船歴とは? わかりやすく解説

船歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:48 UTC 版)

富士山丸 (飯野海運)」の記事における「船歴」の解説

富士山丸」は、このような紆余曲折経て昭和5年8月28日播磨造船所起工し昭和6年5月31日進水8月27日竣工した船体面の特徴として、これまで日本建造されタンカーは縦通隔壁1条しかなく、それがために縦方向強度が十分ではなかった。「富士山丸」では船体大きくなったためロイド・レジスター英語版)の監修得てこれを改善し、縦通隔壁2条渡しつつ横隔壁ジグザグ状に配して強度持たせた搭載するディーゼル機関マン社から購入したもので、積載量増加狙って1基だけ設置したバルブやフリューガス消火装置など各種備品当時最新式のものが導入され竣工後も期待そむかない成績挙げた富士山丸」は以降、「本邦油槽船規範」、「当時タンカー標準型」と目されるようになった。もっとも、飯野商事次に整備したタンカーである「東亜丸」(10,052トン)の建造川崎造船所発注され、「富士山丸」とは船型異なっており、「富士山丸」の同型船はなかった。 就役後、「富士山丸」は初航海海軍向けのオハ原油11,659トン積み取り徳山陸揚げした以降、徴傭されるまでの11年間に海軍向け、民間向け合わせて100航海もの石油輸送行い、その数量は1,128,852トン及んだ100航海のうち、海軍向けは63航海であった1941年昭和16年11月22日付で日本海軍に徴傭され、12月10日付で特設運送船(給油船)として入籍する12月2日から12月24日まで佐野安船渠特設運送船としての艤装工事が行われた。特設運送船となった富士山丸」は、同じく特設運送船(給油船)になっていた「東亜丸」や、特務艦隠戸とともに第六艦隊清水光美中将)に補給部隊として配属される1942年昭和17年2月10日以降南方作戦転用され、次いでアリューシャン方面の戦いに加わる。昭和17年7月5日アメリカ潜水艦グロウラー」 (USS Growler, SS-215) の雷撃大破した駆逐艦」の曳航行った8月下旬ソロモン方面転じ12月10日にはショートランド爆撃を受け、火災起こす1943年昭和18年以降燃料輸送のほか、クェゼリン環礁への陸兵輸送なども行った1944年昭和19年2月3日、「富士山丸」は特設運送船(給油船)「神国丸」(神戸桟橋10,020トン)、特設運送船天城山丸」(三井船舶、7,620トン)および護衛駆逐艦春雨」、「時雨とともに輸送船団構成しバリクパパン出港2月13日アメリカ潜水艦パーミット」 (USS Permit, SS-178) の攻撃を受けるが回避し2月14日トラック諸島到着する3日後の2月17日トラックアメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受ける(トラック島空襲)。「富士山丸」は荷役中だったが、ただちに抜錨してウエノ島(春島)とトノアス島夏島)間の海域抜けようとするが、続けさま直撃弾を受けて備砲吹き飛ぶなどの被害を受ける応急修理の末に航行再開し2月17日攻撃ではこれ以上被害はなかった。翌2月18日空襲繰り返され、「富士山丸」はこの日も航行して回避運動行ったが、機関室への直撃弾と至近弾で搭載爆雷爆発して火災発生徐々に沈下して左に倒れつつ、1100分に船体前部一部海面上に露出した状態で沈没した3月31日除籍および解傭。 時が流れた1976年、春島の東南水深40~60mの地点沈没している「富士山丸」が発見された。船体右舷傾斜しており、船尾直撃弾の痕があるが、それ以外原形とどめている。

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乾進丸 (1940年)」の記事における「船歴」の解説

乾汽船新造第5号船として播磨造船所発注され1940年3月14日播磨造船所相生工場建造番号298番船として起工8月3日進水10月16日同所竣工1941年2月9日海軍省により徴傭され、横須賀鎮守府所管となる。8月29日解傭1942年5月16日北方船団加入し駒橋護衛を受け室蘭へ向け湊発。 6月5日北方船団加入し澤風護衛を受け小樽へ向け東京湾発。21日北方船団加入し第18号掃海艇護衛を受け小樽へ向け東京湾発。 1943年2月12日東行8212船団加入し眞鶴護衛を受け横浜へ向け由良発。 7月7日名古屋在泊中に海軍省により徴傭され用途雑用横須賀鎮守府所管となる。8日四日市回航14日横須賀回航19日、3719船団加入しトラックへ向け横須賀発。29日トラック着。 8月6日、5063船団加入しクェゼリンへ向けトラック発、11日クェゼリン着。25日、6252船団加入しトラックへ向けクェゼリン発、31日トラック着。 9月8日、4908船団加入し横須賀へ向けトラック発、19日横須賀着。23日徳山へ向け横須賀発、26日徳山着。30日横須賀へ向け徳山発、10月3日横須賀着。 10月9日、3009乙船団加入しトラックへ向け横須賀発、22日トラック着。30日、5301船団加入しクェゼリンへ向けトラック発、11月3日クェゼリン着。 12月4日、6042船団加入しトラックへ向けクェゼリン発、9日トラック着。 1944年1月4日ラバウルへ向けトラック発、10日ラバウル着。ラバウル在泊中の17日アメリカ艦上機攻撃受けて被雷し、沈没した沈没の際、船員22名が犠牲となった

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虹橋船」の記事における「船歴」の解説

原名はヤコバ、1860年(万延元年)に清国ナンキューで建造され木造気船で、豊津藩輸送船だった。 明治2年12月26日(1870年1月27日)に豊津藩から献納願い出され、翌明治3年3月15日(新暦4月15日)付で許可6月22日(新暦7月20日)に兵部省受領した。また6月18日(新暦7月16日)、アメリカ人雇い虹橋船機関運転を習うことになった7月29日(新暦8月25日)に樺太開拓使用船黒田清隆らを護送して北海道へ向かったが、千葉県根津浦で座礁破壊された。当日は朝7時頃(または4時20分)に220人程を乗せて品海出港午後4時7分に上総国夷隅郡河津村根津浦(または花房藩配下川津村海岸字根中)沖の暗礁(根中の瀬)に乗り上げた船底に穴が開きデッキまでが来たため、6時頃に便乗者らは陸に避難した翌日積荷(米600石、味噌50、酒250、金1,000両など)の多く揚陸した。穴を帆布で塞ぐ作業試みたその後波浪による船体破壊進み最終的に放棄された。なお『海軍省報告書』では8月8日(新暦9月3日)に暗礁触れて破壊とされている。 坐礁原因使用した海図記載の無い暗礁に乗り上げたためで、船長処分無かった。また米国船が用船され、改め荷物運送することになった

