名の銘鈑はパネルに加工され、1954年(昭和29年)に就役した2代目大成丸の船内に展示された。このパネルは2014年(平成26年)に就役した4代目大成丸でも展示されている。
※この「船歴」の解説は、「大成丸 (初代)」の解説の一部です。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/20 04:44 UTC 版)
2012年8月2日 - 起工式。 2013年2月15日 - 進水式。大槌町の小学6年生2名が支綱切断した。 2013年6月30日 - 海洋研究開発機構に引き渡し。 2014年7月30日 - シップ・オブ・ザ・イヤー2013特殊船部門賞を受賞。 2016年10月20日 - 西之島の噴火後初の上陸調査を本船を母船として実施。
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船歴
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九州汽船の発注で三菱重工業長崎造船所で建造され、1926年3月31日に竣工した。1926年4月5日に長崎 - 玉之浦(福江島)航路に就航後、下五島 - 屋久島航路に転配された。1928年6月6日、社名変更により九州商船の保有となる。 1949年に大阪商船から購入した小型客船28隻組の藤丸、1952年に尼崎汽船から購入した大衆丸が椿丸として五島航路に就航したため、本船は1952年11月に屋久島・種子島航路に転配された。 1940年12月15日、海軍に徴用され、三菱重工業長崎造船所で艤装工事に着手、12月25日、佐世保鎮守府所管の特設捕獲網艇となり大湊防備隊に配属された。1941年1月15日、第52駆潜隊に編入され司令艇となった。2月3日から3月22日にかけて名村造船所で艤装工事を行い、3月5日に第521号捕獲網艇と略称が制定された。この間、2月2日から3月1日まで同隊の司令艇は第17昭南丸が引き継いだ。5月15日、第52駆潜隊の編成から解かれ6月25日に除籍となり、7月7日に徴用を解除された。その後、艤装を撤去して同年12月22日に長崎 - 玉之浦航路に復帰した。 1945年5月14日、奈良尾沖で米軍の哨戒機2機から銃爆撃を受け多数の死傷者を生じた。操舵室が大破したものの福見港内への退避に成功、奈良尾港へ曳航され、負傷者は救護所となった映画館へ収容された。 戦後は再び五島航路に就航、1957年に楓丸の就航により引退した。 1957年10月、伊豆箱根鉄道に売却され、伊豆箱根丸となった。新設の熱海 - 大島航路に就航する予定であったが東海汽船と競願となり、本船の老朽化が衆議院の運輸委員会で議題に上るなどして、航路の認可は遅れ、就航は1959年4月となった。 1966年8月、伊豆箱根鉄道の大島航路撤退により東海汽船に売却され、熱海 - 大島航路に就航した。1967年にはまゆう丸の就航により転配され、1968年4月にさつき丸と改名された。 1973年、小笠原海運に用船されていた椿丸が返却されたため引退、その後解体された。
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船歴
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「ギャラクシー (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
タリンク初の新造船であるロマンチカは2002年にタリン - ヘルシンキ航路に就航して成功をおさめた。その後、最大の競争相手であったヴァイキングラインが、同航路で運航している主力船シンデレラを退役させ、より大型の新型船ロゼラを投入する計画を明らかにした。2004年10月28日、タリンクはこれに対して大型の新造船でロマンチカを更新することを決め、ロマンチカは同級の僚船ヴィクトリアIと共にタリン - ストックホルム航路に移動することとなった。 建造は2005年初頭には開始され、4月21日には船体がラウマのアケル造船所で起工、12月1日に進水しギャラクシーと命名された。 2006年5月2日、タリン - ヘルシンキ間に就航。1日1往復であったが、運航時間は7時間に過ぎず大半の時間は港に係留されていた。2007年4月には早くも翌年からストックホルム - マリエハムン/ローングネース - トゥルク航路に就航することが発表され、タリン - ヘルシンキ航路にはバルティック・プリンセスが就航することになった。 ナーンタリで3日間ドック入りした後、2008年7月23日、船籍をスウェーデンに変更したギャラクシーがシリヤ・フェスティバルに代わって就航した。名称も含めて外観は変更される予定であったが、据え置かれることになった。唯一、舷側の表記がタリンクからシリヤラインに改められている。
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船歴
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1940年4月30日に竣工検査を完了した。当時の日本で「海上トラック」(海トラ)と俗称された小型貨物船である。船体は鋼製、小型貨物船にありふれた船尾機関型で、動力として神戸発動機製作所が1939年(昭和14年)7月に製造した4ストロークディーゼルエンジンを搭載している。船主は東和汽船で、当時は日本統治下だった関東州の大連港に船籍を置いていた。 日中戦争中の1940年12月5日に日本海軍により海軍省一般徴用船として佐世保鎮守府所管で徴用され、太平洋戦争勃発後の1943年(昭和18年)6月1日時点では第八艦隊配属の雑用船として使用されていた。本船を始めとする日本海軍徴用の海上トラックは、ソロモン諸島の戦いで日本軍が劣勢となり制空権・制海権を失いつつあった時期に、駆逐艦による鼠輸送を補うため、月暗期を利用した夜間の前線輸送に従事した。例えば、本船は、1943年4月30日と5月6日にニュージョージア島バイロコ港(英語版)への食料輸送に成功、次の月暗期にも5月29日と6月5日にコロンバンガラ島方面への輸送を成功させている。駆逐艦に比べ本船のような海上トラックは搭載力が大きく、6月5日の回だけで人員約90人と物資約255トンを一挙に揚陸するなど貢献は大きかった。『戦史叢書』においても、低速かつ無防備な状態で困難な輸送任務に当たった海上トラック乗員の勇敢さは、駆逐艦の乗員に勝るとも劣らないと評されている。 本船の最期は、1943年7月2日、3日前から始まったニュージョージア島の戦いの最中、ニュージョージア島バイロコ港へ輸送任務に赴いて碇泊していたところ、アメリカ陸軍航空軍のB-25爆撃機およびアメリカ海軍のF4U戦闘機による空襲を受け、沈没した。船員1名が戦死した。本船の沈没後、日本海軍のニュージョージア島に対する海上輸送は、第1根拠地隊所属の徴用漁船による舟艇輸送が中心となった。 沈没地点は水深17mと浅く、干潮時には水面からマストが突き出た状態となる。沿岸の浅い海域に残骸が残っているため、初心者でも沈船ダイビング(en)が可能なダイビングスポットとして太平洋戦争終結後には観光資源になった。ニュージョージア島ムンダを拠点とする沈船ダイビングツアーにも組み込まれている。
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「フランコニア (客船)」の記事における「船歴」の解説
1910年7月23日にニューカッスル・アポン・タインのスワン・ハンター&ウィガム・リチャードソン社で進水、1911年1月23日に竣工。 数年間、主に大西洋で運航された後、1915年初頭にフランコニアは兵員輸送船となった。 1916年10月4日、サロニカへ向け航行中のフランコニアはマルタの東195マイルでドイツ潜水艦UB-47に雷撃され沈んだ。兵士は乗船しておらず、乗船していた乗員314名中12名が死亡した。
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1949年、ニヤサランド鉄道(後のマラウイ鉄道)がマラウイ湖で運航するために、一隻のフェリーをヤーロウ・シップビルダーズに発注した。先代は初めてマラウイ湖の交通を担ったポプラ製の船であり、それにつづく二隻目となる船はその名を引き継いで、イララ2と命名された。但し、塗装された名称はイララとなっており、2を省かれる事が多い。 建造後、最高で重さ18トンに至る780個の部品に分解されてモザンビークに送られ、鉄道でマラウイ湖畔まで輸送された後に組み立てられ、1951年6月に進水した。 就航後は、少なくとも2度座礁し、1990年代中頃に機関を交換するなど幾度も整備を受けながら運用され続けている。整備に伴う運休時には、通常南部を航行するMtendereが、代わって投入されている。 モノハル構造のため、国際海事機関が推進している客船基準に合致していないことが指摘されている。 ニヤサランドとマラウイを通じて数種の切手が発行されており、2009年には英国放送協会が60周年を記念して特集を組んでいる。
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「ニール・アームストロング (調査船)」の記事における「船歴」の解説
2016年6月に最初の国際調査の航海を行い、北大西洋のイルミンガー海に配置された海洋観測イニシアチブ(Ocean Observatories Initiative:OOI)の観測アレイを回収・配置した。
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「白沙 (特設測量艦)」の記事における「船歴」の解説
1914年(大正3年)に、イギリスのウィリアム・グレイ・アンド・カンパニー(en)造船所で建造された。その後、中華民国の税関監視船として改装されて「福星」の船名で広東省方面で密輸取り締まりに従事していた。税関監視船時代には、第2船倉と上甲板に45フィート(約13.7m)級の高速艇(後記参照)数隻を搭載しており、その揚収用として船橋前の両舷に張り出すように大型のクレーンが設置されていた。 日中戦争中に日本海軍によって鹵獲され、1938年(昭和13年)に横須賀海軍工廠で改装を受けて特設測量艦となった。日中戦争後の帰属が未定で確定的な戦利艦ではなかったため、正規艦船ではなく臨時の特設艦船の取り扱いになっている。九〇式測深儀一型1組をはじめとする測深儀5組など測量機器が装備されたほか、税関監視船時代の高速艇搭載設備を流用して、装載艇として10m測量艇8隻と艦載内火艇が搭載された。排水量約7000トンは日本海軍の測量艦船として最大で、測量設備も最も充実していた。同じく特設測量艦である「第三十六共同丸」(阿波国共同汽船:1499総トン)とともに、中国中南部沿岸の測量に大きく貢献した。 太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)5月1日付で特設工作艦になり、再び大規模な改装工事を受けた上、シンガポール(当時の日本名:昭南)に進出した。翌1945年(昭和20年)3月10日にはさらに特設運送船に転籍した。しかし1945年6月8日、インドシナ半島沖北緯08度56分 東経105度37分 / 北緯8.933度 東経105.617度 / 8.933; 105.617の地点でアメリカ海軍の潜水艦コビアの魚雷攻撃により沈没した。
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「ジョン・バーク (リバティ船)」の記事における「船歴」の解説
オレゴン州ポートランドのカイザー造船所(Kaiser Shipbuilding Company's Oregon Shipbuilding )で建造された。いわゆるカイザー船の1隻である。キールは1942年11月20日に船台に設置され、33日後の12月13日に進水した。10日間の艤装作業の後にジョン・バークは12月23日にアメリカ海軍に引き渡された。船名は、ノースダコタ州の第10代目の州知事の名前に由来する。1944年初期にはノースランド海運会社(Northland Transportation Company)を通じた契約でチャーターされていた。ジョン・バークはハワイ、オーストラリア、ガタルカナル、マナウス、ニューギニアなどに軍事物資を輸送した。
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「ノルウェージャン・スピリット」の記事における「船歴」の解説
スタークルーズの発注により、ドイツのマイヤー・ヴェルフトで建造され、スーパースター・レオとして1998年に就航した。アジア初の巨大クルーズ客船で、シンガポールを拠点に、マレーシアとタイ王国へ3日間から6日間のクルーズで運航された。 1999年9月10日、二番船として建造されたスーパースター・ヴァーゴがシンガポールに配船されたため、本船は香港に拠点を移して、中国の海南島、ベトナム沿岸の南シナ海などを目的地とした2日間から5日間のクルーズで運航された。 2003年、重症急性呼吸器症候群(SARS)の影響により一時的に拠点をオーストラリアに移して運航されたが、そして、流行の収束後は香港に戻った。 2004年、ノルウェージャン・クルーズラインは、ロイド・ヴェルフトで艤装中だったプライド・オブ・アメリカが完成直前に暴風により浸水事故を起こしたため、本船を代船として購入した。約2週間で改修工事が行われた後、ノルウェージャン・スピリットとして就航した。その後、プライド・オブ・アメリカは、約1年遅れの2005年6月に就航している。 その後、ヨーロッパを拠点に、冬と春はカナリア諸島への10日間のクルーズ、夏と秋は地中海を巡る13日間のクルーズで運航されている。
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「スーパースター・リブラ」の記事における「船歴」の解説
ノルウェージャン・クルーズラインにより、シーウォード(Seaward)として1988年より就航した。1997年にはノルウェージャン・シー(Norwegian Sea)と改名、2005年にスタークルーズに移籍するまで運航された。 スタークルーズにより、スーパースター・リブラ(SuperStar Libra)と命名された本船は、2006年夏には地中海、エーゲ海、アドリア海でクルーズを行った。9月にはムンバイへ移動し、2007年から翌年にかけては基隆を拠点とした。2007年11月から2008年3月は、香港から中国・台湾・ベトナムに向かう2泊から7泊のクルーズに用いられた。2008年11月から2009年1月まではシンガポールに移動し、その後改修作業に入った。 改修を終えた2009年5月27日には基隆から石垣島、沖縄への1泊から3泊に及ぶクルーズを開始し、これは10月まで続いた。11月にはシンガポールから、クアラルンプール、ペナン島、ランカウイ島への3泊のクルーズと、クアラルンプールとプーケット島への4泊のクルーズを12月末まで運航した。その後、クラン港で改修作業に入った。 2010年4月、ドック入りしたスーパースター・アクエリアスに代わって香港から南シナ海への1泊クルーズに用いられた。5月から10月にかけては、日本及び台湾へのクルーズを行った。11月から12月までは、シンガポールから、タイ、マレーシアへのクルーズを行った。2011年から2012年にかけては、ペナン島からの1泊から3泊のクルーズを行い、その内容はプーケットかクラビを目的地とするものと、洋上の周遊クルーズであった。 2013年には改修が行われる見込みである。
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「てしお (巡視船・3代)」の記事における「船歴」の解説
「てしお」は、日本鋼管鶴見製作所で建造された。設計にあたっては、日本海事協会の耐氷構造規則やカナダの規則を参考にした上で、オホーツク海の流氷の特性が加味されている。進水式には、造船所を見学中の小学生も臨席した。1995年10月19日に就役し、羅臼海上保安署に配属された。初の救助出動は、1996年3月8日にロシアからの要請で行われたもので、根室海峡のロシアの主張する領海内で流氷に閉じ込められたロシア漁船「シュムシュ107」を曳航し、流氷を砕氷しながら氷海外へ誘導した。 てしおは現在[いつ?]羅臼海上保安署に所属する唯一の巡視船である。
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「ジェームズ・クック (海洋調査船)」の記事における「船歴」の解説
2010年1月、南極海の東スコシア海嶺において、深海の熱水噴出孔に密集する新種の蟹を発見し「ホッフ・クラブ(Hoff Crab)」と仮に命名した。 2010年4月にはケイマン海溝の深度5000mの海底で、従来観測されたうちで最も深い位置にある熱水噴出孔(ブラックスモーカー)を発見し調査を行っている。 2011年1月19日、南極海のブランスフィールド海峡で、熱水噴出孔を調査するため着水させたIsisが本船の左舷スクリューと接触し大破する事故が起きた。同年6月に無人潜水機の復旧予算が承認されたため国立海洋学センターにて再建が行われ、翌2012年8月には修復のなったIsisのテスト潜航が行われた。 2015年10月から11月にかけて、統合国際深海掘削計画(IODP)の科学調査にイギリスの調査船として初めて参加。大西洋中央海嶺アトランティス山塊「ロストシティー」周辺にリモート操作の海底設置型ドリル2基(イギリス地質調査所のRD2、ブレーメン大学海洋環境科学センターのMeBo)を着底させ、深海の蛇紋岩化作用と強アルカリ環境下の微生物を研究する最長80mのコアサンプルを採取した。
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「ガルフ・ライブストック1」の記事における「船歴」の解説
この船はベルリンのHegemann Roland造船所でコンテナ船「Maersk Waterford」として建造された。2002年4月4日起工、9月20日進水で、12月9日に船主に引き渡された。2006年に「Dana Hollandia」、2012年に「Cetus J」と改名され、2015年に家畜運搬船へと改装されて「Rahmeh」と改名。2019年に「ガルフ・ライブストック1」となった。 6370総トン、8372載貨重量トン数で、長さ133.6メートル (438 ft)、幅19.4メートル (64 ft)、機関はディーゼル機関1基で速力は18ノット (33 km/h)であった
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「白山丸 (1940年)」の記事における「船歴」の解説
本船は、北日本汽船の発注により「月山丸」型貨客船の3番船として1939年(昭和14年)に浦賀船渠で起工された。建造中に国策会社として設立された日本海汽船へ姉妹船とともに現物出資され、1940年(昭和15年)8月に進水・命名、1941年(昭和16年)8月に竣工した。船名は白山比咩神社に由来する。「月山丸」と船体は同寸であるが、上部構造物の流線形化や客室設備の改良など各種の設計変更がされており、バラスト500トンの搭載が不要、速力0.3ノット向上、旅客定員が49人も増加など一段と洗練された。搭載機関は浦賀船渠が開発した低圧タービン付き複二連成レシプロエンジンと称する形式で、当時の商船に標準的だった三連成レシプロエンジンの低圧ピストンをタービンへ変更することにより燃費の改善が図られていた。 竣工した「白山丸」は、「満州国」の建国で重要性が高まっていた日本海横断航路のうち新潟港・清津・羅津間の定期航路へ就航した。1941年(昭和16年)11月5日に同型2番船の「気比丸」(日本海汽船:4552総トン)がソ連海軍のものと思われる浮遊機雷に接触する事故で沈没すると、同船の後を埋めて敦賀港発の路線へ移動した。 1941年12月の太平洋戦争勃発後も軍による徴用を受けることはなく、船舶運営会管理下の民間商船として新潟発の日本海横断航路での営業を続けた。1943年(昭和18年)4月26日には徴用しないまま船員を軍属待遇として保障する海軍指定船へ指定された。大戦後半は日本本土への大豆の輸送が重要任務であった。また、特殊な任務として1944年(昭和19年)10月から11月に日米間の協定に基づいて捕虜・強制収容中の日系人向け人道物資交換に使用された。10月28日に書籍や郵便物などの日本側物資を搭載して出港した「白山丸」は、日本との関係では中立だったソ連領ナホトカへ赴き、ソ連船「タシュケント」などにより事前集積されていたアメリカ側物資2025トンと積荷を交換した。帰途に就いた「白山丸」は、羅津に立ち寄って満州所在の捕虜収容所向け物資150トンを降ろし、11月11日に神戸港へ無事に到着した。なお、「白山丸」が持ち帰った物資のうち800トンはマレー半島・ジャワ島方面へ貨客船「阿波丸」(日本郵船:11249総トン)により運ばれたが、同船は帰路に撃沈されてしまった(阿波丸事件)。 海上自衛隊のまとめた『航路啓開史』によれば、「白山丸」は終戦の日直後の1945年(昭和20年)8月18日に、山口県萩市北東8海里(約15km)でアメリカ軍の飢餓作戦で敷設された機雷に接触して擱座した。一方、松井邦夫によれば同年7月に萩沖でアメリカ海軍機動部隊機の空襲により撃沈され、戦後に復旧された。アメリカ海軍の公式記録であるThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War II には本船の撃沈が言及されておらず、船舶運営会がまとめた『喪失船舶一覧表』にも本船の記録がない。 終戦後は中国大陸方面からの引揚輸送に大きく貢献した。1947年(昭和22年)10月に新潟・小樽港間の定期航路が開設されると第一便として就航した。1953年(昭和28年)に満州在留日本人の引揚が中華人民共和国の許可で始まると、その最初の引揚船として輸送に参加した。この間の1958年(昭和33年)7月の舞鶴港への引揚航海では日本と中国大陸を無許可で往来していた日本人の密航が発見され、出入国管理令違反で起訴された裁判で訴因の特定および国外滞在中の公訴時効停止に関する刑事訴訟法上の重要判決が相次いだ(白山丸事件)。シベリア抑留者の帰国輸送にも従事し、1958年9月7日に樺太真岡町(ソ連名:ホルムスク)から舞鶴へ最後の引揚船として到着した。1956年(昭和31年)からはアメリカ軍占領下の沖縄県と日本本土を結ぶ航路の主力船としても5年間活動している。その後、1961年(昭和36年)に横井英樹の東洋郵船に売却されてインドネシア方面へ就航したが、1965年(昭和40年)に広島県松永湾で解体された。
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「バンドゥルマ (貨客船)」の記事における「船歴」の解説
バンドゥルマは1878年にスコットランドのグラスゴー市にある、マックインタイルペイズリー・ヒューストン&カルデット(Mac. Intyre Paisley - Huston and Cardett) 造船所で21番目に279英トンの貨客船として建造された。この船舶の最初の所有者であるデュセイ&ロビンソン社(Dussey and Robinson) によって、トロカデルト(Torocaderto)という名で5年間運用され、その後1883年にギリシャのH・プシチャ・プレウス (H. Psicha Preus) 社に売却された。キュミ(Kymi)という名でロンドンにあるピール港に登録された。1890年に、H・プシチャ・プレウス社からギリシャの船長アンデリィーディス(Andereadis) に売却した。1891年12月12日の事故の結果、沈没したが同年内に引き上げられた後、イスタンブール・ラマ・デラシモ( İstanbul Rama Derasimo )社に売却されクイムという名でイスタンブール港に登録された。1894年、当時の海洋管理局に相当する王室管理部(İdare-i Mahsusa)に回航されトルコ国旗がつけられ、パンデルマと改称された。マルマラ海沿岸において、テキルダー (Tekirdağ)、ミュレフテ(Mürefte)、シャルキョイ(Şarköy)、カラビガ(Karabiga)、エルデッキ(Erdek)間で旅客および貨物航路に運用された。1910年10月28日、王室管理部(İdare-i Mahsusa)は法令を変更してオスマン帝国交通局(オスマン帝国海洋管理局)が創設されると船舶はバンドゥルマと改称され定期便として運用されるようになった。1919年5月19日、ムスタファ・ケマルと兵士たちをサムスンまで運んだ後、再び定期船として継続されたが1924年にトルコ海洋局(Türkiye Seyrüsefain İdaresi)によって運用停止にされた。1925年にはボズマジュ・イルハミ(Bozmacı İlhami)という名のトルコ人実業家に売却され、4ヶ月のうちに廃船として解体された。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 09:02 UTC 版)
本船は、2015年12月に退役した「なつしま」「かいよう」の代船として建造された。建造は三菱重工業下関造船所で行われ、2015年6月7日に行われた進水式には佳子内親王が初の単独地方公務として出席し、支綱切断を行った。船名はインターネット上で公募され、2015年4月11日から5月31日まで受付が行われた。JAMSTEC役職員で構成される名称選考会により、「JAMSTECの海洋調査船にふさわしい名称」「日本の海洋研究開発の新しい時代を切り拓いて行くイメージを想像させる名称」を基準として「かいめい」と命名された。命名者を代表して京都市の小学3年生が進水式に招待された。 艤装、試験航海などを経て、2016年3月30日にJAMSTECに引き渡された。 2021年5月18日にかいこうが深海試掘の記録を43年ぶりに塗り替える8023Mの試掘に日本海溝で成功したと発表された。
※この「船歴」の解説は、「かいめい」の解説の一部です。
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船歴
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本船の竣工した1889年当時、招商局は商船27隻(合計34,091総トン)を保有していた。 竣工から5年後の1894年7月に日清戦争が起きると、「新裕」は北洋艦隊の指揮下で軍隊輸送船として活動し、黄海海戦のきっかけとなる輸送作戦にも「図南」「鎮東」「利遠」「海定」とともに参加した。また、招商局は戦難を避けるため、保有商船の一部を外国船籍へ一時的に移して運航することにした。同年11月2日、「新裕」は、「豊順」「海定」「美富」とともにドイツの礼和洋行(中国語版)(カルロヴィッツ商会)へ終戦までの期間限定で移籍し、日本軍の収集した情報によれば船名も「礼裕」と改称した。 日清戦争後に「新裕」は招商局の民間航路へ戻り、芝罘(煙台)・天津・上海港を結ぶ定期航路で用いられた。しかし、北京政府(北洋政府)と地方政権の間で護国戦争が発生すると、1916年4月初旬に北京政府海軍は、招商局の商船「新裕」「新銘」「新康」「愛仁」の4隻を徴用し、天津から福建省への軍隊輸送に投入した。同年4月23日に「新裕」は、浙江省漁山列島の南魚山付近を航行中、護衛の海容級防護巡洋艦「海容(中国語版)」に誤って激しく衝突され、搭載弾薬が爆発して瞬時に沈没した。乗員と輸送中の将兵合計1000人以上の乗船者のうち生存者はわずか10人余だった。なお、招商局は「新裕」を皮切りに1916年から1918年にかけて、事故などで5隻の商船を失う大きな打撃を受けた。
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1908年11月5日、ワラタは、イングランド・ロンドンから、3等船客689名と1等船客67名を乗せて処女航海を始めた。船長は、30年間の航海経験がある、ジョシュア・E・イルベリー(Joshua E. Ilbery)であった。沈没に関するその後の調査は、この船旅における不安定性のいくつかの論議中の報告を提出した。船がイングランドに帰った時に、オーナーと建造者との間で荷積料に関して討論があった。 1909年4月27日、ワラタはオーストラリアへの2回目の航海に出発し、平穏無事な航海を終える。そして1909年7月1日にメルボルンから帰航についた。予定ではダーバンとケープタウンという南アフリカの港を経由し、それからロンドンに戻るはずであった。ワラタはダーバンに着いたが、そこではある乗客、海旅経験の豊かな技師クロード・ソーヤー(Claude Sawyer)が船を下り、次のような電報をロンドンの妻に送った。「ワラタは頭でっかちで不安定だと思った。ダーバン上陸」("Thought Waratah top-heavy, landed Durban")。 ワラタは、7月26日に、211名の乗組員乗客をのせてダーバンを発った。7月27日には、汽船クラン・マッキンタイア(Clan McIntyre)とすれちがった。その船の船員の話によれば、すべてが順調に思われ、そして、ワラタは、強まる海と風を容易に進み、そしてすばやく自船の前に出て引き離し、南西の方へ水平線を越えて姿を消したという。その日遅く、天気は急に悪くなり(これはその海域では普通のことである)、50ノット(時速90キロメートル)の強風は、潮と海洋のうねりと結び合って30フィート(9メートル)の波になった。その晩、喜望峰からダーバンに北進している、ユニオン=キャッスル・ライン(Union-Castle Line)の船ゲルフ(Guelph)は、或る船とすれちがい、信号灯によって国際船舶信号をかわしたが、しかし悪天候と悪い視程のためにこの船の名前の最後の3字「T=A=H」しか見分けることはできなかった。 その晩、ハーロー(Harlow)という船には、ある大型汽船が自船の後ろに来るのが見えたが、荒海を懸命に進み、船長が汽船が火災を起こしているのではないかと怪しむくらい大量の煙を出していた。闇がおりたとき、ハーローの乗組員には、その汽船の複数の航海灯が接近してくるのが見えたが、しかしそれでもやはり10-12マイル(16-19.3キロメートル)後ろにいた。その時、突然汽船の近くから明るい閃光が2つあり、そしてそれらの光が消えた。ハーローの航海士は、それらの閃光は海岸の低木林の火災であると考えた(その季節、その海域には普通の現象であった)。船長は同意し、そして航海日誌にそれらの出来事を記入することさえしなかった。ただ彼はワラタの失踪について聞知した時、これらの出来事が重要であると考えた。 伝えられるところによれば、ハーローはダーバンから180マイル(約289.6キロメートル)離れていた。 ワラタは1909年7月29日にケープタウンに着くことになっていたが、ついに目的地にたどり着くことはなかった。船の痕跡は何も見つかっていない。
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「乾進丸 (1948年)」の記事における「船歴」の解説
太平洋戦争中、第二次戦時標準船の2DT型8番船として計画。1945年、通称マル戦計画中の昭和二十年度計画で起工前に海軍が買収のうえ敷設艦に設計変更され、第1821号艦型の2番艦、仮称艦名第1822号艦として計画変更となる。 1945年2月1日、浪速船渠で起工したが、鋼材の調達に見通しが立たなくなったため同年4月に工事取りやめとなった。 太平洋戦争後、戦後続行船として乾汽船に割り当てられ建造を再開。1948年6月7日進水。同年6月竣工。竣工後の処女航海で樺太へ向かったが、悪天候に遭遇し同年10月4日に沈没した。本船沈没後、小樽で慰霊祭が挙行された。 2015年末現在、本船は乾汽船が太平洋戦争後の海難で喪失した唯一の船である。なお、乾汽船が運航した乾進丸は初代、2代目ともに沈没し、2代目の本船が沈没した後は乾汽船では、乾進丸の船名を持つ船舶を取得していない。
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「ブリティッシュ・ロイヤルティ」の記事における「船歴」の解説