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萬栄丸」の記事における「船歴」の解説

本船は、第一次戦時標準船1TM型26番船として、三菱重工業長崎造船所建造された。造船所番号第937番船1943年8月24日起工し1943年11月30日進水し命名1944年1月15日竣工した船名の「萬栄丸」は日東汽船所有船の「○栄丸」という命名慣例沿っている。竣工同時に民需用が建前船舶運営会使用船となり、軍の徴用受けないまま軍事輸送従事する海軍配当船に指定され佐世保鎮守府所管となった公試の後、1月31日長崎出港した萬栄丸佐世保下津経由して門司移動2月11日1600萬栄丸給油艦大瀬1TL型戦時標準タンカーの清洋丸(国洋汽船10,536トン)他輸送船4隻とともに43船団編成し海防艦対馬護衛門司出港船団基隆カムラン湾経由して3月3日1700昭南到着した同地石油積み込んだ萬栄丸15日1000特設運送船(給油船)の興川丸(川崎汽船10,043トン)、姉妹船の栄邦丸(飯野海運、5,068トン)他輸送船10とともに50船団編成し駆逐艦汐風、海防艦佐渡護衛昭南出港18日1600船団サンジャック到着し20日1500出港同日萬栄丸日本海軍徴用され、佐世保鎮守府所管特設運送船(給油船)となった24日1900船団マニラ到着し27日1400出港30日1000高雄到着4月1日1600出港2日1700馬公到着4日1600出港8日1010門司到着し船団解散した萬栄丸同日中に徳山移動して積荷下ろした15日萬栄丸徳山出港し16日門司到着20日0600、栄邦丸、興川丸、逓信省標準TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)他輸送船6隻と共に59船団編成し海防艦第10号第11号護衛門司出港28日船団高雄到着し29日出港途中マニラから差し向けられ海防艦倉橋第20号船団合流5月2日1200船団マニラ到着し解散した5日萬栄丸臨時編成され船団加わり駆逐艦朝風春風海防艦第10号第11号護衛マニラ出港7日船団ミリ行きバリクパパン行き分かれることになり、萬栄丸バリクパパン行き輸送船団(船団名なし)に加わり第10号海防艦護衛を受ける。10日船団バリクパパン到着した同地石油搭載した萬栄丸15日バリクパパン出港し18日タウイタウイ到着同地積荷下ろした20日萬栄丸給油艦鶴見、栄邦丸、姉妹船特設運送船(給油船)の雄鳳丸(飯野海運、5,227トンと共に船団編成駆逐艦秋月浦波海防艦満珠護衛タウイタウイ出港21日秋月船団から分離しタウイタウイ反転していった。同日船団タラカン到着6月10日雄鳳丸と船団組み海防艦干珠三宅護衛でカナンベナに移動11日船団はカナンベナを出港し12日バリクパパン到着同地石油搭載した萬栄丸雄鳳丸、栄邦丸、特設運送船香久丸大阪商船、6,806トン)と船団組み海防艦干珠三宅護衛バリクパパン出港ベラウ河口経由して19日タラカン到着した船団香久丸分離して出港。ツルサン水道経由して23日0800セブ島から出港してきた第15号掃海艇、第38号駆潜艇合流。2150、船団はギマラス湾に到着24日特設運送船(給油船)の日栄丸(日東汽船10,020トン)に横付けし、食糧補給を受けると同時に重油4,860トン日栄丸に積み替えた。26日萬栄丸雄鳳丸と船団編成し駆逐艦駆潜艇38号49号、58号の護衛でギマラス湾を出港27日サンボアンガ到着して38号駆潜艇分離28日サンボアンガ出港し30日タウイタウイ到着残り積荷下ろした7月1日萬栄丸鶴見、栄邦丸と船団編成し駆逐艦護衛出港。ツルサン水道経由して2日タラカン沖に到着同地分離し海軍徴用船鐡洋丸(大阪商船、2,130トン)を加える。3日ベラウ河口到着したが、鐡洋丸が座礁したため船団から分離自力離礁した鐡洋丸はタラカン向かった4日船団出港し5日バリクパパン到着し石油搭載した10日萬栄丸鶴見、栄邦丸、雄鳳丸と船団編成し海防艦干珠三宅駆潜艇38号49号、58号の護衛でバリクバパンを出港11日ベラウ河口到着し特設運送船(給油船)の第二丸(近海油槽船、856トン)、特設運送船安興号(拿捕船、2,906トン/元中国船安興)、1E型戦時標準貨物船辰松丸(辰馬汽船、829トン)が船団に加わる。12日ベラウ河口出港しタラカン、ツルサン水道タウイタウイ経由し15日ホロ到着同地第二丸、安興号、辰松丸、鶴見分離16日船団ホロ出港し、ザンボアンガ、カラバザス、サビヤン、ビラ経由して22日マニラ到着した26日萬栄丸雄鳳丸と船団編成し海防艦干珠三宅護衛マニラ出港座間味島経由して8月4日六連島到着萬栄丸は呉に移動して積荷下ろした後、整備を受ける。 整備完了後の21日萬栄丸は呉を出航し22日門司到着25日萬栄丸香久丸陸軍油槽船音羽山丸(三井船舶、9,204トン)、黒潮丸東和汽船10,518トン)他輸送船14隻でヒ73船団編成し航空母艦雲鷹練習巡洋艦香椎海防艦千振護衛艦5隻の護衛門司出港する。しかし、26日機関故障起こしたため船団から分離し佐世保到着修理を受ける。修理完了後門司へ移動し雄鳳丸、日栄丸、2TL型戦時標準タンカーせりあ丸三菱汽船10,238トン)他輸送船5隻でヒ75船団編成し空母神鷹駆逐艦夕月卯月護衛艦3隻の護衛門司出港12日特設巡洋艦西貢丸(大阪商船、5,350トン)と護衛夕月海防艦満珠が一旦分離13日1400船団高雄到着14日2TL型戦時標準タンカー富士山丸飯野海運10,238トン)、同大邦丸(飯野海運10,045トン)、黒潮丸水雷艇、第28号海防艦加入した他、西貢丸以下3隻も合流して出港その後2TL型戦時標準タンカーあまと丸(石原汽船10,238トン)、雄鳳丸が機関故障起こしたため分離16日2330、干珠機関故障起こしてせりあ丸衝突するも、損傷軽微済んだ17日1000西貢丸と護衛卯月夕月飛行艇母艦秋津洲分離18日1040、海防艦倉橋船団合流19日1500船団追及していたあまと丸が合流20日昼、黒潮丸大邦丸、日栄丸、神鷹機関故障や舵故障起きる。それでも、22日1300船団昭南到着した23日萬栄丸昭南出港し、ベルハラ水道ムシ河口経由して25日パレンバン到着した同地重油搭載した萬栄丸26日パレンバン出港しバンカ島ムントクに移動同地特設運送船(給油船)良栄丸日東汽船10,017トン)に横付けして重油積み替えた。27日萬栄丸はムントクを出港しムシ河口経由して29日パレンバン到着重油搭載した30日萬栄丸パレンバン出港しムシ河口移動海軍配当あやなみ丸(石原汽船、2,863トン)に横付けして重油一部積み替えた。10月2日ムシ河口出港し3日デンポウ泊地到着特設運送船(給油船)日邦丸(飯野海運10,536トン)に横付けして重油積み替えた。6日萬栄丸デンポウ泊地出港し7日パレンバン到着重油搭載した8日萬栄丸パレンバン出港し9日昭南到着して積荷降ろした12日昭南出港し13日パレンバン到着重油搭載した14日萬栄丸パレンバン出港し15日昭南到着18日レイテ沖海戦に向かう第二艦隊第一遊撃部隊随行するよう命令受けて同日昭南出港22日ブルネイ到着同地第一遊撃部隊帰還待った28日戦艦金剛以下第一遊撃部隊ブルネイ帰還萬栄丸金剛重巡洋艦羽黒特設運送船(給油船)の御室山丸(三井船舶、9,204トン)に重油補給積み替え行った31日0630、雄鳳丸、海軍配当船八鉱丸(日本油槽船10,023トン)、給糧艦早埼船団編成し駆逐艦時雨海防艦千振第19号海防艦、第34駆潜艇護衛ブルネイ出港し、1930にミリ到着。7,000トン重油搭載する11月6日萬栄丸駆逐艦時雨海防艦千振第19号護衛受けてミリ出港しマニラ向かった当時萬栄丸重油7,000トン搭載しており、9日マニラ到着して重油揚陸する予定だった。だがマニラ到着寸前8日0133、船団は米潜水艦グロウラー (USS Growler, SS-215)のレーダーにより発見される当時グロウラーレーダー不調に悩まされていた。グロウラーは米潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365)、ヘイク (USS Hake, SS-256)の2隻とともにウルフパック組んでおり、2隻に船団発見した報告し呼び寄せた。3隻は浮上したまま船団接近。0142にはハードヘッドレーダーも1隻の大型船と2隻の小型船探知したグロウラー船団左側から、ヘイクハードヘッド船団右側からと、船団はさみ込む形で攻撃行おうとした。0253、ハードヘッドグロウラーのいる位置思しき辺りから「恐らく雷撃のような音」や得体が知れない爆発音聴取また、船団コース変えたことを探知した。0257から0259にかけても爆発音3度聴取し、これ以降グロウラーとは音信不通となった。この攻撃で、時雨千振19号歴戦アメリカ潜水艦グロウラー撃沈した。0359、ハードヘッド艦尾発射管から魚雷を4本発射魚雷全て萬栄丸命中した大音響と共に大きな水柱火柱萬栄丸包み込み、それが消えた時にはすでに萬栄丸海上からその姿を消していた。当時の天候曇りで、さらに真夜中であったことから生存者の捜索ができず、萬栄丸では船長下船36全員乗船していた軍人全員戦死した萬栄丸沈没地点北緯13度30東経11925分 / 北緯13.500度 東経119.417度 / 13.500; 119.417のカラミアン諸島ブスアンガ島沖と記録された。萬栄丸轟沈したため海防艦2隻はミリ反転し時雨マニラ入港した1945年昭和20年1月10日除籍解傭

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きよたき (消防船・2代)」の記事における「船歴」の解説

2011年3月11日東北地方太平洋沖地震により発生したコスモ石油千葉製油所火災では、僚船の「おおたき」、海上保安庁の「あわなみ」「ひりゆう」、東京消防庁の「みやこどり」、千葉市消防局の「まつかぜ」、横浜市消防局の「まもり」の各船と連携して海上から警戒監視および冷却散水実施した

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つがる (巡視船・2代)」の記事における「船歴」の解説

設計・装備については「つがる型巡視船」を参照 1979年4月17日竣工し函館海上保安部第一管区)に配属された。その後平成25年度補正予算延命・機能向上工事費が認められ2015年9月から2016年2月28日にかけて、ジャパンマリンユナイテッド因島工場工事受けたその際に、主兵装であるボフォース 60口径40mm単装機銃エリコン 35mm単装機銃換装している。

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西京丸」の記事における「船歴」の解説

1888年6月ロンドングラスゴー造船所竣工 1888年8月日本到着上海航路就航 1894年8月日清戦争開戦により海軍徴用 1894年9月17日黄海海戦参加損傷を被る 1895年台湾平定参加 1895年10月29日北白川宮能久親王霊柩輸送 1903年4月23日上海航路から撤収 1904年海軍徴用病院船として活動 1913年ごろ:青島航路就航中 1921年5月7日栗林商船売却上海大連航路就航 1927年夏:大阪尻無川解体

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大坂丸」の記事における「船歴」の解説

元はイギリス・グラスゴーで1866年(慶応2年)に竣工したイギリス鉄製気船OSAKA明治2年(1869年から1870年)の箱館戦争では外国運送船オーサカがチャーターされ、青森から乙部まで上陸部隊輸送した明治2年8月24日(1869年9月29日)にイギリス人から豊津藩横浜購入、翌明治3年6月22日(1870年7月20日)に献納され、兵部省所管となり大坂丸命名された。

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虎丸」の記事における「船歴」の解説

虎丸」は、1908年明治41年9月に、大阪鉄工所で、スタンダード石油発注により建造された。石炭燃料レシプロエンジン動力とした船尾機関船体で、船体材質鋼鉄である。タンカーとしてはごく小型沿岸用で、総トン数531トンタンク容量400トンである。本船以前日本建造されタンカーとしては、1907年明治40年)または1908年新潟鐵工所が国油共同販売所日本石油宝田石油共同設立)向けに建造した「宝国丸」(94総トン)があるが、船体鋼鉄製でも推進方式スクーナー型の帆船であった。したがって本船が、機械動力付きのものとしては初の日本製鋼鉄タンカーということになる。 1915年大正4年)に、スタンダード石油から日本石油売却された。その後山陽燃料佐野安造船所船主転々と変え最終的に宇和島運輸取得した船主宇和島運輸となっている1939年昭和14年時点では、用途種別タンカーではなく貨物船となっており、登録総トン数531トンから500トン変わっている。 「虎丸」の最期は、太平洋戦争末期1945年昭和20年5月6日に、朝鮮半島木浦南西8海里(約15km付近洋上で、アメリカ海軍陸上航空機空襲受けて撃沈された。ただし、松井1995年)では喪失日が5月16日となっている。また、最終時船名を「第一虎丸」とする資料もある。