「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、イギリスのニューカッスル・アポン・タインにあるパルマー・シップビルディング・アンド・アイロン・カンパニー(英語版)の造船所で建造され、1928年1月に進水した。船型は当時の大型タンカーに一般的な、船尾に機関室、船体中央に船橋を有する型式で、主機関はズルツァー社製のディーゼルエンジンを搭載した。船主はブリティッシュ・タンカー・カンパニー(英語版)である。 第二次世界大戦開始後の1942年(昭和17年)5月、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、ヴィシー・フランス統治下のマダガスカル島ディエゴ・スアレス(現アンツィラナナ)を攻略するアイアンクラッド作戦に、イギリス海軍の補給船として参加した。同年5月中旬までに攻略作戦は成功してイギリス艦隊の主力は撤収したが、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、戦艦「ラミリーズ」及び駆逐艦3隻・コルベット2隻などとともにディエゴ・スアレスに残った。これに対して日本海軍は、ディエゴ・スアレスを特殊潜航艇である甲標的で奇襲する作戦を計画した(マダガスカルの戦い#日本海軍による攻撃)。同年5月29日に日本潜水艦「伊10」の偵察機がディエゴ・スアレスに飛来し、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」の乗員はそれを発見したが、味方の巡洋艦「フロビッシャー」の搭載機と誤解した。同年5月30日夜、日本潜水艦「伊16」「伊20」から発進した甲標的2隻が、ディエゴ・スアレス港内に侵入してイギリス艦船を攻撃した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は重油やアルコールを搭載した状態で港口に近いアンツィレーン灯台付近に停泊していたが、「ラミリーズ」に魚雷が命中して爆発後、特殊潜航艇の司令塔や潜望鏡らしいものを2体発見し、4インチ砲とルイス軽機関銃で攻撃した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は錨鎖を断ち切って緊急始動したが、後進したところ、「ラミリーズ」を狙ったと思われる魚雷の進路に入り込んでしまった。魚雷1発が「ブリティッシュ・ロイヤルティ」の機関室を直撃し、同船は急速に浸水して船尾から水深20mの海底に沈没、乗員6人が行方不明となって死亡と推定された。生存者は軍隊輸送船「カランジャ」に収容された。 1942年6月中に、イギリス海軍は潜水夫を使って、沈んだ「ブリティッシュ・ロイヤルティ」から重油1800トンとその他貨物2000トンを回収した。同年12月には船体のサルベージが行われ、浮揚した「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は1943年(昭和18年)10月7日にイギリス海軍の泊地であるモルディブのアッドゥ環礁へ出航した。アッドゥ環礁では物資貯蔵船として利用された。なお、遅くとも1945年には戦時運輸省の所属となっている。 1944年(昭和19年)3月9日、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、アッドゥ環礁に侵入したドイツ海軍モンスーン戦隊のIXC/40型潜水艦「U-183」による雷撃を受けて再び着底した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は応急修理が施され、泊地に浮かぶ物資貯蔵船として再利用された。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は商船として復旧されることなく、終戦後の1946年(昭和21年)1月16日に自沈処分となった。
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船歴
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1916年9月 進水。 1917年1月 竣工。 1917年 - 1918年 練習航海(大6N)実施 (横浜 - マーシャル群島間)。 1918年 - 1919年 練習航海(大7N)実施。 1919年 練習航海(大8N)実施。 1920年 - 1922年 委託海運業者(南洋興業株式会社)の営業不振により練習航海中止。 1922年 富山県高岡市の萩布宗四朗と契約、運航再開。 1922年 - 1923年 練習航海(大11N)実施。 1923年 - 1924年 練習航海(大12N)実施。 1924年 - 1925年 練習航海(大13N)実施。 1925年3月12日 静岡県相良町沖にて座礁、浸水。 1925年3月30日 引き揚げ作業中、強風により大破、船体放棄。
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「プリンツ・アイテル・フリードリヒ (客船)」の記事における「船歴」の解説
プリンツ・アイテル・フリードリヒはシュテッティンのAGフルカン社で建造された。1904年6月8日進水。第一次世界大戦が始まる前の10年間、極東の北ドイツロイドの航路に就航していた。1914年8月、上海にいたプリンツ・アイテル・フリードリヒは旧式砲艦ルクスおよびティーガーの砲を搭載して仮装巡洋艦への改装を行うため青島へ向かうよう命じられた。プリンツ・アイテル・フリードリヒには船の前部と後部に10.5cm砲が2門ずつ搭載されたほか、8.8cm砲が6門設置された。乗員はルクス、ティーガーおよび河用砲艦ファーターラント、オッターから集められた。 8月6日、プリンツ・アイテル・フリードリヒは巡洋艦エムデンおよびハンブルクアメリカラインの貨物船マルコマニアとともに青島を出港。8月12日にパガン島でシュペー艦隊(装甲巡洋艦シャルンホルスト、グナイゼナウなど)と合流した。それらとマーシャル諸島まで同行した後プリンツ・アイテル・フリードリヒはオーストラリア、ニュージーランド沖で通商破壊戦を試みたが成果はなく、10月27日にファン・フェルナンデス諸島で再びシュペー艦隊と合流した。シュペーは情報収集などを目的にプリンツ・アイテル・フリードリヒをバルパライソへ派遣。10月31日、汽船Colisa(5732トン)を追跡するが、チリ領海内へ逃げ込まれてしまった。バルパライソには11月1日に到着したがイギリス軍艦が存在したためすぐに出港。コロネル沖海戦後にバルパライソに戻り、それから11月8日にファン・フェルナンデス諸島でシュペー艦隊と合流した。プリンツ・アイテル・フリードリヒはホーン岬を回って大西洋へ向かうシュペー艦隊とは別れ、偽の通信を発してシュペー艦隊がまだチリ沖にいるように装った。 その後、プリンツ・アイテル・フリードリヒは通商破壊戦を再開した。12月5日に汽船Charcas(5067トン)を、12月12日に帆船Kildalton(1784トン)を沈め、12月11日に石炭を積んだ帆船Jean(2207トン)を拿捕。12月23日、イースター島に到着。Jeanから石炭を移載した後Jeanを沈めた。イースター島を離れると艦長Thierichensはホーン岬を回って本国に戻ることを決めた。 大西洋に入ってからは1915年1月26日に帆船Isabel Browne、1月27日に帆船Pierre Loti(2196トン)とWilliam P. Frye(3375トン)、1月29日に帆船Jacobsen(2195トン)、2月12日に帆船Invercoe(1421トン)、2月18日に汽船Mary Ada Short(3605トン)、2月19日に汽船Floride(6629トン)、2月20日に汽船Willerby(3630トン)を沈めた。それらのうち、William P. Fryeはアメリカ船籍であった。小麦を積んでアイルランドのクイーンズタウンへ向かっており、積荷はイギリスの戦争行為を助けるものとして破棄可能とされたが、船外への投棄作業に手間取り、最終的にプリンツ・アイテル・フリードリヒはWilliam P. Fryeを砲撃で沈めた。この件でドイツは賠償金を支払った。 物資が欠乏してきたプリンツ・アイテル・フリードリヒは1915年3月11日にニューポートニューズに入港し、同地で抑留された。 1917年4月にアメリカが参戦するとプリンツ・アイテル・フリードリヒはアメリカ海軍により接収され、兵員輸送船とされて1917年4月7日にデカルブとして就役した。 1918年に第一次世界大戦が終結すると退役して「マウント・クレイ」(SS Mount Clay)と改称し、再び客船としてユナイテッド・アメリカ・ラインズ(英語版)の所属となり大西洋横断航路で運用された。そして1925年に引退、1934年に解体された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 00:29 UTC 版)
本船は、1878年(明治11年)5月にイギリスで進水した。船体は鉄製で、トン数は1924年(大正13年)末時点で1540総トンとなっている。1911年(明治44年)に、原船名「バイカラ」だった本船は、日本船籍に移って「秩父丸」と改名した。1911年末時点の船主は榎本謙七郎、船籍地は神戸港となっている。その後、船主を転々とし、1923年(大正12年)には笹川喜三郎から今井六郎へ譲渡され、船籍地も京都府与謝郡宮津港から和歌山県西牟婁郡西富田港に移された。 本船が遭難した1926年時点では、北東貿易会社に傭船され、蟹工船として使用されていた。同種の蟹工船は1920年(大正9年)頃から北洋漁業での底刺し網漁に投入され始め、1926年には12隻が操業していた。
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船歴
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「キャンベラ (客船)」の記事における「船歴」の解説
北アイルランドベルファストのハーランド・アンド・ウルフ造船所で1,700万ポンドかけて建造され1960年3月16日にパティ・メンジスによって進水した。1958年3月17日、オーストラリアの首都キャンベラに因んで命名され、1961年4月28日に就航、ベルファストからサウサンプトンに向かった。 P&Oは、キャンベラをイギリス~オーストラリア間の定期航路 (P&Oオリエント航路) で運用するために建造した。しかし、ジェット旅客機の登場を待つまでもなく、この航路の需要は減少していた。それは、オーストラリアへの移民の減少と、第二次中東戦争によるスエズ運河の封鎖のために、採算が低下したためである。しかしながら、キャンベラは1974年にはクルーズに適応するよう改装された。定期航路用に建造されたものの、その後大きな改装を受けることもなくクルーズ客船として長く就航することになる。 キャンベラの特筆すべき項目はターボ・エレクトリック推進を搭載していた事である。推進軸と機械的に結合された大型のモーターによって推進した。それまで客船向けに製造された蒸気タービンの中で最強の出力を出すものだった。42,500馬力を発揮した。電気推進を採用した事は経済的に優位に立つ事が出来た。やがて、運航開始から30年以上経ち、1990年代にはディーゼルとガスタービンにより発電する電気推進船が就航した。 1982年、フォークランド紛争勃発に伴いイギリス国防省に徴用され輸送船として用いられた。その時のニックネームは大きな白い鯨 (Great White Whale) であった。 戦後キャンベラはアルゼンチン軍の兵士を国に送還し、その後サウサンプトンに帰還した。長い修理の後、キャンベラは観光船として民間サービスに復帰した。フォークランド紛争における功績によりキャンベラはイギリス国民によって非常に人気のある船となった。キャンベラのチケットの売り上げは大きく増加した。 しかしながら、最新の船に比べて燃費が悪く、運用コストがかかることと船齢の増加により、1997年に引退することとなった。最後の航海は10月10日から31日にかけて行われた。引退後はスクラップとして売却され、翌月パキスタンのガダニ海岸に牽引された。
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船歴
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「アラオン」は、船体が韓進重工業影島造船所で建造され、2009年11月6日に仁川広域市にて海洋研究院極地研究所に引渡され、命名式が挙行された。 2009年12月18日に試験運用として初の南極航海を行い、砕氷能力試験と第2基地候補地の調査を行って2010年3月15日に仁川に帰港した。翌2010年よりアラオンは実運用に入り、同年7月には初の北極海への調査航海を実施する。2011年12月、南極のロス海で氷山に衝突して浸水し救難信号を発したロシア漁船スパルタ(乗組員32名)の救助に当たった。 南北の両極で調査航海を行い、さらに韓国第2の基地である張保皐基地への輸送任務が加わったアラオンは、活動日数が年々増加して2013年には年間311日に達する過重な運用となったため、韓国の海洋水産部と極地研究所は新たに1万2000トン級の新型砕氷船の導入して、北極海の航路および資源探査に投入することを検討している。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/19 04:08 UTC 版)
船齢のため2015年12月17日に運用停止となった。 その後、ニッスイマリン工業株式会社が購入し、「CONCEPT」と改名のうえで、戸畑港を母港として2016年4月6日より再就航した。同船は、同社として初の自社所有船舶であり、運航には、引き続き日本海洋事業も協働するとされている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 05:36 UTC 版)
「オーロラ・オーストラリス」の記事における「船歴」の解説
1998年にスクリュー故障のため海氷に閉じ込められた時、日本の南極観測船「しらせ」による砕氷と曳航により救出されたことがある。 「しらせ」が2008年4月の第49次南極観測隊の帰国後に退役となるものの、「しらせ」後継船が予算不承認で就役が2009年度と予定より遅れたことから、2008年秋出発の第50次隊の輸送については、日本政府がこの「オーロラ・オーストラリス」をチャーターして代役とした。 2013年12月24日、ロシアの耐氷貨物船「アカデミック・ショカリスキー」が南極海で流氷に閉じ込められた際に、「オーロラ・オーストラリス」は救助に向かった。中国の砕氷船「雪竜」が搭載ヘリコプターで救出した事故船の乗船者52名を収容して、母港ホバートに帰還した。 2016年2月24日にモーソン基地沖で座礁した。沈没は免れたものの、船体への負荷を減らすため、オーストラリア観測隊の隊員や物資の救出には日米中各国が協力した。うち日本の「しらせ」は隊員66人とヘリコプター3機をケーシー基地に送り届けた。 船齢が25年に達するため、代船として砕氷・輸送能力をより強化した次世代砕氷船(2019年就役予定)の建造計画が進められている。
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「アクロン (飛行船)」の記事における「船歴」の解説
1931年10月27日 就役 1932年2月22日 レイクハースト飛行場の格納庫で風に煽られて地面に激突し、尾翼を破損。修理に2カ月を要した。 5月11日 飛行準備中に機体が急激に上昇。3人の兵士がケーブルにつかまったまま宙釣りとなり、うち2人が墜落死した。 8月22日 レイクハースト飛行場の格納庫に係留中、再び尾翼を破損。修理に1カ月を要した。 1933年3月 同型船のメイコン(ZRS-5)が就航 4月4日 12時30分頃、ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落。
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本船は三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工業長崎造船所)で建造され、1898年6月20日に起工された。1899年7月27日に進水し、同年11月14日に竣工した。本船の建造は常陸丸の建造経緯と関係している。同じ三菱造船所が建造した常陸丸がリベット検査の問題で竣工が長引き、第2船として建造が予定されていた信濃丸はイギリスのD・W・ヘンダーソン社(常陸丸の設計会社)に建造を変更した。その予備船として本船が発注された。 当初は日本とイギリスを結ぶ航路に就航した。1914年までに横浜港とシアトルを結ぶ定期便での運航が定着した。1930年に退役した。 1906年12月27日に、イギリス・レッドカー(英語版)沖のウエストスカー岩礁で座礁した。レッドカーの救命ボート隊員と地元の漁師の活動により、死亡者はなく、18日後に無事に再浮上した。 1914年12月14日に12種類・3020本のサクラの苗木を積んで横浜を出港した航海は、阿波丸の船歴においておそらく最も重要なものだった。傷つきやすい苗木は、シアトルから保温貨車によって北米大陸を横断した。ワシントンD.C.に到着した苗木は、全米桜祭りの起源の一つとなった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 22:56 UTC 版)
「山汐丸」は、山下汽船の発注により、1944年(昭和19年)9月11日に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された。日本陸軍により特2TL型としての設計変更が指示されたため、同型姉妹船(千種丸)よりも優先的に工事が進められた。同年11月14日進水、1945年(昭和20年)1月25日に海上公試、1月27日に竣工した。 船型は全通飛行甲板を張って、船橋構造物を飛行甲板下に収めた平甲板型(フラッシュデッキ型)の航空母艦である。搭載機数は6機で、同時期に日本陸軍が整備した空母型の陸軍特殊船である「あきつ丸」「熊野丸」よりも2機少ない。陸軍機の中でSTOL性能に優れた三式指揮連絡機を対潜哨戒機として運用する予定であり、海上公試に続いて発着試験が実施されている。航空機用のガソリンとして、ドラム缶40本を搭載予定であった。武装も対潜水艦戦闘を重視したもので、九三式水中聴音機、逆探、音響測深儀などを備えている。対潜迫撃砲として二式十二糎迫撃砲を船首に2門搭載するためか、海軍の特TL船「しまね丸」よりも飛行甲板が短い事が外見上の特徴である。 陸軍指揮下で船団護衛艦兼用のタンカーとして運用予定であったが、形式上は民間船で船主は山下汽船のままであった。竣工したものの、戦況の悪化からすでに南方航路は著しく危険で本来のタンカーとしては使用の見込みが無いため、就役しないまま石炭焚きの貨物船への改造が決まった。 改造のため三菱重工横浜船渠において係留待機中、1945年(昭和20年)2月16日、ジャンボリー作戦で来攻した第58任務部隊の艦上機による空襲で至近弾を受けて損傷する。翌17日も続いた空襲で、250kg爆弾1発とロケット弾多数を受けて飛行甲板が大破、浸水もあって着底した。直撃弾で艦尾が破壊され、飛行甲板は上方にめくれあがっている。 終戦後の1946年(昭和21年)3月6日には、建造途上で工事が中止されたまま放置され、港内を漂流していた標的艦「大指」が、着底状態の「山汐丸」と衝突する事故を起こしている。「大指」はこの衝突により浸水着底した。 7月から解体が進められたが、解体中に船首が折れて沈没。費用的に引揚げは困難であったため、残骸を岸壁の一部として再利用することになった。上部構造物を取り除かれた船体は、横浜船渠の北部にある第7岸壁脇に配置され、土砂を詰めて擱座状態で固定された。通称「山汐岸壁」と呼ばれ、1956年(昭和31年)に建造船大型化に対応した造船所拡張に伴い撤去されるまで、艤装作業用に使われた。なお、2008年に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、本船の錨が発見され、同ビルの脇の広場に展示されている。
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船歴
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「春島丸 (特設電線敷設船)」の記事における「船歴」の解説
本船は、アメリカ陸軍のスピードウェル級機雷敷設船の1隻としてウィスコンシン州ミルウォーキーのファブリケーティッド造船社で1920年に進水、同年5月4日にパナマ沿岸砲兵管区に就役した。機雷敷設船(英語版)とは、沿岸防衛用機雷の敷設のためにアメリカ陸軍が整備していた機雷敷設艦の一種である。 就役後はパナマとフィリピンでの沿岸防衛用機雷の整備に従事した。太平洋戦争勃発後のフィリピンの戦いにおいて、本船はコレヒドール島付近で日本海軍に捕獲された。 捕獲後の本船は特設電線敷設船春島丸として1943年7月15日に佐世保鎮守府所管となり、1943年8月15日に連合艦隊南東方面艦隊付属となった後で日本本土へ回航された。所属は同年12月25日に第四艦隊、さらに1944年2月15日に横須賀鎮守府に変更されている。 本土到着後の春島丸は一貫して本土近海での海底電線敷設と対潜哨戒に従事していた。1945年4月15日、城ヶ島灯台南西7海里付近を航行中、アメリカ陸軍航空隊のP-51戦闘機の空襲を受けて損傷した。 横須賀海軍工廠の岸壁に停泊して修理中だった1945年7月18日、横須賀空襲に遭遇した春島丸の船体中央部に爆弾1発が命中。船体が二つに折れてその場で擱座、全損となった。終戦後の1945年9月15日除籍。なお春島丸は沈没後に引上げ復旧、返還されたとする文献もある。
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船歴
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エクソン傘下のエッソ・タンカーズ社によって発注され、日立造船有明工場にてエッソ・ジャパン (Esso Japan)の船名で1976年5月に竣工。竣工時のサイズは全長362.0m、型幅70.0mで、総トン数は192,679トン、載貨重量トン数は406,640トンであり、動力源は蒸気タービンで速力は15.5ノットであり、およそ300万バレルの石油を積載可能とされていた。 1986年にイエメンの国営石油企業に売却。売却直後は引き続きタンカーとして使用されていたが、翌1987年には現在の船名に改名されるとともに自力航行不能な貯蔵船へと改造され、1988年には現在のイエメン西部の都市フダイダ沖およそ4マイルの北緯15度7分9.1秒 東経42度35分40.2秒 / 北緯15.119194度 東経42.594500度 / 15.119194; 42.594500の地点に係留された。貯蔵設備となった本船の船体はパイプラインにておよそ400km先の内陸の都市マアリブの油田と接続され、内陸部で産出した原油を貯蔵しこれを輸送するタンカーへと積み出すFSOとして機能していた。FSOになって以降の本船を含む設備は、地元企業のSafer Exploration and Production Co. 社によって管理されていた。
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船歴
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「凌風丸 (気象観測船・初代)」の記事における「船歴」の解説
竣工した「凌風丸」は、離島への観測拠点設営や補給物資運搬、洋上観測などに予定通り使用された。1941年までに40回の航海を実施した。 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、本船は同年12月24日に日本海軍に借用されて横須賀鎮守府所管の海軍一般徴用船(測量船兼観測船)となり、横須賀鎮守府水路部に配属。以降海軍管理下で気象観測や輸送任務に従事した。自衛のための武装も施され、最終段階では短8cm砲1門を船尾に、船橋上に13mm機銃と92式7.7mm機銃を装備した状態だった。輸送船の大半が沈んだマタ30船団に参加するなど危険な航海も経験したが、無事に終戦の日を迎えた。 1945年(昭和20年)8月に海軍から中央気象台に返還された「凌風丸」は、再び各種の気象観測や観測支援に活躍した。運航に際し、GHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-R009の管理番号を与えられた。1946年(昭和21年)には、鳥島に設営班を輸送して観測所の再建を行っている。中央気象台が気象庁に改組した後も運用を続けられたが、老朽化により1965年(昭和40年)に代船として2代目の「凌風丸」建造が決まり、2代目が竣工すると交代して1966年(昭和41年)6月21日に退役し、同年12月24日に香川県内海町にて解体された。なお、「凌風丸」の名は、1995年(平成7年)就役の3代目にも受け継がれている。
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船歴
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「神戸丸 (東亜海運)」の記事における「船歴」の解説
1939年(昭和14年)11月9日:三菱重工業長崎造船所にて第796番船として起工 1940年(昭和15年)6月7日:進水 1940年(昭和15年)9月初旬:長崎港外三重沖の標柱間にて試運転を実施し、最高速力21.572ノット、最高出力15,256馬力を記録した。この際、浅い喫水の本船で、最大出力で推進器を高回転させたにもかかわらず、船体は特に振動を起こさなかったという。 1940年(昭和15年)10月19日:竣工 1940年(昭和15年)10月31日:就航。午前11時に 長崎港を出港し、上海へ向かう。 ※以降、長崎丸、上海丸と共に、 長崎‐上海間を結ぶ定期航路上海航路に就航した。 1942年(昭和17年)5月:船舶運営会の設立とともに、同会の使用船となる。 1942年(昭和17年)11月10日 午前11時(推定):定刻通りであれば、上海に向け長崎港を出港。この航海での、乗客は571名(客として、海軍士官、長崎税関職員、大東亜省職員も乗船)、乗組員は船長以下175名。合計746名。 1942年(昭和17年)11月11日午前5時25分:上海から鉄鉱石を積み横浜へ向かっていた日本郵船所属の貨物船「天山丸」が、長崎から上海へ向け航行中の神戸丸の右舷に衝突し、火災発生。 1942年(昭和17年)11月11日午前6時00分:神戸丸沈没(北緯31度23分0秒 東経124度10分0秒 / 北緯31.38333度 東経124.16667度 / 31.38333; 124.16667、水深75m) 1942年(昭和17年)11月11日午前8時35分:天山丸沈没(同上)。同船乗員49名は全員救助される。 付近を航行中の「龍田丸」、「雲仙丸」、「日喜丸」が溺者救助を行い、東亜海運株式会社所属の「鳴戸丸」、駆逐艦「栗」、その他漁船等と航空機(九七式大艇等)により不明者の捜索活動が行われた。 13日付で大東亜省が集計した結果、生存者641名(うち船員156名)。死者56名(うち船員11名)。行方不明、49名(うち船員8名)。 神戸丸と天山丸の事故は、後日調査の結果、戦時の制限航路内で、無灯火航海を強いられ起こった戦争海難と認定され、両船の不可抗力が認められた。
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船歴
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「しきしま (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
1992年4月8日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。 竣工直後の11月には、フランスのシェルブールから日本の東海港までプルトニウムを輸送する「あかつき丸」の護衛にあたった。なお、この護衛任務の際、シェルブール出港直後に環境運動家の抗議船に体当たりされて軽微な損傷を受けたが、任務遂行に支障はなかった。 上記のように、本船はもともとこの護衛任務のために建造されたものであったが、第2回目以降の輸送は行われなかったため、以後は他のヘリ巡と同様の業務に従事することになった。また特に長大な航続距離を活かして、広域哨戒や東南アジア諸国への派遣、尖閣警備などに活用された。その後、2018年3月25日には鹿児島海上保安部(第十管区)に配属替えとなった。 本船は当初延命・機能向上工事により延命する予定であったが、検査の結果予想以上に老朽化が進んでいることが判明し、令和3年度補正予算で代船が建造されることとなった。
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船歴
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「山陽丸 (特設水上機母艦)」の記事における「船歴」の解説
「山陽丸」は三菱重工業長崎造船所で建造され、1930年(昭和5年)10月31日に竣工後、翌11月に処女航海を行いニューヨーク航路に就航する。航路の主要搭載品は生糸であったが、冷凍マグロを搭載する事もあった。後にはヨーロッパ航路にも配船され、第二次世界大戦勃発後も引き続き就航するが、イギリスによる拿捕の危機をはらみつつドイツからの貨物を搭載して日本に帰国する事もあった。1941年(昭和16年)5月2日に神戸を出港した航海が最後の商業航海であり、帰国後の8月6日に日本海軍に徴傭され横須賀鎮守府籍となる。8月15日に特設水上機母艦として入籍後、艤装工事を受けた。9月30日、第十二航空戦隊に編入。11月22日に第十二航空戦隊は佐世保を出港し、11月27日に三亞に到着。 太平洋戦争緒戦では第十二航空戦隊の「山陽丸」、「神川丸」と第九根拠地隊の「相良丸」で馬来部隊の第二航空部隊を編成し、マレー半島への上陸作戦に参加した。その任務は船団の護衛、泊地の警戒および陸戦の支援であった。「山陽丸」はリエム湾へ進出し、その水上機は船団の護衛や索敵に従事した。12月9日、「山陽丸」はプロコンドル島へ向かった。マレー沖海戦のあった12月10日、カムラン湾から「山陽丸」と「神川丸」の水上機が索敵を行い、プロコンドル島に到着した「山陽丸」もその搭載機を索敵に向かわせていたが、これらはイギリス艦隊は発見できなかった。 1942年(昭和17年)に入ってからは「神川丸」とともに蘭印作戦に転じ、1月はタラカン島およびバリクパパン攻略戦の支援にあたる。2月にはジャワ島西部に上陸する第十六軍(今村均中将)主力の援護を務め、3月下旬にはメルギー(英語版)を拠点として水上機基地設営、マラッカ海峡警戒およびアンダマン諸島攻略作戦の援護を行った。5月、小スンダ列島戡定作戦に参加。7月下旬のタニンバル諸島平定戦に協力した後、「山陽丸」はガダルカナル島の戦いが始まったのをきっかけにソロモン諸島方面へと転戦する。 「山陽丸」はショートランドに到着の後、ガダルカナル島方面の航空作戦の支援を行うが、11月21日未明にトラック諸島へ向けてショートランドを出港した直後、アメリカ潜水艦スティングレイ (USS Stingray, SS-186) に発見された。スティングレイは魚雷を4本発射し、3本は回避したものの残る1本が船体後部に命中して航行不能となる。「山陽丸」は駆逐艦「高波、天霧」、特設水上機母艦「讃岐丸」(日本郵船、9,246トン)などの支援を受けてショートランドに引き返し、応急修理が開始された。しかし、度重なる空襲の影響で避泊地をしばしば変更し、12月21日には爆撃によって船体後部構造物に被弾し損傷する。1943年(昭和18年)1月9日、「山陽丸」は特務艦「鶴見」に曳航されてショートランドを出港し、1月17日にトラックに到着。工作艦「明石」による修理を受けた後、特設給兵船「興業丸」(岡田商船、6,353トン)に曳航されて呉に帰投。本格的な修理に入る。その後、10月1日付で特設運送船(雑用甲)に類別変更された。 特設運送船となった「山陽丸」は、トラックおよびマリアナ諸島方面への輸送任務に就く。1944年(昭和19年)3月20日、東松三号特船団に加わって館山を出港し、3月28日にトラックに到着。4月に入り、「山陽丸」はサイパン島、メレヨン島への輸送を行う。この間の護衛は駆逐艦「雷」が務めたが、「雷」は4月13日午後にアメリカ潜水艦「ハーダー」 (USS Harder, SS-257) の雷撃により沈没した。サイパン島経由で4月26日に横浜に帰投後、5月13日、「山陽丸」はヒ63船団に加入して門司を出港。5月18日にマニラに到着後にヒ63船団と分離し、軍需品を搭載してハルマヘラ島へ向かう。セブに寄港の後、ハルマヘラ島カウ湾に向けて航行中の5月26日16時25分、北緯02度46分 東経124度21分 / 北緯2.767度 東経124.350度 / 2.767; 124.350のマナド北方海域でアメリカ潜水艦カブリラ (USS Cabrilla, SS-288) の魚雷攻撃を受けた。カブリラは魚雷を6本発射し、うち2本が4番船倉と6番船倉(右舷艦尾・機関部とも)付近に命中、航行不能となった。「山陽丸」は船尾から徐々に沈みはじめ、下士官兵達は酒保からサイダーや菓子を持ちだして最後の宴会を開いたという。その頃になって応急処置命令が出されるが既に右舷へ45度傾斜しており、手遅れであったという。「山陽丸」は19時40分に沈没した。7月10日に除籍および解傭された。
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船歴
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「あきつしま (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