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光洋丸」の記事における「船歴」の解説

本船は、グラスゴーにあるバークレー・カール社(Barclay Curle & Co Ltd, en)の造船所で、造船所番号538番船として建造された。、1916年大正5年12月20日貨物船マスラ(Masula)として進水し12月20日竣工した12月24日イギリスのブリティッシュ・シッピング・コントローラー社(英語版)(British Shipping Controller)に引き渡され、ライムリーフ(Limeleaf)に改名した改名後第一次世界大戦での輸送任務従事大戦終結後1919年大正8年)、オランダITSM社(Insulinde Tank Stoomboot Mij.)に売却されカリフォルニア(California)に改名1924年大正13年)、イギリスのブリティッシュ・モラセス社(British Molasses Co. Ltd.)へ65,640ポンド売却され、アセルリル(Athelrill)に改名この際改装工事受けて糖蜜タンカーとなり、燃料石炭から重油切り替えている。元貨物船であるため、船尾機関主流タンカーの中で、珍しく中央機関部のある船型となった1925年大正14年)、ブリティッシュ・モラセス社はユナイテッド・モラセス社(United Molasses Co. Ltd.)と改名する1926年大正15年8月に、本船はユナイテッド・モラセス社から70万円売却され小倉石油岸本汽船共同所有となった光洋丸改名した本船は、石油タンカーとして使用されることになった第一回石油輸送任務として、アメリカ合衆国産の重油約8300トン横浜港へと運搬した1926年9月13日午後0時40分頃、第一回石油輸送終えた光洋丸は、横浜船渠艤装場に係留してタンク計測作業中、爆発事故起こした重油タンクのうち後部7番・8番タンク爆発があり、船体外板壊れ火災生じた本船には水蒸気タンク送りこんで酸素供給絶つ方式消火装置備わっていたが、爆発により破損して機能しなかった。消防隊左舷水線下に穴を開けてタンク注水消火しようとしたが、船体右舷傾斜したため穴が水面上に出てしまい、うまく注水できなかった。そのうち前部6番タンク爆発し石炭庫にまで延焼した同日午後11時半頃にほぼ鎮火した犠牲者数は、9月16日時点作業員12死亡・9人重傷17軽傷となっており、松井1995年によれば死者13とされる事故の原因については、荷揚げ後に空となった重油タンク日光により温度上昇し気化し重油自然発火したと推定された(事故直後会社見解)。この爆発事故は、日本起きたタンカー爆発事故として史上初の事例であった事故後、4ヶ月間の修理光洋丸復旧した修理中の1927年昭和2年)、日本タンカー移籍同年1月中旬から、光洋丸北米航路に再就航している。翌1928年昭和3年6月16日小倉石油移籍1934年昭和9年2月26日光洋丸第三小倉丸改称した1941年昭和16年6月1日合併に伴い日本石油移籍同年8月アメリカ対日石油禁輸により北米航路休止となる。 太平洋戦争開始後1942年昭和17年3月24日第三小倉丸日本海軍徴用を受け、横須賀海軍工廠艤装工事受けて横須賀鎮守府所管特設運送船(給油船)となり、横須賀鎮守府部隊配属された。改造後しばらくは内地間での石油輸送従事8月ショートランド進出燃料補給従事した後、呉に戻った以降南方方面での石油輸送従事する1943年昭和18年6月6日第三小倉丸特設運送船那智山丸(三井船舶、4,433トン)、応急タンカー北安丸(大連汽船、3,712トン)他輸送船7隻と共に269船団編成し特設砲艦華山丸(東亜海運、2,103トン)の護衛受けて高雄出港7日北緯2405東経12259分 / 北緯24.083度 東経122.983度 / 24.083; 122.983付近特設運送船辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)と衝突し中破したため基隆移動した17日第三小倉丸基隆出港し23日に呉に到着7月1日第三小倉丸は呉を出港し笠戸島移動8月6日笠戸島出港し徳山移動した10月18日陸軍輸送船マカッサ丸(南洋海運、4,014トン)、同ひまらや丸(大阪商船、5,229トン)、鶴見輸送船5隻と共に第2609船団編成し駆逐艦若竹第4号駆潜艇、第41号駆潜特務艇の護衛バリクパパン出港20日大丸(不詳)が機関故障起こして落し、第41号駆潜特務艇がこれに付き添ったものの、後に復帰21日1000大丸乾山丸(興国汽船、4,704トン)、第41号駆潜特務艇がメナドに向かうため分離1100貨客船營口丸(日本郵船、1,847トン)が機関故障起こして落し若竹がこれに付き添った。2隻は1230に船団合流した22日0830、特設運送船千光丸(日本郵船、4,472トン)がカウに向かうため分離。それからまもなく、マカッサ丸が機関故障おこして落し第4号駆潜艇がこれに付き添った10分後、2隻は船団合流したその後第4号駆潜艇船団から分離する25日2120、船団パラオ到着した11月5日第三小倉丸応急タンカー白馬山丸(三井船舶、6,641トン)と共に第8505船団編成し駆逐艦太刀風護衛パラオ出港船団11日トラック到着し第三小倉丸重巡洋艦筑摩重油1,127トン補給する24日第三小倉丸白馬山丸と共に第7242船団編成し、第28号駆潜艇護衛パラオ出港船団29日パラオ到着した12月13日0730、第三小倉丸白馬山丸特設運送船(給油船)富士山丸(飯野海運、9,527トン)他輸送船3隻と共に第2515船団編成し、第26号駆潜特務艇、第27号駆潜特務艇の護衛パラオ出港1000第2号哨戒艇船団に加わる。14日1615、第26号駆潜特務艇、第27号駆潜特務艇が船団から分離17日1700第6号駆潜艇船団に加わる。18日日付変わった直後北緯0315分 東経12703分 / 北緯3.250度 東経127.050度 / 3.250; 127.050付近で、第三小倉丸白馬山丸富士山丸輸送船1隻、第6号駆潜艇と共に船団から分離しタラカン向かった22日第三小倉丸富士山丸平時標準B型貨物船改装応急タンカー祐丸(松岡汽船、4,408トン)と共に船団編成し護衛受けずタラカン出港23日、マンカリハット付近第102号哨戒艇合流同日2000船団バリクパパン到着した26日第三小倉丸単独で第2614船団編成し第2号哨戒艇護衛バリクパパン出港27日0725、舵故障起こしたため、タンジョンパガー付近に投錨して応急修理行い、0940に応急修理終えて航行再開30日0740、北緯0518東経12703分 / 北緯5.300度 東経127.050度 / 5.300; 127.050付近特設運送船日本海丸(三井船舶、2,681トン)が船団合流31日1800、第33号駆潜艇船団合流1944年昭和19年1月1日、第2614船団はガタラク泊地到着同日第三小倉丸連合艦隊所属となる。2日船団はガタラク泊地出港しパラオ移動した3日第三小倉丸単独で第8031船団編成し、第24駆潜艇、第33号駆潜艇、第39号駆潜艇護衛パラオ出港し9日トラック到着1月中旬第三小倉丸共同企業移籍する共同企業石油輸入貯蔵配分目的として1941年昭和16年4月1日東亞石油協会東亞燃料工業および日本石油等の主要石会社出資により資本金1,000万円設立され国策会社で、戦局の悪化により昭和石油日本石油関東タンカー丸善石油の各石油会社所有タンカー集約して所有することに伴う移籍だった。19日第三小倉丸タンカー第2共栄丸(共栄タンカー、1,192トン)と共に第7202船団編成し駆逐艦浜波、第24駆潜艇、第30号駆潜艇、第33号駆潜艇、第39号駆潜艇護衛トラック出港26日船団パラオ到着した30日第三小倉丸は第2共栄と共に002船団編成し第36号哨戒艇第15号潜特務艇、第22号潜特務艇の護衛パラオ出港31日1405、第22号潜特務艇が船団から分離しパラオ反転2月2日1300第15号潜特務艇が船団から分離しダバオ向かった5日船団タラカン到着した8日第三小倉丸は第2共栄と共に船団編成し護衛受けずタラカン出港しバリクパパン移動17日第三小倉丸は第2共栄と共に船団編成し第5号駆潜艇特設砲艦北京丸(大連汽船、2,288トン)の護衛受けてバリクパパン出港しパラオ向かった23日朝、船団北緯0353東経12917分 / 北緯3.883度 東経129.283度 / 3.883; 129.283のハルマヘラ島北東沖でアメリカ潜水艦コッド(USS Cod, SS-224)に発見されるコッドは夜まで追跡の後、タンカー向けて魚雷を4本、護衛艦向けて魚雷を2本それぞれ発射魚雷第三小倉丸に2本命中し沈没した指揮官新美貴大佐以下乗18名が戦死した1944年昭和19年3月31日除籍解傭