2013年11月28日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。 2015年(平成27年)4月8日~9日の天皇・皇后のパラオ行幸啓において、本船が宿泊施設として用いられた。これはパラオ国際空港と訪問先のペリリュー島が離れすぎることや移動にヘリコプターを用いることによる選定で、天皇の外国訪問に海上保安庁の巡視船が使われるのは初めてのことである。これに合わせて本船は、高齢となった天皇・皇后が利用する可能性のある船内設備にスロープや手すりを設置するなど、可能な限りのバリアフリー化を図った。また個室である船長室に大きめのベッドを入れて2人で泊まれるようにし、トイレも温水洗浄便座に変更するなどの小改装が行われた。
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船歴
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「りゅうきゅう (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)を受けて建造されることになり、2000年3月31日に竣工して、第十一管区海上保安本部に配属された。船名は琉球国に由来する。 その後、那覇海上保安部の新設に伴って、2013年05月16日にはこちらに配属替えされた。
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船歴
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「エンプレス・オブ・エイジア」の記事における「船歴」の解説
「エンプレス・オブ・エイジア」は、姉妹船の「エンプレス・オブ・ロシア(英語版)」とともに、イギリスの船会社カナディアン・パシフィック・ライン(英語版)(カナダ太平洋汽船、CPL社)により太平洋航路向けの高速客船として建造された。CPL社はカナダ太平洋鉄道の海運部門で、1887年以来、カナダ横断鉄道に接続する太平洋横断航路を運航していた。同社は、1891年頃に太平洋航路へ「ホワイト・エンプレス」と讃えられる洗練された白い船体の客船3隻「エンプレス・オブ・チャイナ(英語版)」「エンプレス・オブ・インディア(英語版)」「エンプレス・オブ・ジャパン(英語版)」を次々に投入したことで知られ、本船も同様に「エンプレス」から始まる船名を与えられた。 「エンプレス・オブ・エイジア」の建造は、イギリスのグラスゴーにあるフェアフィールド・シップビルディング・アンド・エンジニアリング・カンパニー(英語版)の造船所で行われ、1913年5月に竣工した。1941年時点の要目は、総トン数16,909トン、長さが570フィート1インチ(128.9m)、幅が68フィート2インチ(20.8m)、深さが42フィート(12.8m)である。動力は蒸気タービン機関4基を搭載し、4基のスクリューで推進した。船体の特徴として、船尾形状が当時の商船に一般的なカウンタースターンではなく、クルーザースターンを採用していた。 竣工した「エンプレス・オブ・エイジア」は、姉妹船「エンプレス・オブ・ロシア」とともに、CPL社の下でカナダのバンクーバーと香港など極東を結ぶ航路に投入された。1914年5月には、サミュエル・ロビンソン船長の下で、太平洋横断の世界最速記録9日間・2時間・15分と、1日間の航行距離最大記録473海里(約876km、速度にして約19.7ノット)を達成した。 1914年8月に第一次世界大戦が始まると、「エンプレス・オブ・エイジア」と「エンプレス・オブ・ロシア」はただちにイギリス海軍に徴用され、仮装巡洋艦に改装された。両船は、イギリス海軍や日本海軍、ロシア海軍の正規巡洋艦とともにインド洋で、ドイツ海軍の巡洋艦「エムデン」追撃戦に参加した。停戦成立後には、故郷へ帰還するカナダ海外派遣軍の将兵を輸送した。 「エンプレス・オブ・エイジア」は第一次世界大戦を生き延び、姉妹船「エンプレス・オブ・ロシア」とともに太平洋航路に復帰した。なお、1922年、CPL社は同航路に、一回り大型の新造客船「エンプレス・オブ・カナダ」も投入している。第一次世界大戦を契機に経済発展した極東は、西欧人からの関心が高まっており、太平洋航路は大西洋航路及びインド洋航路と並ぶ世界一周ルートの一部として、新鋭客船が次々と就航するようになっていた。 第二次世界大戦において、「エンプレス・オブ・エイジア」はイギリス海軍によって再び徴用され、軍隊輸送船として使用されることになった。しかし、後述のとおり、1942年2月5日、護送船団に加入してシンガポールへ到着寸前、日本軍の空襲により撃沈された。
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船歴
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本船は、蔣介石政権の中華民国の砲艦として、イギリス統治下の香港の九龍ドック(英語版)で起工された。しかし、建造中に太平洋戦争が勃発し、開戦直後の1941年(昭和16年)12月に起きた香港の戦いにおいて日本陸軍によって鹵獲された。日本陸軍は本船を陸軍船舶兵(暁部隊)用の砲艦として使用することを計画し、大阪鉄工所の派遣要員により建造を続行、高射砲や野砲などの火砲のほか、爆雷や「す号」「ら号」と称するソナーなどの対潜水艦兵装を搭載して竣工させた。船名は「暁征丸」と命名された。船名に「暁」の頭文字が付くのは船舶司令部が直接管理した鹵獲船舶に共通する命名法である。船種は「警備艇」と呼称されている。 1942年(昭和17年)11月に、同じく香港で鹵獲された「暁南丸」(東亜海運で運航)の船員を徴用して「暁征丸」の乗員へ充当することになった。 1944年(昭和19年)4月上旬、日本陸軍は日本海軍とは別に陸軍独自の護送船団を運航するため、船舶砲兵第2連隊に自衛船隊を新設。「暁征丸」はそのうちの第1護衛船隊へ配備された。第1護衛船隊は本船のほか「錦州丸」(370トン)、「第三警南丸」(50トン)および強力曳船「円島丸」(300トン)・「准河丸」(300トン)で構成された。自衛船隊の兵装を操作する船砲隊員は船舶砲兵第2連隊の第17-19中隊(野砲中隊)と爆雷中隊の人員を主力とし、「暁征丸」の船砲隊長には前田中尉が着任した。 本船は同年5月下旬にシンガポールからマニラまで最初の護衛航海を実施した。ついで同年6月頃に、マニラから高雄港へ貨物船「大倫丸」(大阪商船:6862総トン)を護衛したが、バシー海峡で時化とエンジン故障のため落伍し、後れて目的地へ着いた。同年8月中旬までマニラを拠点にルソン島沿岸での護衛を担当し、8月下旬からはボルネオ島へ移動して同島アピ=サンダカン間航路を3往復した。1944年後半にアメリカ軍のフィリピン反攻が迫るとさらに南へ撤退、その後はジャワ島・スマトラ島方面での護衛任務に従事した。例えば1945年(昭和20年)3月24日から4月11日にかけてシンガポール発・パダン経由・ジャカルタ行きの船団を「第3警南丸」と護衛した。同年6月下旬にはスマトラ島東南端バリンビン沖で浮上襲撃してきた敵潜水艦と交戦し、護衛中の800トン級の輸送船を撃沈されてしまった。第1護衛船隊所属船のうち「錦州丸」(南満州鉄道:238総トン)は1944年8月7日にアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」によって撃沈されたが、本船は終戦まで沈没を免れた。 1945年の日本の降伏後、本船は連合国軍の指示でジャカルタからレンバンへの日本兵輸送を担当。その後、オランダ軍によって鹵獲された。「ルイメス」(Hr.Ms. Luymes、音写表記は暫定)と船名を改め観測船(Opnemingsvaartuig)として使用された。
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「ゴールデン・ハインド」の記事における「船歴」の解説
イングランド女王エリザベス1世は、マゼラン海峡を通過し南米大陸の西海岸を探検するフランシス・ドレークの遠征隊への支援を決めた。ドレークは、この探検で自身と女王に利益をもたらすと同時にスペインに最大の損害を与えることを約束した。出港前にドレークは女王に拝謁し、「スペイン王にこれまでイングランドが受けた多くの傷の代償を払わせます」と誓った。 ドレークの遠征隊の表向きの目的は、「新しい航路の発見」だった。 しかし、彼らはエリザベス1世からの非公式な支援を得て、 私掠船団として行動した。 ドレイクの遠征隊は1577年12月に総員164名で5隻の小型船で出航し、1578年初頭にブラジルの海岸に到着した。 1579年3月1日、ゴールデン・ハインドは現在のエクアドル沖の太平洋上でスペインのガレオン船「聖母マリア号(英語版)」を襲撃し、これを拿捕した。この船には26tの銀、500kgの黄金のほか磁器、宝石、硬貨など総額36万ペソ(2017年の試算で約4億8千万ポンド)の財宝が積まれており、これらを積み替えるだけでも6日間を要したという。 1580年9月26日、ドレークは80名の乗員中56人と戦利品を乗せたゴールデン・ハインドをプリマスに向けて出港させた。帰国した船はプリマス近くのサルタッシュ城で王家の衛兵の監視の下で荷降ろしを行った。積荷の中には、当時は同じ重さの金と交換で取引されていたモルッカ諸島産のクローブ6tも含まれていた。積荷の売り上げは遠征隊に出資された総額の47倍の利益を出し、出資額に応じて配分された。その内の半分にあたる30万ポンドがエリザベス1世と国庫に納められ、女王個人の取り分だけでも16万ポンドに達した。その資金で当時のイングランド政府が抱えていた負債が清算され、残金は国策会社のレヴァント会社に投資され、同社はイギリス東インド会社の基となった。 1581年4月4日、エリザベス1世はゴールデン・ハインドを訪れ、船上においてドレイクへのナイトの称号の授与式が執り行われた。ゴールデン・ハインドはその後、エリザベス1世の意向により、テムズ川河口に近いデトフォード(英語版)に記念艦として保存された。 ゴールデン・ハインドはエリザベス1世が亡くなってから45年後の1650年頃までデトフォードに係留され、最終的に船体が朽ちてしまったことから解体された。
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「サセックス (客船)」の記事における「船歴」の解説
ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で建造され、1896年4月30日に進水。ニューヘイブン・ディエップ航路に就航し、処女航海は1896年7月31日であった。 1914年、フランスのCompagnie des Chemins de Fer de l'État Françaisへ売却される。 第一次世界大戦中は航路がニューヘイブンからではなくフォークストンに変更され。1916年3月24日、フォークストンからディエップへ向け航行中サセックスはドイツ潜水艦UB29に雷撃された、サセックスは船橋より前を失う大きな被害を受けた。乗員53人、乗客325人中、少なくとも50人が死亡した。サセックスはブローニュ=シュル=メールへと曳航された。 犠牲者にはスペインの作曲家エンリケ・グラナドスとその妻などがおり、負傷者にはワイルダー・ペンフィールドなどのアメリカ人もいた。 アメリカ人に死者はいなかったもののアメリカの世論は怒り、アメリカとドイツ間の外交問題となった。1916年5月にドイツはSussex pledgeと呼ばれる宣言を出し、潜水艦戦での一部制限撤廃(武装商船への無警告攻撃の許可)を取りやめることとなった。 戦後の1920年にピレウスのD Demetriadesへ売却されてAghia Sophiaと改名。火災により損傷し1921年に解体された。
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「ダニエル・カサノバ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
1989年に就航した初代ダニエル・カサノバの代船として、フィンカンティエリ アンコーナで建造され、は2001年に「メディテラネ」の名で建造され2002年7月5日、SNCMのマルセイユ - アジャクシオ間に就航。ナポレオン・ボナパルトに似た船として設計されました。2016年にコルシカ・リネアに移籍し、マルセイユ - チュニスとマルセイユ - アジャクシオ間に就航。
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船歴
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「東京丸 (日本海軍)」の記事における「船歴」の解説
元はニューヨークで1854年(安政元年)に竣工した木造汽船アンクルサム(UNCLE SAM)。
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船歴
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「ちくぜん (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
1983年9月28日に竣工し、福岡海上保安部(第七管区)に配属された。船名は筑前国に由来する。 1999年に発生した北朝鮮による能登半島沖不審船事件で出動。ヘリ搭載という利点を生かし、洋上で特殊警備隊(SST)が乗船した。また、20ミリ機関砲による警告射撃も行っている。 その後、尖閣領海警備専従体制の構築に伴って、2013年10月2日、本船は那覇海上保安部(第十一管区)に配属替えとなり、沖縄県に因んで「おきなわ」と改名した。 平成26年度予算で延命・機能向上工事費が認められ、2014年から2015年にかけて工事を受けた。
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船歴
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3代目大成丸の代船として三井造船玉野事業所で建造され、2014年3月31日に竣工した。2代目大成丸から船内に展示されている、初代大成丸の銘鈑も引き継がれた。
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「ノーマン・アトランティック」の記事における「船歴」の解説
アケマン・ストリートとしてイギリスのアーミン・ストリート・シッピング向けに2009年にイタリアポルト・ヴィーロのカンティエーレ・ナヴァーレ・ヴィセンティーニで建造されたが、同社は取得せずイタリアのヴィセマール・ディ・ナヴィガジオーネが取得した。2010年2月から4月にかけてはT-Linkに傭船され、2011年5月にマルタ共和国バレッタで改装、6月よりサレマールが傭船し、シントゥと改名した。2013年1月グランデ・ナビ・ヴェローチ、4月モビー・ラインズと傭船先を変え、10月にLDラインズにより傭船され、2014年1月にノーマン・アトランティックと改名した。2014年8月29日の航海を持ってLDラインズとの契約が終了し、9月から10月までカロンテ&ツーリストに傭船、その後ANEKラインズによって傭船された。
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初代海王丸の後継として、1989年(平成元年)に全通船楼甲板船として就航したのが海王丸II世である。 先代の海王丸に比べて大型化がなされ、また、日本丸II世で培われた建造技術をさらに進歩させ、帆走時には抵抗となるプロペラの迎え角を水流に平行とすることにより抵抗を減少させる、フェザリング機能を有する可変ピッチプロペラの採用などにより日本丸II世をしのぐ帆走性能を得た。その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1990年、1991年、1994年、1995年と4回受賞(日本丸II世は3回受賞)している。なかでも1995年には124時間で1394マイルを帆走する記録を打ち立てている。 海王丸II世は国有ではなく、民間の寄付により建造された。 公益財団法人海技教育財団が所有しており、独立行政法人海技教育機構に用船契約される形で運航されている。海技教育財団が、一般社会人向けの体験航海・遠洋航海コースを実施しているが、海事教育機関の練習船であるため、実習生の参加人数により一般募集枠が少なくなる場合もある。 補足として、日本丸II世との外見の違いは「船首像」「船体のライン数」「救命艇の形状」「後部フード(舵輪の屋根)の形状」である。
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「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ (客船)」の記事における「船歴」の解説
「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」はシュテッティンのフルカン・シュテッティン造船所で建造され、1897年5月4日に進水、同年9月19日にブレーマーハーフェン - ニューヨーク間で処女航海を行った。 1900年6月、ホーボーケンの港で大規模な衝突事故が発生し、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」は客船「メイン」、「ブレーメン」、「セール」と衝突した。この事故で161名の乗務員が死亡した。その6年後、1906年11月、ロイヤルメール社の客船「オリノコ」と衝突し、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」の乗客が5名死亡、船体には幅21m、高さ8mの巨大な穴が開いた。この事故の海難審判では、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」に責任があるとされた。
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「シュプレーヴァルト (船)」の記事における「船歴」の解説
1924年4月28日、エムデンで座礁。翌日離礁した。 第二次世界大戦が勃発すると、中国の旅順で抑留された。1941年に抑留から解かれ、10月21日に大連より出航。天然ゴム3,365トン、錫230トン、タングステン20トンおよびキニーネを積載していた。ドイツへ向かう途中で補給船「クルマーラント」と出会い、仮装巡洋艦「コルモラン」により沈められた船の生存者であるイギリス人捕虜86名が「シュプレーヴァルト」へ移された。 1942年1月31日、フランスのボルドーへ近づいていた「シュプレーヴァルト」はイギリス船と誤認されドイツ潜水艦「U333」(ペーター=エーリヒ・クレーマー艦長)から雷撃を受けた。「U333」は魚雷2本を発射し、「シュプレーヴァルト」中央部に命中。「シュプレーヴァルト」は激しく炎上し、ゆっくりと沈没した。沈没地点は北緯45度12分 西経24度50分 / 北緯45.200度 西経24.833度 / 45.200; -24.833座標: 北緯45度12分 西経24度50分 / 北緯45.200度 西経24.833度 / 45.200; -24.833であった。 生存者の捜索活動は「U333」および「U575」、「U123」によってすぐに開始され、「U701」、「U582」、「U332」、「U105」と空軍のFw 200も加わった。 「U105」によって乗員25名と捕虜55名が救助されたが、72名が死亡した。 クレーマーは軍法会議にかけられたが無罪となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:55 UTC 版)
「ラコニア (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説
1922年5月25日にサウサンプトンからニューヨークへ向けて処女航海に出発。1923年1月、最初の世界一周航海に出発した。その130日にわたる航海では22の港に寄港した。 1934年9月23日、濃い霧の中をボストンからニューヨークへ向かって航行中に、アメリカの貨物船と衝突事故を起こした。 第二次世界大戦が勃発した直後の1939年9月4日、「ラコニア」は海軍に徴用されて仮装巡洋艦となった。1940年1月23日、金塊を載せてポートランドとハリファックスへ向けて出発。それから大西洋で船団護衛に従事した。6月9日、ハリファックスで座礁し、7月の終わりまで修理に費やした。 その後兵員輸送船に改装され、中東への兵員輸送任務に従事した。 1942年9月12日、イタリア人捕虜を乗せて航行中のラコニアは、アセンション島の北北東130マイルでドイツ潜水艦「U156」に攻撃された。午後8時10分、右舷に1本の魚雷が命中し、9時11分に沈没した。「U156」を含むドイツとイタリアの潜水艦、ヴィシー・フランス政府の軍艦が共同で生存者の救助作業にあたったが、アメリカ軍機がそれを攻撃し、救助された人の一部が死亡した。なお、「ラコニア」のルドルフ・シャープ船長は、連合国商船の中で最大の犠牲者を出した「ランカストリア」が撃沈された時の船長でもあった。 詳細は「ラコニア号事件」を参照 この事件はテレビドラマ化もされている(邦題は『Uボート156 海狼たちの決断』または『ラコニア号 知られざる戦火の奇跡』)。
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「メディテラネ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
「メディテラネ」は1988年に「ダニエル・カサノバ」の名で建造され1989年5月13日、SNCMのマルセイユ - アジャクシオ間に就航。2002年に新しいダニエル・カサノバに置き換えられました、「メディテラネ」に改名、マルセイユ - チュニスとマルセイユ - アルジェ間に就航。 2016年にコルシカ・リネアに移籍し。
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1939年11月 - 播磨造船所にて起工。 1941年9月 - 進水。 1942年1月 - 竣工。同時に陸軍に徴用。2月 - 蘭印作戦動員。 3月 - 蘭印作戦ジャワ上陸戦参加。 1942年3月-1944年4月 - 南方各地に対し数々の輸送任務を行う。 1944年4月-7月 - 播磨造船所にて改装、航空機運用能力を強化。8月6日-11月6日 - 主に日朝間にて洋上対潜哨戒任務を行う。 11月9日 - 日本帰還。 11月14日 - フィリピンへの軍隊輸送のため、ヒ81船団に加入し日本出港。 11月15日正午頃 - 五島列島沖においてクイーンフィッシュの雷撃で沈没。
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三菱商事が「さんぺどろ丸」級タンカーの改良型として、1935年(昭和10年)に三菱重工業長崎造船所で建造したタンカーで、「さんらもん丸」級2隻の1番船である。同型船としては、2番船の「さんくれめんて丸」があるほか、準同型の「さんぺどろ丸」級として「さんぢゑご丸」「さんるいす丸」「第一小倉丸」「第二小倉丸」が建造されている。 竣工後は主に北米~横浜間の石油輸送に従事していたが、アメリカの石油輸出制限後は目的地がボルネオ島に変更された。太平洋戦争勃発直後の1941年(昭和16年)12月23日に日本海軍により徴用され、海軍一般徴用船となった。1943年(昭和18年)9月1日には特設運送船(給油船)に移籍した。 1943年(昭和18年)11月4日にボルネオのミリで原油10,600トンを積み、途中で第221船団に加わって日本を目指したが、済州島から門司へ航行中の11月27日午前0時過ぎにアメリカの潜水艦シーホースの雷撃に遭い右舷に被雷。さらに午前1時半には左舷にも被雷し、約10分後に沈んだ。船長を含め28名が戦死した。
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「ジロラッタ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
スウェーデンのランズクルーナに造船された。1995年6月9日にミノアン・ラインスに引き渡され、7月8日、パトラ~アンコーナ航路に就航。2002年にラ・メリディオナーレに買収され、「ジロラタ」と改名された。マルセイユ~バスティアとマルセイユ~アジャクシオの路線に就航する。2019年10月、アジャクシオへの道の途中でコルシカ・リネアという会社に置き換えられる。ジロラタはその後、チビタベッキアとパレルモの間でイタリアの会社GNVによってチャーターされた。
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「岩木丸 (1942年)」の記事における「船歴」の解説
北日本汽船から播磨造船所に発注され、1941年3月15日、播磨造船所相生工場で建造番号303番船として起工。1942年4月28日、進水。6月29日、同所で竣工。 1942年12月8日、横須賀在泊中に海軍省により徴傭され用途雑用、横須賀鎮守府所管となる。同日、東京へ回航。11日大井、同日鳥羽、14日呉、16日大阪、19日門司、23日大連、31日所安群島にそれぞれ寄港。 1943年1月5日横浜、11日室蘭、19日函館、22日東京、26日横須賀にそれぞれ寄港。 2月2日父島、6日硫黄島、28日父島にそれぞれ寄港。 3月4日横須賀、11日函館、12日小樽、16日函館、20日東京、27日小樽、31日函館にそれぞれ寄港。 4月3日東京、13日小樽、18日油谷湾、20日大阪、22日広畑、26日八幡、29日長崎にそれぞれ寄港。 5月2日佐世保、7日群山、10日青島、19日徳山、23日大阪、28日門司、29日釜山にそれぞれ寄港。 6月6日大湊、11日函館、16日釧路、21日択捉島天寧、25日松輪島、27日幌筵島武蔵湾、30日占守島長崎湾にそれぞれ寄港。 7月1日占守島片岡湾、5日武蔵湾、7日幌筵島擢鉢湾、8日武蔵湾、24日小樽、26日函館、31日青森にそれぞれ寄港。 8月4日小樽、9日片岡湾、12日武蔵湾、20日擢鉢湾、31日幌筵島乙前湾にそれぞれ寄港。 9月5日函館、9日青森、同日大湊、16日小樽にそれぞれ寄港。20日から21日まで神風の護衛を受ける。21日武蔵湾、同日擢鉢湾、30日武蔵湾にそれぞれ寄港。 10月11日片岡湾、13日擢鉢湾、17日武蔵湾、18日片岡湾にそれぞれ寄港。20日、石垣の護衛を受けカニ漁母船笠戸丸らとともに幌筵発。24日小樽、26日函館、31日青森にそれぞれ寄港。 11月4日小樽、10日片岡湾、12日武蔵湾にそれぞれ寄港。武蔵湾在泊中の16日、北日本汽船は大阪商船と合併。23日擢鉢湾に寄港。 12月15日片岡湾、23日武蔵湾にそれぞれ寄港。 1944年1月19日釧路、25日室蘭、31日六連にそれぞれ寄港。 2月2日大阪、4日相生にそれぞれ寄港。7日から3月30日まで播磨造船所で入渠修理を実施。 4月1日徳山、7日門司、9日美保関、10日舞鶴、13日大湊、14日室蘭、24日大湊にそれぞれ寄港。 5月3日片岡湾に寄港。5日、神風の護衛を受け大湊へ向け幌筵発。10日大湊、同日函館、13日大湊、19日小樽にそれぞれ寄港。20日、ネ船団に加入し松輪島へ向け小樽発。24日、松輪島着。31日松輪島を出港したが、同日松輪島大和湾に帰着。 6月1日大和湾で揚陸中、湾内に侵入したアメリカ潜水艦ヘリングの攻撃を受けて魚雷2本が命中し、沈没した。沈没の際、船員30名が犠牲となった。
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船歴
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本船は、第一次戦時標準船1TM型の8番船として、三菱重工業横浜造船所で建造された。1943年7月12日に起工し、1943年10月14日に進水し、1943年11月20日に竣工した。船名の「さらわく丸」は三菱汽船所有船の「石油産出地名+丸」という命名慣例に沿っており、ボルネオ島にある石油産出地、ミリが所在するサラワク州に由来する。竣工と同時に民需用が建前の船舶運営会使用船となり、軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍配当船に指定され、陸軍配当船番号5091番が付与された。 公試の後門司に移動したさらわく丸は、12月13日に特設運送船(給油船)第二小倉丸(日本石油、7,311トン)、応急タンカー第3伏見丸(増田合名所有/三井船舶運航、4,292トン)、貨物船ばたびあ丸(大阪商船、4,393トン)、1K型戦時標準貨物船日鈴丸(日産汽船、5,396トン)、特設運送船広田丸(日本郵船、2,922トン)等輸送船14隻と共に、高雄行きの第121船団を編成し、第33号掃海艇、駆逐艦汐風の護衛を受けて門司を出港。しかし、17日夜、沖縄本島南方洋上を航行中、船団は米潜水艦アスプロ(USS Aspro, SS-309)に発見される。2226、北緯24度10分 東経124度40分 / 北緯24.167度 東経124.667度 / 24.167; 124.667の地点でアスプロは大型タンカーとそれに隣接して航行している貨物船へ向けて艦尾発射管から魚雷を発射。魚雷2本は日鈴丸に向かってきたが、同船は回避に成功。しかし、さらわく丸ほかタンカー1隻に魚雷1本ずつが命中し、どちらも損傷した。汐風は爆雷20発を投下するも、アスプロを取り逃がしてしまう。20日、船団は高雄に到着する。その後、さらわく丸は27日にシンガポールのセレター軍港に到着し、第101工作部で修理を受ける。 修理完了後の1944年1月8日、さらわく丸は重油を積み込み、逓信省標準船TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)、特設運送船能代丸(日本郵船、7,189トン)、貨客船ろんどん丸(大阪商船、7,104トン)と共にヒ28船団を編成し、海防艦松輪の護衛でシンガポールを出港。16日0230、松輪が対潜掃討のために船団から分離する。船団は高雄に先行。2240に対潜掃討を終了した松輪が合流し、高雄を出港。17日2240、船団は門司に到着した。 積荷を降ろした後、3月1日に特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)、逓信省標準船B型貨物船改装の応急タンカー千代田丸(日本郵船、4,701トン)、応急タンカー愛宕丸(日本郵船、7,542トン)、海軍配当船で、逓信省標準船C型貨物船改装応急タンカー日達丸(日産汽船、2,859トン)等輸送船10隻と共にモタ07船団を編成し、駆逐艦天霧、第30号掃海艇の護衛を受けて門司を出港。4日1300、駆逐艦朝顔が合流。5日、朝顔が分離する。7日、北陸丸が機関故障により後落するも、後に復帰する。8日、台湾北方沖合で貨客船帝香丸(帝国船舶所有/大阪商船運航、8,009トン/旧仏船Cap Verlla)、貨物船山萩丸(山下汽船、5,429トン)が基隆へ向かうため分離。9日1440、船団は高雄に到着した。16日、1K型戦時標準船日置丸(日産汽船、5,320トン)、貨客船顕正丸(拿捕船/大阪商船委託、4,644トン/元英船Hinsang)等輸送船9隻と共にタサ10船団を編成し、特設砲艦長寿山丸(朝鮮郵船、2,131トン)の護衛を受けて高雄を出港。20日、日置丸他輸送船1隻が楡林に向かうため分離。21日、船団はカムラン湾に到着した。22日、船団はカムラン湾を出港し、23日1000にサンジャックに到着した。24日、顕正丸と共にサシ13A船団を編成し、護衛を受けずにサンジャックを出港。27日に船団はシンガポールに到着した。 4月8日、重油を積み込んださらわく丸は、大鳥山丸、姉妹船のあさなぎ丸(石原汽船、5,141トン)、第2日南丸(飯野海運、5,227トン)等輸送船6隻と共にヒ56船団を編成し、駆逐艦呉竹、水雷艇鳩、海防艦松輪の護衛を受けてシンガポールを出港。11日、船団はサンジャックに到着し、ヒ54船団と合流する。14日0800、船団はサンジャックを出港し、19日に高雄に寄港。24日1930に船団は門司に到着した。 積荷を降ろした後、5月3日に特設運送船(給油船)建川丸(川崎汽船、10,090トン)、大鳥山丸、特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船、10,020トン)等輸送船9隻と共にヒ61船団を編成し、空母大鷹、駆逐艦響、電、海防艦佐渡、第5号海防艦、第7号海防艦、第13号海防艦の護衛を受けて門司を出港。同日、朝顔が合流する。4日、2TL型戦時標準タンカー仁栄丸(日東汽船、10,241トン)が機関故障により高雄へ向かう。7日、朝顔が船団から分離し、高雄に向かう。8日朝、北緯19度19分 東経120度00分 / 北緯19.317度 東経120.000度 / 19.317; 120.000のルソン海峡を航行中、船団は米潜ホー(USS Hoe, SS-258)に発見される。ホーは8,000トン級輸送船に対して魚雷を4本、4,000トン級タンカーに対して魚雷を2本発射。