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シリヤ・ヨーロッパ」の記事における「船歴」の解説

当初スウェーデンのRederi AB Slite(英語版)により、ヴァイキングラインのために「ヨーロッパ」としてマイヤー・ヴェルフト発注された。塗装終わり引き渡し控えた頃、スウェーデン・クローナ10%切り下げ実施されRederi AB Sliteの資金繰り困難に陥ったその結果、「ヨーロッパ」はオーナーフィンランドのFährschiff Europa KB変えヴァイキングラインライバルであったシリヤラインによって10年傭船されることになった1993年3月14日ヘルシンキ - ストックホルム間に就航翌年エストニア事故に際して最初に救難信号受け取った船の一つとなった1995年1月12日、「シリヤ・セレナーデ」に代わってトゥルク - マリエハムン - ストックホルム就航1999年7月1日には免税対象となるために寄港地にローングネースを追加した2001年冬季寄港地燃料高騰によりストックホルムからカペルシャー変更しこの年ストックホルム便は2月28日までと5月15日から8月31日運航となった同様の運航少なくとも2004年まで継続された。 2013年1月23日より、「バルティック・プリンセス」に代わってタリン - ヘルシンキ間に就航2014年8月オーストラリアのブリッジマン・サービスによって、チャーターされた。期間は14か月から4年となっている。

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ブレーメン (客船・3代)」の記事における「船歴」の解説

1930年代予告する革新的な船形デザイン評判高速性能誇ったドイツ豪華客船だった。処女航海では西航、東航ともに新記録を樹立姉妹船オイローパと共に長年にわたり保たれていたイギリス船の速度記録覆した1930年代では、国家間大きさ豪華さ重点をおいた客船建造競争があり、2隻を所有したドイツも、他国火花を散らしていた。姉妹船オイローパその後第二大戦賠償フランス譲渡リベルテ改名している。 1924年ニューヨーク航路就航したコルンブス(Columbus英語版)の好評判を受けてNDLは二隻の新造船を計画クルーズ航海可能な35千総トンサイズの船体念頭に進められ起工後ボイラーとその推進機関25,000馬力発揮するものに変更され5万総トン船体大型化されている。1927年6月18日デシマーク造船en)、ブレーメン・ヴェザー造船所起工ブレーメンとその姉妹船オイローパは、大西洋巡航速度27.5ノット5日横断できるように設計されていた。このことにより、通常3隻を交代させる必要がある大西洋横断閑散シーズンには2隻で毎週行うことが可能となったブレーメンテストの際、最高速度32ノット記録した運行計画の本来はブレーメンオイローパ同時に就航する予定であったが、オイローパ艤装作業中に火災発生鎮火放水したものが滞留してしまい船尾着底する沈没状態になり排水引き上げ修理時間かかったため、1929年7月16日ブレーメンブレーマーハーフェン - ニューヨーク間の処女航海単独行ったこの際ブレーメン4日17時42分、平均速度27.85ノットニューヨーク到着しモーリタニアから西回り航路ブルーリボン賞奪った。さらに次の航海では、4日14時30分、平均速度27.91ノット記録し東回り航路ブルーリボン賞受賞した。これによりブレーメンは、初め処女航海記録破った船舶となった。後に、ブレーメン記録1930年西回り航路姉妹船オイローパに、1935年東回り航路ノルマンディー破られた。 ブレーメンバルバス・バウ採用した最初大型客船だが、姉妹船オイローパ採用していない。建造際しドイツ最先端工業技術結集し内装デザイン備品ドイツ国内から広いコンペティション募集した竣工時にはカタパルト設置され1935年まで、ハインケルHe12で入港先立つ24時間前頃に郵便物積み込み先行輸送するサービス行っていた。 斬新な船形デザイン災いし、のちに煤煙対策煙突は6.4mかさ上げ延長された。 1933年1月ナチス政権握った際、ブレーメンニューヨーク港桟橋停泊しており、ナチズムファシズム批判する抗議活動使用された。7月、反ナチズム活動家グループ乗り込み船首マスト掲げられていたナチ党旗(ハーケンクロイツ旗)を引きずり下ろしハドソン川投げ込む事件発生した当時ナチス・ドイツでは、帝政時代と同じ三色旗暫定的な国旗とし、これと共にハーケンクロイツ旗を掲揚する定めていたが、ドイツ側からの抗議対しアメリカ政府は「棄てられたのは正式な国旗ではなくあくまでナチ党旗であり、国旗の名誉を汚したとは言えない」旨の返答したため、これを受けて総統アドルフ・ヒトラーは、1935年9月15日に「国旗法」を公布し三色旗廃止してハーケンクロイツ旗のみを国旗とすることを定めた1939年8月26日ドイツ海軍ポーランド侵攻事前準備としてすべてのドイツ商船即時ドイツの港へ向かうよう命じた。この命令受け取ったとき「ブレーメン」は西へ航海中でニューヨークまで2日の距離にあり、船長そのままニューヨークへ向かって1770名の乗客降ろすことにした。1939年8月30日に「ブレーメン」は乗客乗せずにニューヨークから出航9月1日、「ブレーメン」はソ連ムルマンスクへ向かうよう命じられた。その途中乗組員偽装のため船を灰色塗装した。「ブレーメン」は悪天候高速生かしてイギリス巡洋艦から逃れ9月6日ムルマンスク到着冬戦争勃発すると、「ブレーメン」は12月10日ブレーマーハーフェン向かい13日到着したその際イギリス潜水艦サーモン」に発見され誰何されたが、Do 18が「ブレーメン」を護衛していたため「サーモン」は安全のため潜航。「サーモン艦長相手合法的な目標ではないと思い攻撃行わないことにした。 ドイツ国防軍は、アシカ作戦向けてブレーメン徴用する計画であったが、中止となったため、艤装半ばのまま係船された。1941年造船所埠頭火災遭い全焼した調査によるとこの火災放火よるもので、レジスタンス破壊工作などではなく容疑者はキャビンボーイのある少年で、所有者待遇管理職上司対す個人的な恨みによる犯行で、当夜出火した時刻船長所用ブレーメンから外出していた。戦況から再生可能な備品機器撤去転用され、ブレーメンの船骸は敗戦後1946年解体された。解体工事では水底埋没した船底一部残された。

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乾安丸 (1942年)」の記事における「船歴」の解説

乾汽船新造第6号船として播磨造船所発注され1941年2月21日播磨造船所相生工場建造番号299番船として起工1942年3月30日進水5月30日同所竣工1942年12月4日西行56船団加入し澤風護衛を受け青島へ向け船形発。 1943年3月8日、2308船団加入し24掃海艇護衛を受け芝浦へ向け室蘭発。同船団7隻中の1番船指定され第一分隊配置同日、2308船団尻屋崎沖でアメリカ潜水艦パーミット攻撃受けて損害出したため、一旦八戸退避9日船団八戸出港12日船団名古屋行きの2隻を除き東京湾に入る。 6月18日八幡在泊中に海軍省により徴傭され、呉鎮守府所管となる。同日若松港回航19日、呉へ回航20日、呉で20cm砲ほか10門などウェーク島防御用の各種兵器弾薬軍用郵便物積載24日芝浦回航27日から30日にかけて芝浦兵器弾薬酒保物品自動車など積載便乗225乗船30日横須賀回航7月2日3702船団加入しトラックへ向け横須賀発。12日トラック着。トラック軍用郵便物積載15日、5152船団加入しクェゼリンへ向けトラック発。20日クェゼリン着。軍用郵便物揚陸23日、第33号駆潜艇護衛を受けウェーク島へ向けクェゼリン発。27日ウェーク島着。これまで積載あるいは乗船させた物品便乗者を全て降ろし軍用郵便積載便乗43乗船30日引き続き33号駆潜艇護衛を受けクェゼリンへ向けウェーク発。 8月3日クェゼリン着。軍用郵便揚陸便乗26乗船9日、6093船団加入し特設砲艦第二長安丸の護衛を受けトラックへ向けクェゼリン発。14日トラック着。軍用郵便揚陸便乗者5名退船。21日、4821船団加入し夕月、電の護衛を受け横須賀へ向けトラック発。29日横須賀着。これまで積載あるいは乗船させた軍用郵便便乗者を全て降ろす。9月9日にかけて兵器弾薬糧食酒保物品建築資材軍用郵便積載便乗者824名乗船9月9日サイパンへ向け横須賀発。16日サイパン着。積載物と便乗者を全て降ろし現地還納廃品マンガン鉱リン鉱石鉄木軍用郵便積載便乗424乗船30日サイパン入港してきた4926船団加入し横須賀へ向サイパン発。 10月6日横須賀着。積荷のうち天然資源以外のもの全て降ろす。9日横浜回航同日着。サイパン積載した天然資源揚陸12日佐世保回航16日佐世保着。兵器弾薬酒保物品電纜軍用郵便積載便乗690乗船22日108船団加入し松輪らの護衛を受け馬公へ向け佐世保発。本船同船団の第二分団配され第二分団本隊27日高雄着。本船28日馬公着。便乗者1名退船、同4名乗船31日334船団加入し特設砲艦北京丸の護衛を受けサンジャックへ向け高雄発。 11月6日サンジャック着。便乗29乗船8日523船団加入しセレターへ向けサンジャック発。11日、セレター着。積荷全て降ろし便乗729名退船。26日ビンタンへ向けセレター発。同日ビンタン着。ボーキサイト3,600トン積載27日シンガポールへ向けビンタン発。同日シンガポール着。便乗55乗船12月1日臨時編成され船団加入しマニラへ向けシンガポール発。9日マニラ着。便乗35乗船12日高雄へ向けマニラ発。15日高雄着。石炭郵便物積載便乗乗船20日内地へ向け高雄発。以後門司徳山若松、呉、横浜間の輸送従事1944年2月3日横浜着。ガソリンなど積載10日サイパンへ向け横浜発。19日サイパン着。ガソリンなど揚陸21日グアムへ向けサイパン発。同日グアム着。ガソリン石炭揚陸22日から29日まで、グアム-サイパン間のガソリン車両等の輸送従事29日サイパン着。 3月4日内地へ向けサイパン発。以後21日まで横須賀横浜木更津間の輸送従事21日木更津着。22日東松三号船団加入しパラオへ向け木更津発。30日発生したパラオ大空襲のため、パラオ行き船団は一旦サイパン退避その後出港しなおして4月14日パラオ着。以後パラオヤップサイパン間の輸送従事4月27日パラオ着。 4月28日サイパンへ向けパラオ発。5月3日サイパン島北西30km北緯15度20東経14534分 / 北緯15.333度 東経145.567度 / 15.333; 145.567の地点アメリカ潜水艦サンド・ランス攻撃受けて被雷し、沈没した沈没の際、船員10名と便乗39名が犠牲となった