魚雷は2TL型戦時標準タンカーあかね丸(石原汽船、10,238トン)に命中してこれを撃破した。あかね丸は第7号海防艦の護衛で高雄に移動する。9日、船団はマニラに到着した。第7号海防艦は高雄を出港した後ミ03船団に合流してマニラまで護衛を行い、マニラでヒ61船団に合流した。11日、あ号作戦の準備のため、建川丸、日栄丸、特設運送船(給油船)で、1TL型戦時標準タンカーのあづさ丸(石原汽船、10,022トン)がバリクパパンに向かうべく分離。12日、船団はマニラ止まりの陸軍徴用船瑞穂丸(大阪商船、8,506トン)を分離し、海防艦倉橋を加えてマニラを出港。18日、船団はシンガポールに到着した。 23日、重油を積み込んださらわく丸は、大鳥山丸、能代丸、逓信省標準船TM型タンカー日南丸(飯野海運、5,175トン)等輸送船7隻と共にヒ62船団を編成し、空母大鷹、海防艦倉橋、佐渡、第5号海防艦、第7号海防艦、第13号海防艦の護衛を受けてシンガポールを出港。29日、船団はマニラに到着する。6月1日0400、船団はマニラを出港し、8日未明に六連島泊地に到着。後、0230に門司に到着した。船団はここで解散となり、さらわく丸は門司を出港。9日に厳島に到着した。積み荷を降ろした後の11日、厳島を出港して因島に到着。18日、因島を出港し、翌19日に宇品に到着した。 20日、さらわく丸は陸軍兵士444名を乗せて宇品を出港し、同日中に門司に到着。同日1930、大鳥山丸、第二日南丸、特設運送船(給油船)で1TL型戦時標準タンカーのみりい丸(三菱汽船、10,565トン)等輸送船11隻と共にヒ67船団を編成し、駆逐艦呉竹、急設網艦白鷹、海防艦平戸、倉橋、第5号海防艦、第13号海防艦、駆潜艇第63号駆潜艇の護衛を受けて門司を出港。29日、北緯17度13分 東経118度18分 / 北緯17.217度 東経118.300度 / 17.217; 118.300のルソン島サンフェルナンド沖を航行中、船団は米潜バング(USS Bang, SS-385)に発見される。1517、バングは船団に向けて魚雷を5本発射。さらわく丸の左舷船首に魚雷1本が命中し、船首部分が大破、油槽1つが使用不能となる。輸送中の陸軍兵士3名が戦死し、23名が行方不明となる。また、みりい丸の左舷船橋下に魚雷1本が命中し、船首を深く沈めてしまう。それでも、2隻とも沈没は免れた。30日、駆逐艦朝顔、第2号海防艦が船団に合流。同日中に船団はマニラに到着し、さらわく丸は船団から分離。兵員を降ろした後カヴィテにある第103工作部に回航されて応急修理を受ける。 24日に応急修理が完了した後、さらわく丸は2TM型戦時標準タンカーせらむ丸(三菱汽船、2,858トン)がマニラで陸揚げした原油2,000トンを積み込み、8月7日に出港。16日、基隆に到着。20日、基隆を出港し、26日に門司に寄港した後、27日に岩国に到着して積荷を降ろし、輸送任務を完了した。油槽1つを失いながらも貴重な原油を輸送したこの行動はのちに運輸通信大臣から表彰された。28日、岩国を出港して、29日に神戸に到着。31日、神戸を出港。9月1日、第46号哨戒艇と合流し、護衛を受ける。3日、さらわく丸は横浜に到着し、生まれ故郷である三菱重工業横浜造船所にて修理をうける。
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船歴
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もともとの船体は、1963年4月25日に尾道造船で建造され日本の琉球海運で鹿児島港~那覇港、東京~那覇航路で活躍していたひめゆり丸(定員608人)であった。これが1975年にフィリピンの船会社に転売された後、1979年6月5日に火災に遭い廃棄処分の憂き目に遭った。しかしフィリピン国内の船不足から改造を施す会社が現れ、1981年にドニャ・パス号として再起した。再起に当たっては、船体上部に大幅に客室が加わるなど、元の面影が全くなくなるほどの重改造(定員増は3倍以上)が加えられていたという。公称では2,640tとされているが、疑問を挟む余地はある。
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船歴
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1980年3月5日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。船名は浦賀水道に由来する。 1988年11月9日、アメリカ海軍のチャールズ・F・アダムズ級ミサイル駆逐艦「タワーズ(英語版)」が房総半島沖において、訓練区域外であるにもかかわらず射撃試験を行い、しかもその砲弾のうち数発が本船の近くに着弾するという事件が発生した。弾着点との距離について、海保側は300-500メートル程度と報告しているのに対し、アメリカ海軍の最終報告書では約1900メートルとされたものの、軍法会議により艦長は解任され、海軍側の最高責任者が外務省を訪問して外務大臣に遺憾の意を表するとともに再発防止を約した。 1997年3月24日には鹿児島海上保安部(第十管区)に配属替えとなり、隼人に因んで「はやと」と改名した。2001年の九州南西海域工作船事件の際に派遣され、後方指揮を担い、停船後の強行臨検に備え、船内に特殊警備隊を待機させていた。なお平成24年度補正予算で延命・機能向上工事費が認められ、2013年から2014年にかけて工事を受けた。 その後、尖閣領海警備専従体制の構築に伴って、2014年6月30日には那覇海上保安部に配属替えとなり、沖縄の雅名に因んで「うるま」と改名した。
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船歴
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船はギリシャによる発注で住友重機械追浜造船所(現:横須賀製造所)で建造されたものの、ギア設計の問題とそれに伴う振動問題で受け取りを拒絶され、発注者と造船所との調停後、中国企業に売却された。その後未完成の船体は香港の海運王董浩雲の海運会社、東方海外貨櫃航運公司に売却された。日本鋼管津製作所で船体延長され、その積載量は増加し、かつて建造された最大の船となった。船は2年後に進水し、シーワイズ・ジャイアント (Seawise Giant) と命名された。これは所有者董浩雲 (Tung Chao Yung, C. Y. Tung) にあやかって命名されたものであった。董浩雲は船の建造で資金難となり、結局中国政府による支援を受けた。 就役後は中東とアメリカ間で運行されたが、まもなく海運不況により遊休化。イラン・イラク戦争間の1986年からイランに用船され、ホルムズ海峡のララク島泊地で輸出原油の積み替え・貯蔵母船として使用された。1988年5月にララク島泊地でイラク空軍機の攻撃を受け、対艦ミサイルのエグゾセが命中し沈没した(タンカー戦争)。ブルネイに回航されていた船体は1989年後半にノルウェーのKS-カンパニーによって購入され、シンガポールのケッペル造船所で修理を受けた。同時に、ハッピー・ジャイアント (Happy Giant) と改名された。修理が完了する前の1991年にKS-カンパニーはノルウェーのヨルゲン・ヤーレによって管理されることとなり、船は ヤーレ・ヴァイキング (Jahre Viking) と改名された。1990年代末にKS-カンパニーはフレッド・オルセンと彼の会社ファースト・オルセン・タンカーズによって買収された。 2004年3月に、船は新たなオーナーのフレッド・オルセン・プロダクションに移管され、ドバイの乾ドックに入った。そこで船名はノック・ネヴィスと改名された。ノック・ネヴィスはペルシャ湾のカタール・アル・シャヒーン油田で海上石油・ガス貯蔵設備として使用された。本船は1979年から2009年まで活躍した。
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「オハイオ (タンカー)」の記事における「船歴」の解説
第190番船の進水は悪天候のために当初の予定から1日遅れ、これは迷信深い溶接工や鋼板切断工といった作業員に不安を生んだ。しかし第190番船は彼らに見守られながら、翌日の1940年4月20日にペンシルバニア州チェスターのサン・シップビルディング&ドックヤードカンパニーで進水した。第190番船の進水は、テキサコ社長ウィリアム・スターリング・サリヴァント・ロジャースの母であるフロレンス・E・ロジャース夫人の手により行われた。彼女によってシャンパンのボトルが割られ、命名の言葉が告げられた。 本船を<オハイオ>と命名します。本船および本船と共に航海する人々に神のご加護のあらんことを。幸運を祈ります。 オハイオという名前を得た第190番船は第2滑走台を滑り降り、デラウエア川に進水した。就役後のオハイオは最初の数年間、取り立てて何も起こることなくテキサス州ポートアーサーやその他様々なアメリカの港を往復した。この間、オハイオはニュージャージー州ベイヨンからポート・アーサーへの航海で1,882マイル(3,029km)を4日間と12時間、平均17ノット以上で航行する記録を立てている。
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船歴
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「POSEIDON-1」の記事における「船歴」の解説
神例造船で建造され、2015年2月10日に進水、2015年6月30日に竣工。 竣工後は、海底地質調査を中心に運行されており、2017年2月には沖縄県のキャンプ・シュワブ沖(辺野古拡張工事)において海底ボーリング調査に従事している事が報道された。
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「コルス (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
同型船のエステレルとともにデュビジョン造船所で建造され、1983年6月にニース-コルシカ島航路に就航した。 1990年9月、彼は湾岸戦争の一環としてフランス兵をサウジアラビアに派遣しました。 2000年代初頭、彼は夏にマルセイユとアルジェリアの間で転勤しました。 2009年の夏から、彼はニースとコルシカ島の間に戻りました。2014年に廃止され、2年間使用されません。SNCM破産後、コルシカ・リネアに買収されず、イランの企業に売却される。 ギリシャで改装された後、GRAND FERRYに改名され、2018年にイランに向けて出発しました。しかし、彼は航海しません。
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「セーラム・エクスプレス」の記事における「船歴」の解説
フレッド・スカマローニは1964年にラ・セーヌ=シュル=メールのFCM造船所に建設された。それは1943年に亡くなったコルシカ島の抵抗の英雄であるフレッド・クレール・スカマローニの名前を冠しています。当初は1965年に就航する予定でしたが、火災によりもう1年間造船所に残ります。1966年にフランス本土とコルシカ島を結ぶカンパニー・ジェネラール・トランザトランティーク(CGT)路線でサービスが開始されました。1969年、彼は地中海のCGTトラフィックを扱う新しいエンティティであるCGTMに異動しました。1976年、彼はフランス本土とコルシカ島の間のリンクを改善するために設立された新しい公的会社であるSNCMに参加しました。より大きくより効率的な船に置き換えられ、彼女は1979年にサービスから撤退しました。 1980年にオラウ・ライン社に最初に販売され、1981年に会社が破産する前に、「ニュイ・サン・ジョルジュ」という名前でフランスとイギリスの間のローテーションを保証します。 エジプトで販売された後、サウジアラビアとのリンクに割り当てられ、「ロード・シナイ」、「アル・ターラ」、「セーラム・エクスプレス」の名前が付けられます。彼のキャリアは、1991年12月15日の嵐の最中に沈んだときに終わりました。難破船は現在、30メートルの水中にあります。それ以来、有名なスキューバダイビングサイトになりました。
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船歴
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元は清上海で万延元年(1860年)に竣工した木造外輪汽船でアメリカ汽船フィンセン、またはフイセン(Fei Seen)[要出典]。 慶応2年8月(1866年9月頃)に江戸幕府が長崎で(ボートウエンから75,000ドルで)購入し行速丸と命名された。 明治3年4月(1870年5月)に静岡藩から献納の伺いが出され、同年5月(新暦6月頃)に許可の返答があった。清水港にいた行速丸は6月25日(新暦7月23日)品海に到着、7月5日(新暦8月1日)に兵部省が受領、同省の所管となった。『海軍省報告書』では明治3年4月(1870年5月頃)に静岡藩から献上されたとしている。 9月8日(新暦10月2日)、行速丸は暴風雨に襲われ、錨を4つ入れ、機関を運転したが錨鎖が切れて第三台場の浅瀬に乗り上げた。乗員にケガは無かったが、端舟1隻が流失、右舷の部屋が5箇所破られて室内の品が流失、船体が一部損傷などの被害があった。引き下ろし作業は10月4日(新暦10月28日)から始められ、11月30日(1871年1月20日)午後3時50分に成功した。 翌明治4年5月の検査では破損や腐食の箇所があり、約8,000両で修理を加えても艦の寿命は後5年程度と見積もられた。同年7月22日(1871年9月6日)、東京丸購入費用(60,000円+飛龍丸飛隼丸行速丸の3隻で80,000円相当)の一部としてイギリス人(バッチャル)に交付された
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 04:29 UTC 版)
極地科学調査船「雪竜」は北極海仕様の多目的貨物船(プロジェクト10621)の一隻として1993年、ウクライナのヘルソン造船所で建造された。同年、初代の南極観測船「極地」の後継船を検討していた中華人民共和国により1750万ドルで購入され、上海の滬東中華造船で極地研究及び補給船へと改装された。 雪竜は1994年に初めて南極へ向け航海し、中国の第11次南極観測隊を運んで以降、継続的に南極観測隊の輸送に従事している。また新たな拠点の開設も雪竜の輸送力を活用して行われており、2005年には南極氷床の最高点ドームAに中国第3の南極観測拠点を設置するための予備調査に用いる雪上車を運んだほか、2008年にはドームAに崑崙基地を建設する第25次南極観測隊と資材を運搬した。さらに2013年には、中国第4の南極観測拠点である泰山基地(中国語版)の建設を任務とする第30次南極観測隊と資材を運搬している。 雪竜の活動領域には北極圏も含まれており、1999年に初めて調査航海を行って以降、2014年現在までに6回にわたって観測隊を北極海の観測拠点である黄河基地(中国語版)へ運んだ。このうち2010年の第4次北極航海では北緯88度26分まで北上し、中国の船舶としての新記録を達成し、2012年の第5次北極航海では、中国の船舶として初めて北東航路の通過に成功している。 2013年12月24日、ロシア連邦の耐氷貨物船アカデミック・ショカリスキーが南極海で氷から脱出できなくなり救難信号を発した際に、付近を航行中の雪竜は救助に向かった。翌年1月2日に搭載ヘリコプターを使用して乗船者52名を救出、オーストラリアの砕氷船オーロラ・オーストラリスへ移送した。その直後に雪竜も流氷に囲まれ動けなくなったが、1月7日に自力での脱出に成功した。 貨物船を改造した雪竜は極地での行動能力に限界があることから、中国は2011年より本格的な砕氷能力を持つ8000トン級砕氷船の新規建造計画に着手。雪竜2号が2018年9月10日に進水した。
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船歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 15:13 UTC 版)