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りすぼん丸」の記事における「船歴」の解説

りすぼん丸」は、「対馬丸」などと同じT型貨物船系列1万載貨重量トン大型貨物船として1919年大正8年)に横浜船渠起工された。T型貨物船系列のうち「りま丸」および「りおん丸」とともにL型貨物船とも呼ばれるグループ属する。 1920年大正9年)に竣工された後に、姉妹船とともにパナマ運河経由ニューヨーク行き定期線へ就航した日本郵船主力貨物船として活躍したが、1930年頃には大阪商船畿内丸型貨物船など競合各社の船に速力燃費で劣るようになり、1934年昭和9年)に就役したN型貨物船交代ニューヨーク航路去った以降ムンバイ航路ヨーロッパ航路運航された。 日本対米戦の準備着手すると、「りすぼん丸」も1941年昭和16年11月1日日本陸軍によって徴用され、船倉蚕棚呼ばれる兵員輸送用の多段式ベッド設置するなど軍隊輸送船として改装された。「りすぼん丸」は同年12月24日、同じT型の「龍野丸」、「豊橋丸」、「富山丸」を含む23隻の輸送船とともにフィリピンの戦いルソン島ラモン湾(英語版)への上陸戦参加したその後1942年昭和17年2月2日第21師団乗せて護送船団に8番船として加入し馬公からハイフォン向かおうとした際、出港直後日本海軍敷設した防潜網英語版)へ入りこみ付属機雷爆発して大破19人が死傷した馬公警備府曳航して応急修理の後、香港造船所9月18日まで本修理受けた復旧したりすぼん丸」は、9月27日香港にいた捕虜及び便乗日本兵乗せて日本本土へ出港したが、後述のように10月1日アメリカ潜水艦「グルーパー」の雷撃を受け、翌日沈没した

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晨風丸 (久留米藩)」の記事における「船歴」の解説

原名マルチインウアイト。元治元年(1864年)アメリカ・ボストンで建造され木造汽船慶応2年9月12日(1866年10月20日)に長崎でロビネットから53,000ドル購入した

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でりい丸」の記事における「船歴」の解説

でりい丸」は、大阪商船のバンコク・スラバヤ航路貨客船として、1922年大正11年)に大阪鉄工所因島工場進水した当初予定航路就航したが、1926年大正15年)に他社との競争敗れた大阪商船はバンコク・スラバヤ線から撤退する。そのため、1927年昭和2年)に大阪商船台湾総督府命令航路として運航中高雄港広東線へ配船替えとなった高雄広東航路では海賊襲撃複数回受け、「またもやられたでりい丸」と話題になった1937年昭和12年7月日中戦争勃発すると、「でりい丸」は日本海軍により徴用された。同年10月末に大阪商船から海軍へ引き渡され同年11月23日までの播磨造船所における工事特設砲艦として改装された。青島占領廈門攻略作戦1938年5月)、広東作戦1938年10月)などに参加し艦砲射撃海上封鎖従事した1939年昭和14年中に徴用解除となったでりい丸」は商用航海復帰1941年昭和16年8月には、南部仏印進駐で重要航路となったサイゴン・バンコクと日本を結ぶ線に就航している。 1941年後半日米関係極度悪化受けた開戦準備進み同年11月18日付けで「でりい丸」は再び日本海軍により徴用された。そして、太平洋戦争勃発直後同年12月10日付け特設砲艦籍へ編入武装搭載など所要改装施される馬公警備府配備されルソン島アパリ英語版)で拿捕されたアメリカ貨物船セタス」(Cetus)の回航や、陸軍部隊乗せた護送船団護衛など台湾周辺行動した1942年昭和17年4月10日新設第一海上護衛隊編入され船団護衛任務シンガポールまで行動するが、同年7月20日には横須賀鎮守府部隊異動となった横須賀鎮守府では日本近海船団護衛従事した1943年昭和18年12月からアメリカ海軍潜水艦による熊野灘遠州灘での通商破壊被害続出したのに対抗し日本海軍は、囮船を使って潜水艦誘い出し撃沈する作戦計画した。そして、「でりい丸」が囮船に選ばれた。「でりい丸」は、防水隔壁増設、敵魚雷食い止める網(英語版)、敵魚雷磁気信管誤作動させるための磁力発生装置搭載などの改装工事佐世保施された。大砲爆雷水中聴音機水中探信儀などの対潜兵装搭載されていたが、外見非武装商船見えるよう擬装された。 囮船に改装された「でりい丸」は、引き続き横須賀鎮守府部隊属して1944年昭和19年1月に囮船として初めての出撃をした。しかし、後述のように1月16日八丈島付近アメリカ潜水艦奇襲を受け、悪天候重なって沈没した

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第二号新興丸」の記事における「船歴」の解説

新興丸」は浦賀船渠441番船として1938年8月16日起工1938年11月29日進水1939年3月7日竣工した。「新京丸」を1番船とする浦賀船渠設計2000総トン貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部設計差異が多いうち、「瑞興丸」と本船回廊付き船橋有する完全な同型である。細部異な同系列船は22隻あるほか、逓信省定めた統一規格船(平時標準船C型基本的に設計で、こちらは41隻が建造された。船体中央機関部船橋を置き、その前後2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部区切られていない。「新興丸」の搭載主機当時一般的な三連レシプロエンジンではなく浦賀船渠開発した新型エンジン採用しており、低圧シリンダー蒸気タービン変更したタービン付複二連機関呼ばれる方式である。三連レシプロ新京丸と比べ200馬力以上も最高出力向上した搭載主缶石炭専焼缶を搭載した商船として竣工後、当初大阪商船所有船だったが、1939年8月12日東亜海運移籍する新船主の東亜海運は、1939年8月海運各社現物出資設立され国策企業であった日米関係悪化対米準備が始まると、1941年昭和16年9月5日付で新興丸は日本海軍徴用され、9月20日特設砲艦敷設艦類別された。このとき、同じ特設砲艦同名の「新興丸」(丸井汽船、934トン)がおり、区別のため海軍部内限りで「第二号新興丸」と改称した特設砲艦敷設艦標準武装12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真分析によると本艦改装完了時の兵装船首船尾中央構造物後端12cm単装砲各1基が設置されている。機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動軌条が2列敷かれ船尾楼貫通して船尾から突き出しそのまま海面連続投下可能となっている。後部船倉機雷庫となり、定数93機雷120個を搭載した。なお、新京丸型特設砲艦改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦本船を含む7隻が特設砲艦敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている。 「第二号新興丸」は大湊警備府部隊一時はその隷下千島方面特別根拠地隊属し大戦全期間わたって北海道樺太千島列島方面行動した船団護衛哨戒従事している。戦術の変化対応し対空兵器強化レーダー装備実施された(要目表参照)。1943年昭和18年8月8日樺太東方オホーツク海上北4650東経14440分 / 北緯46.833度 東経144.667度 / 46.833; 144.667でアメリカ海軍潜水艦サーモン」の雷撃を受けるが、被害免れた木俣1993年)は、1945年昭和20年6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機構築に「第二号新興丸」も参加したとしている。7月には空襲受けた青森市復旧救護のための物資食糧輸送行い終戦迎えた終戦時平時C型を含む新京丸型系列船計64隻のうち残存していたのは「第二号新興丸」と「国津丸」のみで、戦後浮揚された「金津丸」(平時C型)、「第十眞盛丸」(平時C型)を含めても4隻だけだった1945年8月11日樺太の戦い (1945年)始まった当時日本領だった南樺太には40万人上の民間人居住しており、樺太庁民間人本土輸送図った日本陸海軍輸送協力することとなり、「第二号新興丸」も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送命じられた。8月15日日本ポツダム宣言受諾発表後8月23日ソ連軍島外移動禁止発令するまで輸送継続され船団を組む余裕無く各個避難民収容して北海道へ脱出した。「第二号新興丸」も大泊民間人3600人を収容する8月20-21日の夜に単独出航、9ノット速力小樽港向かった8月22日午前5時過ぎ留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明艦船発見した直後魚雷攻撃を受け、回避試みた右舷2番船倉に1発が命中した。これは留萌沖偵察任務派遣されソ連潜水艦L-19」で、続けて浮上砲撃加えてきた。この時点日本海軍はすでに一切戦闘禁じていたが、「第二新興丸」は便乗民間人協力得て12cm砲と25mm機銃による応戦開始した。1発を相手潜水艦命中させたとの説もある。「第二号新興丸」は通報により飛来し日本軍水上偵察機1機に援護され留萌港逃げ込むことに成功した犠牲者数死者250人・行方不明100人とも、遺体確認きただけ298人とも言われる。なお、同様に小樽向かっていた「小笠原丸」と「泰東丸も本艦と前後して留萌沖ソ連潜水艦攻撃を受けいずれも撃沈されている(三船殉難事件)。 「第二号新興丸」は修理され第二復員省旧海軍省)の下で復員輸送艦として使用された。1946年昭和21年8月徴用解除となって民間船統制する船舶運営会引き渡され船名も元の「新興丸」に戻された。同年10月GHQ命令により船主東亜海運解散され閉鎖機関指定される樺太千島地区からの日本人引き揚げソ連によって許可されると、同年12月第1次引揚に「新興丸」も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日第3船として函館港帰還した1948年昭和23年10月10日船主関西汽船変更第二復員局にチャーターされて特別輸送艦となり、小樽樺太との間の復員輸送従事する1951年昭和26年1月20日関西汽船返還1956年昭和31年5月搭載主缶重油専燃缶に交換した1961年3月6日、「新興丸」は佐野商事売却され、「第二金丸」に船名変更する同年5月主機ディーゼル機関交換するなどの改装を受ける。1965年昭和40年4月30日、「第二金丸」は新興汽船売却された。1966年昭和41年1月26日、「第二金丸」はパナマのゴールデン・バッファロー海運売却されて「ゴールデン・バッファロー」と改名した1970年昭和45年)、「ゴールデン・バッファロー」はユエン・タ汽船売却され、「ユエン・タ」と改名した1972年昭和47年)「ユエン・タ」はチ・ファ海運。に売却され「チ・ファ」と改名した1973年昭和48年)、「チ・ファ」はリエン・シン・ナビゲーション・コーポレーションに売却され、「リエン・シン」に改名した1974年昭和49年)に撮影された「リエン・シン」の写真では、船橋周辺大幅に改装されていた。1975年昭和50年以降詳細な行動わかっていないが、昭和超えた1992年平成4年)に船籍抹消された。 第二次世界大戦参加した日本商船最後生き残りとしては、現存唯一の徴用船である「氷川丸」(日本郵船11,622トン)があるが、現役商船として使用されたのは本船と、逓信省平時E型標準貨物船の「久津丸」(大阪商船、838トン/パナマ船籍貨物船として1992年船籍抹消)が最後であった。なお、第二次世界大戦参加した大日本帝国海軍艦艇海軍艦船として使用されたのは「四阪」(中国人民解放軍海軍練習艦として1990年退役)が最後で、特務艦艇としては「宗谷」(現海上保安庁巡視船)が唯一健在である。