1910年(明治43年)10月 - 漁船第二報效丸(だいにほうこうまる)を購入。 11月21日 - 東郷平八郎元帥が第二報效丸を開南丸と改名。18馬力の補助発動機を装備し、品川沖で試運転を行う。 11月29日 - 芝浦を出港し、南極へ向かう。 1912年(明治45年)1月16日 - 1年以上の航海の末、南極ロス海クジラ湾に到着。白瀬隊長率いる探検隊は1月20日に南極点に向け出発し、28日午後0時20分に、南緯80度05分、西経156度37分に到達した。 6月20日 - 全員無事に芝浦港に帰港した。 1913年(大正2年)10月9日 - 東京へ向けての航海中、三重県の菅島灯台の3マイル沖で暗礁に乗り上げて沈没。乗組員は救助された。
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「カップ・アルコナ (客船)」の記事における「船歴」の解説
27,500総トンのカップ・アルコナは、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるリューゲン島のアルコナ岬から命名され、1927年に進水した。当時、最も美しい船の一つとされていたカップ・アルコナは、ハンブルク・南アメリカライン(Hamburg Südamerikanische Dampfschifffahrts-Gesellschaft, ハンブルク・スッド、2017年にマースクラインにより買収)の船団の旗艦として、ハンブルク・ブエノスアイレス航路に就航し、上流階級の旅行者やsteerage-class(最下等船室)の移民を、主に南アメリカへ運んでいた。 1940年、カップ・アルコナはドイツ海軍に接収され、バルト海のゴーテンハーフェンの岸壁で宿泊艦として使用された。1942年、ナチス・ドイツ製作の映画『タイタニック』において、タイタニックの代役として使用された。1944年終わり、カップ・アルコナは東プロイセンからドイツ西部への避難民の輸送に使われた。
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船歴
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1885年10月8日に進水し、1886年6月19日にル・アーヴルからニューヨークまでの処女航海を行った。1886年には、「ラ・ブルゴーニュ」はル・アーヴル-ニューヨーク間の航路を7日余りで航行した。これにより同社はニューヨークの郵便事業で首位となり、大西洋横断記録を競うきっかけになった。1896年2月にはアメリカ海岸沖でアトラス汽船会社の蒸気船「アイルサ」 (Ailsa) と衝突し沈没させている。1897~1898年に4段膨張機関を装備しマストを2本に減らした。
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船歴
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「みらい (海洋地球研究船)」の記事における「船歴」の解説
1995年6月、「むつ」は青森県むつ市の関根浜港で陸揚げされて原子炉区画を撤去し、原子力船としての任を解かれた後、認可法人海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)に譲渡された。船体はバージに載せ海上輸送され、前部船体は「むつ」の建造造船所である石川島播磨重工業東京第一工場で、後部船体は三菱重工業下関造船所で約200億円の費用を掛けて改造され1996年7月に東京第一工場まで海上輸送され、前部船体と結合されて8月21日に27年ぶりの進水式が行われ、「みらい」と命名された。技術者の苦労は大変なもので、それぞれの会社の社外秘までも互いに公開し合って造り上げた。翌1997年4月より6次にわたる海上試運転が行われた後、9月29日に完成し、JAMSTECに引き渡された。 2003年から2004年には、JAMSTEC創立30周年記念事業として「BEAGLE2003」(Blue Earth Global Expedition 2003)が行われた。これは、南半球中緯度域で、大気圏・水圏・地圏の全領域にわたる多角的な海洋観測を行いつつ、約200日で太平洋・大西洋・インド洋を一気に横断するという、海洋観測史に残る大規模観測であり、世界の研究者を驚嘆させた。 2011年3月末、福島第一原子力発電所事故による海洋汚染を調べるため福島県沖に派遣され、海水を採取した。 2015年にJAMSTECが国立極地研究所、北海道大学などと始めた北極域研究推進プロジェクト(ArCS)に参加し、2016年以降、海氷が大幅に減る夏場に北極海へ調査航海を実施している。北極海入りは2018年までに16回を数え、その他の海域を含めて年間250~300日程度は航海を行っている。 文部科学省は本船の後継船として砕氷機能を有する北極観測船を建造する方針を表明、2018年度の概算要求に関連経費3億円が盛り込まれた。2018年度から5年間をかけて設計・建造が行われる予定で、後継船の就役後、本船は引退する方針で検討されている。
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船歴
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1941年(昭和16年)3月に米子造船所で進水した、総トン数383トンの小型貨客船である。船主は西日本汽船で、日本統治下の朝鮮の釜山港に船籍を置いていた。 太平洋戦争中も引き続き西日本汽船によって運航され、1943年(昭和18年)10月11日付で、民間船舶のまま乗員が海軍軍属待遇となる海軍指定船としての指定を受けた。戦争末期に「晃和丸」は、済州島と朝鮮半島本土の木浦港を結ぶ唯一の船便であったが、後述のとおり、1945年(昭和20年)5月7日にアメリカ軍機の空襲で撃沈された。
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船歴
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「やしま (巡視船・初代)」の記事における「船歴」の解説
設計・装備については「みずほ型巡視船 (初代)」を参照 1988年12月1日に竣工し、横浜海上保安部(第三管区)に配属された。その後、「あきつしま」の就役に伴い、2013年10月11日には福岡(第七管区)に配属替えとなった。 竣工翌年の1989年9月2日から11月11日にかけて、海上保安庁の巡視船として初の世界一周航海を行った。これはロンドンで催行される国際海事機関(IMO)創設30周年記念行事に参加するためのもので、往路でパナマ運河、復路でスエズ運河を経由した。イギリスでは、沿岸警備隊や王立救命艇協会との合同訓練を行ったが、これは英国放送協会(BBC)によって全英にテレビ放送された。その後テムズ川を遡行して「ベルファスト」に横づけ繋留したが、行事の会期中には、テムズ川上での日英合同パレードに同船搭載の警備救難艇とヘリコプターが参加したほか、一般公開にも多くの市民が訪れた。
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船歴
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「だいせん (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
2001年10月01日に竣工して、境海上保安部(第八管区)に配属された。船名は大山に由来する。その後、2008年3月30日には、同管区の舞鶴海上保安部に配属替えされた。
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船歴
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日本郵船は中古船が多数を占めていた貨物船隊の改善のために、1912年(明治45年/大正元年)から1913年(大正2年)にかけて、イギリスから貨物船を計4隻購入し、その運用実績を踏まえて7,500総トン、11ノット型の貨物船6隻の建造を決める。6隻のうち、「対馬丸」と「高田丸」はラッセル造船所で、「豊橋丸」と「徳山丸」は川崎造船所で建造された。そして「豊岡丸」とともに三菱長崎造船所で建造されたのが「富山丸」である。6隻は1915年(大正4年)中に完成して、第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などに就航して、連合国向けの軍需品や食糧輸送で成果を収めた。対馬丸、富山丸などの第一陣に続いて建造された6隻と合わせ、船名の頭文字がすべて「T」で始まることから、T型貨物船という通称で呼ばれる事となった。T型貨物船の成功により他社もT型貨物船の同型船を導入する事となり、日本における貨物船の国内建造の先駆として特記すべき存在となった。「富山丸」は、1924年(大正13年)から1930年(昭和5年)まではシアトル航路に就航し、1933年(昭和8年)からはボンベイ航路に転じた。 その頃、蘭印方面に航路を開設していた日本の船会社の一つに南洋郵船という会社があった。南洋郵船は神戸とスラバヤ間の命令航路を経営していたが、日本郵船や大阪商船などの大会社も蘭印方面に進出して激しい運賃競争が展開されていた。しかし、日本郵船、大阪商船、南洋郵船とオランダの船会社ジャワ・チャイナ・ジャパン・ライン(JCJL)の四社間で運賃に関するカルテルを締結して競争は一旦は収まった。昭和時代に入り、石原広一郎率いる石原産業海運も蘭印航路に進出して競争は再び激しくなり、一旦は石原産業海運をカルテル内に引き入れて競争の鎮静化を図ったが、石原産業海運が独断で新造船を建造するなど和を乱す行為がカルテルをゆるがせ、国際問題に発展してしまった。そこで、日本政府の斡旋により国策会社である南洋海運を設立し、日本郵船、大阪商船、南洋郵船および石原産業海運から航路と所有船を現物出資させて事態の沈静化を図った。「富山丸」は1935年(昭和10年)7月3日付で南洋海運に出資され、蘭印航路に就航した。しかし南洋海運に籍を置いた期間は短く、1936年(昭和11年)12月には小野商事に売却され、日本郵船の傭船によりボンベイ航路に復帰する。その後、1943年(昭和18年)8月には合併に伴い大洋興業に移籍した。 「富山丸」は1941年(昭和16年)9月以降、陸軍徴傭船として行動。ラモン湾上陸作戦を皮切りに昭南(シンガポール)やラバウルなど南方各地への輸送任務に服する。軍隊輸送船としては578坪にわたる兵員収容区画と軍馬300頭分の収容能力を持っていた。
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船歴
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1985年竣工10月 海中作業実験ニューシートピア計画実海域試験を実施 11月 相模湾にて日航ジャンボ機尾翼調査を実施 1987年12月 日仏共同STARMER計画で北フィジー海盆リフト系調査においてディープ・トウにより熱水活動を発見 1989年3月 ニューシートピア計画フェーズII 200m潜水実験を実施 1990年7月 ニューシートピア計画300m最終潜水実験を実施 1992年3月 高知県室戸沖にて「滋賀丸」を探索 1993年8月 北海道南西沖地震の震源域調査を実施 1997年6月 海上気象通報優良船として気象庁長官から表彰を受ける 1999年3-5月 MCSシステム搭載工事実施 1999年5-7月 「かいれい」とともに南海トラフにおいて巨大な海山を発見 2000年2-4月 「ハイパードルフィン」搭載工事実施 2002年2月 「ハイパードルフィン」陸揚(「なつしま」に艤装) 2008年2月 護衛艦「あたご」と漁船「清徳丸」衝突事故海域調査 2009年6月 深海において水平300kmの長距離音響通信に成功 2015年12月17日 運用停止。
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船歴
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武洲丸は、横浜市鶴見区の浅野造船所で建造され、1918年(大正7年)に進水した。武洲丸の同型船として勢洲丸、相洲丸、対洲丸の3隻が同所で建造されており、武洲丸型と総称されることもある。竣工時のトン数は1,219総トン。船尾に機関室、船体中央に船橋を置いた形式の小型貨物船である。小型船に珍しく吊上げ能力が大きなヘビーデリックを装備しているのが特色で、設備の不十分な港湾での荷役や重量物運搬に適した設計だった。本船の設計は、後に、東海道本線丹那トンネル用の25m軌条運搬を目的として浅野造船所が建造した長尺物運搬船八幡丸(日之出汽船、1,851総トン)型10隻の原型に流用されて好評を博し、小型化された豊国丸型4隻、拡大型の五十鈴丸型2隻、第二靑山丸型(D型平時標準船)47隻、1D型戦時標準船22隻、その他数隻に派生した。これら貨物船はまとめて日之出型貨物船と称された。 武洲丸は浦賀の株式会社佐藤商店が船主となり、初めは若葉丸と命名された。同型船3隻が浅野造船所のストックボートとなり、後に同じ浅野財閥系の日之出汽船へ引き取られたのと経緯が異なっている。その後、1926年(大正15年・昭和1年)に若葉丸も日之出汽船に取得され、翌年までに武洲丸と改名した。 太平洋戦争中も武洲丸は軍の徴用を受けず民需用の商船として運航されたが、開戦半年前の1941年(昭和16年)5月11日付で、民間商船のまま乗員は海軍軍属として扱われる海軍指定船に指定されている。開戦後に船舶運営会が創設されると、武洲丸も他の全て民需船と同様に国家徴用され、船舶運営会が運航実務者に選定した山下汽船を通じて管理されることになった。
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船歴
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「インガム (巡視船)」の記事における「船歴」の解説
1934年1月30日にアメリカ合衆国財務省によって結ばれた建造契約に基づき、インガムは1935年5月1日にフィラデルフィア海軍造船所で起工、1936年6月3日に姉妹船ウィリアム・J・デュアン(USCGC William J. Duane)とロジャー・B・トーニー(USCGC Taney)と共に進水した。インガムは同日キャサリン・インガム・ブラッシュ(Katherine Ingham Brush)によって当初の船名である「サミュエル・D・インガム」(USCGC Samual D. Ingham)と命名され、1936年9月12日に就役した。その後インガムは1937年5月に「インガム」(USCGC Ingham)に改名されている。
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船歴
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「パスカル・パオリ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説
船は2002年にオランダ王国で建造された。2003年5月からSNCMのためにマルセイユとコルシカ島の間で運営。2005年9月27日に、船はSNCMの民営化に抗議している船員組合に乗っ取られが、国家憲兵隊治安介入部隊の介入により回復された。船はSNCMの破産後、2016年にコルシカ・リネアに転勤した。
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船歴
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「マーキュリー (客船)」の記事における「船歴」の解説
1997年、パーペンブルクのマイヤー・ヴェルフトにてセンチュリー級(他にセンチュリー、ギャラクシー)の3番船として建造された。2008年、セレブリティ・マーキュリーに改名し、船籍をバハマのナッソーからマルタのバレッタへ変更した。 2010年、当時セレブリティ・クルーズの保有する船の中で最も旧式となっていたセレブリティ・マーキュリーは、セレブリティ・クルーズの親会社ロイヤル・カリビアン・インターナショナルとドイツのTUI AGの合弁企業TUIクルーズに移籍することになった。2011年2月をもってセレブリティ・クルーズでの運航が終了し、ロイド・ヴェルフトによってブレーマーハーフェンで3月14日から4月20日にかけて改装が行われた。マイン・シフ2と改名された本船は2011年5月14日に再就航した。
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