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拓洋 (測量船・2代)」の記事における「船歴」の解説

大陸棚限界調査は、本船就役あわせて昭和58年度より開始された。後には新造の「昭洋」も加わり1983年から2008年6月までの25年わたって調査実施され測量船航行した距離は108キロ地球27周分)に達した。この調査基づいた申請により、2012年4月には、約31万平キロメートルにおよぶ大陸棚延長承認された。 2014年6月には、「ごんどう」を用いた調査で、久米島西方30キロ国内最大海底熱水鉱床発見され同機の名前をとって「ごんどうサイト」と命名された。 2016年7月22日夕方測量調査中に「ごんどう1」が拓洋左舷スクリュー接触し全損した。拓洋左舷スクリューの異常で右舷スクリューのみで東京港帰投した。

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むつ (原子力船)」の記事における「船歴」の解説

1969年6月12日 石川島播磨重工業東京第2工場にて進水式郵政省が「原子力船進水記念」の記念切手発行1970年7月 船体工事完了、定係港の大湊港青森県むつ市)へ補助機関のみでの回航1971年11月 原子炉艤装工事完了1972年8月 日本原子力船開発事業団へ引き渡し1974年8月26日 漁船団の包囲網の、台風14号によるスキ突いて大湊出港予定25日であった)。 8月28日 原子炉が初臨界達する。 9月1日 遮蔽リング設計ミスにより、北太平洋航行中放射線高速中性子漏れ観測試験中止9月5日 陸奥湾漁民ら、帰港反対決議。「むつ」の"漂流"が始まる。 10月14日 自由民主党総務会長、青森県知事むつ市長、県漁連会長の4者が合意調印2年以内母港撤去半年以内に新母港決定地元対策12億円)。 10月15日 帰港原子炉封印係留1976年2月7日 長崎県佐世保市修理受入要請1977年2月27日 佐世保市受入賛否両派が集会反対派デモ右翼突入4月30日 長崎県議会核燃料抜きで佐世保修理受入議決1978年5月13日 政府長崎県佐世保市封印修理寄港要請5月26日 「むつ念書取り決め7月21日 長崎県佐世保市修理受入協定調印10月16日 佐世保入港1982年にかけて改修工事1979年7月9日 改修のため佐世保重工業ドック入り1980年8月14日 大湊の再母港化を要請1981年5月24日 政府地元関係者五者会談母港むつ市関根浜に建設合意9月29日 むつ市大湊母港拒否1982年9月6日 むつ市大湊港に再入港1984年1月17日 自民党科学技術部会廃船決定発表1988年1月26日 大湊港出港1月27日母港関根浜港入港8月4日 関根浜港原子炉容器開放点検始まる。 1989年10月30日 開放点検終了1990年3月6日 起動試験終了7月 原子力航行を行う。 1991年2月12月 実験航海、82000km(地球2周以上)を原子力航行1992年 原子炉停止1993年3月 原子炉解体撤去し、海洋地球研究船への改装工事着手1996年8月21日 海洋地球研究船「みらい」として就航

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りま丸」の記事における「船歴」の解説

りま丸」は、「対馬丸」などと同じT型貨物船系列1万載貨重量トン大型貨物船として1919年大正8年)に横浜船渠起工された。T型貨物船系列のうち「りすぼん丸」および「りおん丸」とともにL型貨物船とも呼ばれるグループ属する。1920年大正9年)に竣工後、ヨーロッパ航路向けの日本郵船主力貨物船として活躍したその間1923年大正12年)に関東大震災発生した際には横浜船渠整備中で、崩れた石材激突により破損して機械室浸水する被害受けた日中戦争が始まると、「りま丸」は日本陸軍によって1937年昭和12年9月1日-1938年昭和13年3月30日1938年6月24日-1939年昭和14年1月16日2度わたって軍隊輸送船として徴用された。1941年昭和16年)には日米関係緊迫する中で米国ロサンゼルスへ航空用ガソリン積み取り行き当時日本領だった台湾高雄港運んでいる。 日本対米戦の準備着手すると、既に船齢20年超と老朽船の部類入っていた本船1941年9月13日に再び日本陸軍によって徴用された。太平洋戦争開戦後、「りま丸」は同年12月22日に同じT型の「但馬丸」「対馬丸」などを含む総数84隻の護送船団の第2船隊第8分隊属して野砲部隊搭載フィリピンの戦いルソン島リンガエン湾の上陸戦参加した1942年昭和17年)の蘭印作戦では、香港の戦い終えた陸軍部隊収容してスマトラ島パレンバン上陸させた。ビルマの戦いにも参加してラングーンまで進出帰途にはマレーの戦い大破した貨物船阿蘇山丸」(三井船舶:8811総トン)をパタニから香港まで曳航している。同年11月12-29日には、門司からラバウルまで貨物船富浦丸」(日本郵船:3821総トン)と船団組み工兵部隊陸軍将兵1234人・馬118頭を無事に輸送した1943年昭和18年)はマニラ拠点として主にフィリピン方面行動した同年3月16日4月6日に敵潜水艦遭遇する自衛火砲砲撃するなどして難を逃れ陸軍から表彰された。 本船最後の航海は、1944年昭和17年2月7日出航サンフェルナンドへの輸送任務であった船内には独立混成19旅団航空部隊等の輸送人員3241人が乗船し徴用船85人と自衛武装操作する船砲隊12人が運航担当した兵器弾薬なども約4000トン積載されていた。門司発・基隆港行きモタ02船団輸送船14隻・護衛艦2隻)へ加入し船団基準船として先頭中央位置したりま丸」は、門司出港翌日2月8日午後10時40分頃、五島列島東南沖の東シナ海上を9ノット低速之字運動G法を実施しつつ航行中アメリカ潜水艦スヌーク」の魚雷攻撃受けた右舷2番船倉機関室付近船尾に計3本魚雷命中したりま丸」は、10時45分または54分に北緯3105東経12737分 / 北緯31.083度 東経127.617度 / 31.083; 127.617の地点沈没した。このとき貨物船白根山丸」(三井船舶:4739総トン)も雷撃受けて大破している。水雷艇」と第38号哨戒艇および「第五共栄丸」が「りま丸乗船者救助あたったが、輸送兵員2700人・船砲隊9人・船員56人の計2765人が戦死した日本輸送船として当時史上最悪人的被害出した事例であり、大内2010年)によると終戦までの全期間でも日本輸送船のうちで7番目に多い。船倉内に多数兵員押し込められていたため短時間脱出困難だったことや船倉直撃受けたことが犠牲者数大きくした。生存者収容した護衛艦艇は「白根山丸」とともに佐世保港帰投した。なお、モタ02船団一時鹿児島湾退避した後、2月16日台湾基隆到着した第38号哨戒艇爆雷による反撃効果確実と報じたが、実際には「スヌーク」は健在であった沈没した推定される海域では、九州工業大学特別教授浦環による海底調査2018年8月行われたが、船体発見されなかった。一部犠牲者遺体は、東へ300km以上離れた馬毛島鹿児島県西之表市)に漂着し島民により仮埋葬された。厚生労働省による遺骨調査2018年10月末~11月初に予定されている。

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阿里山丸」の記事における「船歴」の解説

阿里山丸は、第二次戦時標準船2A型(改A型)の14番船として玉造船所(現:三井E&S造船玉野工場)で建造された。形式的な発注者戦時統制団体産業設備営団であるが、実質的な船主三井船舶である。船名はおそらく台湾嘉義県にある阿里山由来するが、言及文献発見できない。なお、三井船舶所有船の「○山丸」という命名慣例沿っている。2A型第二次戦時標準船代表格というべき大型貨物船である。建造容易にするためブロック工法適した直線的な外観設計され二重底廃止スクリュー軸の短い船尾機関式の採用など性能低下忍んだ徹底的な簡易設計特徴がある。2A型搭載機関は船によって多様であるところ、本船艦本式タービン25型1基を積み最高速13ノットだった。自衛武装として、短二十糎砲1門と爆雷4発を装備している。 1944年昭和19年6月22日竣工した阿里山丸民需用が建前船舶運営会使用となった軍の徴用受けないまま軍事輸送従事する陸軍配当船としても行動している。最初の航海は、樺太小沢炭鉱産の石炭輸送で、6月29日門司出港した7月5日に北小沢到着して石炭積み取り船川港経て伏木港荷を下ろしている。門司戻った後、沖縄本島への部隊・兵器の輸送充てられ、8月1日出航8月6日鹿児島港護送船団カタ626船団輸送船15隻・護衛艦12隻)へ加入し9日那覇港到着帰路ドラム缶人員積んで、やはり鹿児島経由8月28日門司戻った当時日本軍フィリピン方面防備強化急務となっており、阿里山丸フィリピンへの軍事輸送投入されることとなった阿里山丸は、8月30日から9月2日釜山港フィリピンへ向かう増援部隊乗船させた。門司ミ船団一つであるミ19船団輸送船18隻・護衛艦6隻)に加入し9月9日経由地高雄港向けて出航する。翌10日逓信省標準B型貨物船改装応急タンカー千早丸(日本郵船、4,701総トン)がアメリカ潜水艦サンフィッシュ魚雷により撃沈されたため、本船は他の船とともに珍島沖へ一時退避した後、18日高雄到着した。ここでミ19船団分かれて9月26日出港ルソン島北岸アパリ英語版)とサンフェルナンド経由して10月4日マニラ到着した揚陸終えた阿里山丸は、日本への帰路では、乗船沈められ滞留中の日本船員204人とアメリカ兵捕虜1781人などを輸送することになった日本軍は、アメリカ軍の上陸備えフィリピン所在捕虜日本本土移送活発化させていた。カバナトゥアン(英語版捕虜収容所などから9月下旬に旧ビリビッド刑務所集められていた捕虜が、護送40とともに阿里山丸乗船した捕虜の乗船時期は、ウィリアム・ボーエンの調査によると、10月10日以前である。しかし、『徴傭船行動概見表』に捕虜輸送として記載されているのは10月20日以降航海だけである。レイテ島の戦い関連したアメリカ軍機動部隊マニラ空襲避けるため、阿里山丸10月10日マニラ出港してパラワン島バキット湾へ18日まで退避した19日マニラ戻った阿里山丸物資補充後、マタ30船団春風船団)へ加入して10月20日出航した。だが高雄へ向かう途中次に述べ通り竣工からわずか4カ月余り10月24日撃沈された。

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初加勢」の記事における「船歴」の解説

長崎三菱造船所1901年明治34年5月起工翌年10月4日進水同月25日竣工翌月宮内省から海軍移管雑役船初加勢」とされた。 1905年明治38年)の観艦式には皇室ヨットとして使用された。 1921年大正10年)からは高松宮海軍兵学校使用した1945年昭和20年)の敗戦により米軍接収し、「ドロシー」と改名された。1949年昭和24年)に日本返還され志摩航運に売却。「初風」と改名され観光船となった。この時、機関蒸気機関からディーゼル換装している。1950年昭和25年3月18日鳥羽沿岸座礁し船体放棄された。

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宮古丸」の記事における「船歴」の解説

宮古丸」は、大阪商船が、造船奨励法適用受けて那覇丸」「八重山丸」の同型船2隻とともに竣工させた小型貨客船である。建造所姉妹船3隻で異なっており、本船大阪鉄工所桜島工場1914年7月18日進水して宮古丸」と命名されたのに対し、「那覇丸」は藤永田造船所、「八重山丸」は神戸三菱造船所建造された。船名宮古島などいずれも沖縄地名由来するが、沖縄航路専用船として設計されたわけではなく、主に大阪港鹿児島港間の定期航路用として建造された船であった竣工した宮古丸」は、大阪から神戸港経由して鹿児島至り、さらに奄美大島名瀬港経て沖縄本島那覇港までも足を延ばす航路就航したその後先島諸島方面にも就航したが、1919年大正8年)に沖縄県要望応えて従来は「大義丸」(1492総トン)1隻だけであった大阪商船鹿児島那覇間の定期航路増強投入された。1921年大正10年12月9日には、航海途中で諏訪之瀬島噴火目撃し観察記録残している。1922年大正11年)に「宮古丸」は鹿児島基隆港間の定期航路移され、さらに1932年昭和7年)には台湾東岸航路移っていたが、1937年昭和12年)に鹿児島名瀬那覇間の定期航路戻された。また、1924年10月31日には西表島北北東海底火山噴火初め観測している[要出典]。 1941年昭和16年)の太平洋戦争勃発後も、「宮古丸」は基本的に鹿児島名瀬那覇を結ぶ定期民間船として運航された。船舶運営会設置後は、その使用船の形式となっている。1941年から南西諸島へ送る部隊補給物資などの軍事輸送にも使用され1942年昭和17年)には陸軍による徴用検討されたが、徴用避けて運送契約による方式が採られた。アメリカ潜水艦による通商破壊沖縄方面でも行われたため、護送船団組み込んで運航行われた1944年昭和19年7月3日には、タカ604船団輸送船9隻・護衛艦10隻)に加入して鹿児島へ向かう途中同行貨物船大倫丸」(大阪商船:6862総トン)がアメリカ潜水艦スタージョン」に撃沈されるなど安全な航路ではなかった。 1944年8月5日、「宮古丸」は、後述のように小型艇3隻に護衛され沖縄本島へ向かう途中アメリカ潜水艦バーベル」の雷撃受けて沈没した

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ポーラーシュテルン」の記事における「船歴」の解説

1982年最初南極航海行い研究者とともに基地設営資材雪上車輸送したその後例年11月から翌年3月ごろにかけては南極航海しドイツ南極観測拠点であるノイマイヤー基地などへの補給と、南極圏科学研究従事している。 1990年東西ドイツ統一に際しては、東ドイツ南極観測拠点であるゲオルク・フォルスター基地観測要員収容して統一されドイツ迎え入れた1991年スウェーデン砕氷船オーデンとともに北極調査航海実施し9月7日北極点到達した非核動力船舶北極点達したのはこれが史上であった北極点へはその後2001年にもアメリカ砕氷船ヒーリーと共に到達。さらに2011年には単独北極点達し、氷の厚さ変化などを調査した1995年には、南極ベリングスハウゼン海において知られていた海底地質の異常を調査し215万年前に起きた直径1~4km小惑星衝突跡であることを明らかにした(エルタニン衝突)。 2000年11月には南極HNLC海域において散布実験EisenExを実施し投入することで植物プランクトン大幅に増殖させ得るという仮説の裏付け得たその後2004年2009年にも同様の実験行い海洋二酸化炭素吸収促進させる観点から研究行っている 。 2008年世界気象機関(WMO)による国際極年共同観測事業には12ヵ国47名の科学者乗船させて参加北極周回する10.800海里レイキャビクブレーマーハーフェン)を航海し多岐に渡る北極海データ収集した。この航海によってポーラーシュテルン北東航路北西航路をいちどに通過した初めての調査船となった。 現在、ポーラーシュテルンは既に船齢30年越えているため、新し砕氷船建造検討されている。

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昭洋 (測量船・2代)」の記事における「船歴」の解説

1998年平成10年)に退役した同名船の代船として、同年3月20日三井造船玉野事業所竣工した上記通り技術的に見るべき点が多く竣工同年の「シップ・オブ・ザ・イヤー98」を受賞した就役直後1998年9月には、「マンボウII」の初仕事として明神礁調査が行われた。同地は、1952年9月噴火調査のために派遣され海上保安庁測量船第五海洋丸」が噴火巻き込まれ遭難乗員調査団31全員殉職した因縁の地であり、「マンボウII」の調査によって詳細な海底地形図作成された。 この調査は、文部省測地学審議会建議受けて行われる海域火山基礎情報調査」の初の例であり、その後各所海底火山調査が行われていた。そして2015年6月行われた10回目海域火山基礎情報調査では、本船により、2013年より断続的に噴火再開した西之島調査が行われた。特に「マンボウII」は、その特性いかして半径4キロメートル噴火警戒範囲にまで進入してマルチビーム測深機による海底調査行った。これは噴火後初の海底調査であり、噴出物体積地下構造など、従来行われてきた航空観測では得られない有力な情報多く観測された。

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オーデン (砕氷船・2代)」の記事における「船歴」の解説

1991年ドイツ砕氷船ポーラーシュテルンと共に北極調査航海実施し同年9月7日非核動力船舶として初め北極点到達した2004年には統合国際深海掘削計画(IODP)による史上初の北極深海掘削調査プログラムACEXに参加ロシア原子力砕氷船ソビエツキー・ソユーズ連携してロモノソフ海嶺から海底堆積物コア採取するノルウェー掘削調査船ビダール・ビキングの周囲周回して砕氷し、その掘削作業サポートした2006年から2010年にかけてはアメリカ国立科学財団との契約によって南極遠征しマクマード基地への航路啓開従事する同時にアメリカ側共同南極研究調査行っている。

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ゾンネ (調査船)」の記事における「船歴」の解説

ゾンネは1977年から2014年までの間に300回以上の科学調査航海行い海洋学生物学から資源探査まで幅広い分野にわたる研究プラットフォームとなった2012年3月から約1か月をかけ、ブレーメン大学海洋研究開発機構など日独共同チームによって、東日本大震災震源である三陸沖海底調査が行われた。この調査ドイツ連邦教育・研究省およびドイツ研究振興協会 (DFG) の資金提供を受け、無人潜水機投入した音響探査地質サンプル取得海底地震計設置などが実施された。 2013年4月から台湾大学などと協力し台湾南西海域にてメタンハイドレート探査行った調査航海終了後一部設備台湾調査船海研5号」に提供している。 2014年には新たな海洋調査船である2代目ゾンネが竣工し初代ゾンネは同年8月インド洋行った海底地質調査最後の航海として、ドイツ海洋調査船としての役割終えたその後2015年アルゼンチン国立科学技術研究評議会 (CONICET) によって購入され初代ゾンネは船名オーストラル (ARA Austral) と改めアルゼンチン海軍水路調査部門に所属する調査船として新し任務に就くこととなった

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ざおう (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1983年3月19日竣工し塩釜海上保安部現在の宮城海上保安部; 第二管区)に配属された。大型巡視船船名は、本来なら海峡島嶼由来することになっているが、塩釜海上保安部付近に金華山海峡以外に海峡島嶼無く、仮に「きんかさん」または「きんか」と命名しても「金隠し」などと揶揄される可能性があった。このため巡視船命名基準としては本来なら小型巡視船用いられる山の名前ではあるが、蔵王連峰因んで「ざおう」と名づけられた。 2011年の東日本大震災の際には、地震発生から津波到達まで猶予がなかったことから出港できず、停泊状態で津波受けたために係留索が切断し漂流態となったが、船内にいた一部乗組員によって錨を投入し座礁免れた平成30年度予算延命・機能向上工事費が認められ2019年8月にかけて工事受けた改修費は約32億円であった

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アセニア (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説

アセニアはアンカー・ライン社(英語版)とドナルドソン・ライン社の合弁会社であるアンカー・ドナルドソン・ライン社にて運用するために建造された。フェアフィールド姉妹船英語版)としてレティシア英語版)を建造し1924年10月進水し1925年竣工させている。アセニアレティシアはドナルドソン・ライン社で運航され旅客船では最大であった。これらの船は、夏はリバプールグラスゴーケベックモントリオール、冬はハリファックスを結ぶ大西洋で運航された。 1928年ハリファックスピア21遠洋定期船ターミナル建設された後、アセニアハリファックスへより頻繁に運航されるようになり、入港した回数100度を超えた1935年にアンカー・ライン社は売却されドナルドソン社がその資産のほとんどを購入した1936年ドナルドソン社はドナルドソン・アトランティック・ライン社として再構成された。

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開運丸」の記事における「船歴」の解説

明治元年1868年)の戊辰戦争捕獲し鹿児島藩移管され、後に返納され軍務官所管となった明治2年1869年10月23日再度鹿児島藩移管された。 その他の詳細不明

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えちご (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1990年2月28日竣工し新潟海上保安部第九管区)に配属された。船名越後国由来する

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せっつ (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1984年9月27日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。船名摂津国由来するその後1986年3月3日には神戸海上保安部第五管区)に配属替えとなった2009年7月3日和歌山県白浜町南西29キロ紀伊水道で、神戸海上保安部所属巡視船「せっつ」が前部甲板にある35ミリ機関砲射撃訓練行ったところ、衝撃砲身吹き飛んで海中落下した乗組員40人にけがはなかった。神戸海上保安部発表によると、「せっつ」は20ミリ機関砲訓練終え35ミリ機関砲右舷に向け1発発射した直後砲身外れたという。砲身は、ねじって砲にはめ込む仕組みになっており、常時取り付けられている。訓練前の点検でも異状はなかったという。 その後2019年より延命・機能向上工事入り2020年10月1日完工任務復帰している。

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すまとら丸」の記事における「船歴」の解説

1917年大正6年8月18日川崎重工業神戸造船所の第404番船として起工した船名第十六大福丸であった1917年11月27日進水12月22日大阪商船(現・商船三井)が第十六大福丸購入しすまとら丸改名1917年12月25日竣工した建造日数130であった船名の由来スマトラ島から。 竣工後は第一次世界大戦により増大した船舶輸送需要対応し航海行った大戦終結後1920年大正7年)にはへいぐ丸(5,824トン)、ほのるる丸(5,751トン)、あむうる丸(7,770トン)、あまぞん丸(7,770トン)、あるたい丸(7,772トン)、あらすか丸(7,379トンと共にシンガポールから上海門司神戸横浜バルボアパナマ運河経由してニューヨークとの間を結ぶニューヨーク線に就航した1926年大正15年3月31日セイロン島停泊中に火災事故起こして損傷している。1930年昭和5年)には東航北米航路開設され畿内丸型貨物船就航したあおりをうけ、あらすか丸が1933年昭和8年)にアフリカ航路へ転配され1934年昭和9年)にほのるる丸が日本合同工船へ、あむうる丸が山下汽船(現・商船三井)の大華丸(2,196トン)、中華丸(2,188トン)と交換する形でそれぞれ売却され購入した華丸中華丸は台湾方面航路使用された。同年あまぞん丸、あるたい丸が第一次船舶改善助成施設見合い解体船に指定され解体されてしまう。1935年(昭和10年)にはインド航路からあとらす丸(7,342トン)が転配されニューヨーク線は3隻体制細々運航された。1941年昭和16年9月日米関係悪化によりニューヨーク線は休航決定しすまとら丸10月10日陸軍徴用されて陸軍輸送船となり、陸軍番号964番が付与された。 12月13日E作戦参加してマレー半島上陸する第5師団乗せてカムラン湾出港16日マレー半島北端タイ王国内のシンゴラ到着し乗船部隊揚陸した。 1942年昭和17年3月19日にはU作戦輸送参加し25日ラングーン到着して輸送任務完了した12月2日には八号演習輸送参加して佐伯出港し15日ラバウル到着したその後ラバウル出港し24日パラオ到着した1943年昭和18年4月20日パラオからフィリピンマニラ向けて航行中サンベルナルジノ海峡海中サンゴ礁座礁その後離礁したものの、損傷により北緯12度44東経12408分 / 北緯12.733度 東経124.133度 / 12.733; 124.133のサンベルナルジノ海峡東方沖7km付近にあるルソン島ブルサン沖の入り江投錨しカモフラージュがされた。5月12日同地で米潜ガジョン(USS Gudgeon, SS-211)がすまとら丸発見。0920、ガジョンは魚雷2本を発射。1本は海岸命中したが、もう1本が4番船倉命中爆発により6.4mの穴があいたすまとら丸浸水し大破着底した。この被雷により船員1名が戦死した27日修理不能判断され放棄された。 1944年昭和19年11月22日陸軍すまとら丸関わる賠償額のうち一般海難賠償額相当分を差し引いた額を大阪商船支払った

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みずほ (巡視船・2代)」の記事における「船歴」の解説

2019年8月22日名古屋海上保安部第四管区)に配属上記通り当初初代「みずほ」の代船として計画されていたが、昨今情勢変化により、同船は「ふそう」と船名変更して配備継続することになったため、代替ではなく増強配備となった。また2番船の建造期待されていたが、海上保安庁取り巻く環境想定以上に大きく変化したこともあって、不透明となっている。

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みずほ (巡視船・初代)」の記事における「船歴」の解説

設計・装備については「みずほ型巡視船 (初代)」を参照 1986年3月19日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。その後、「しきしま」の就役に伴い1991年12月16日には名古屋海上保安部第四管区)に配属替えとなった。 また2019年7月5日には、新「みずほ」就役伴って舞鶴海上保安部第八管区)に配属替えとなり、この際に「ふそう」に改名された。なお旧「みずほ」時代搭載機そのまま「みずほ」移行したため、「ふそう」は当面固有の搭載機なしで運用されている。 「みずほ」時代船影

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おおすみ (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

設計・装備については「つがる型巡視船」を参照 1979年10月18日竣工し鹿児島海上保安部第十管区)に配属された。船名大隅半島由来するその後新造の「しゅんこう」が同保安部配属されることになったことから、2019年12月25日付け横浜海上保安部第三管区)へ配属替えとなった1979年10月から2019年10月までの間で、航走距離は約95海里、457回の海難出動304人を救助した。 なお平22年補正予算延命・機能向上工事費が認められ2012年1月から同年6月まで工事受けたその際に、主兵装であるボフォース 60口径40mm単装機銃エリコン 35mm単装機銃換装している。

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シティ・オブ・パリ (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説

シティ・オブ・パリスコットランド、クライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー建造される。シティ・オブ・ニューヨーク進水の7ヶ月後に進水し1889年3月19日公試行い4月3日処女航海出航した20ノット速度出し客船エトルリアブルーリボン賞記録更新した1891年ホワイト・スター・ライン客船マジェスティックにより記録更新されたものの、1892年に再び記録更新し翌年までそれを保持している。シティ・オブ・パリ東回り航路記録1892年姉妹船のシティ・オブ・ニューヨークによって破られるまで保持していた。2隻は1893年にインマン・ラインからアメリカン・ラインに移籍し同時にイギリス政府による資金援助廃止された。シティ・オブ・パリパリ (Paris) と改名されアメリカ・イギリス間航路航行した米西戦争の間、アメリカ海軍パリチャーターしイェール (USS Yale) として運用した戦後再びパリ改名し商用運航された。 1899年5月21日西回り航路航行中パリイギリス西部座礁した離礁試みられた後、ひどく破損したパリアイルランドベルファスト修復が行われ、新たな主機と、2本の高い煙突代えて3本煙突装着された。パリフィラデルフィア (Philadelphia) と改名され北大西洋での旅客輸送再開するアメリカ合衆国1917年第一次世界大戦に参戦すると、フィラデルフィアアメリカ軍兵員輸送従事したヨーロッパへ輸送任務1918年まで続けられその後アメリカ海軍が船を取得しハリスバーグ (USS Harrisburg) と改名された。1919年船主返還されると再びフィラデルフィア改名しアメリカ、イギリスフランス間での旅客輸送再開したフィラデルフィア老朽化していたものの、1922年売却される新たな所有者フィラデルフィア地中海で運航するよう計画したが、財政上の問題イタリアナポリ足止めされた。その後フィラデルフィア1923年スクラップとして売却されるまで同所停泊した

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クラン・フレーザー」の記事における「船歴」の解説

1938年12月20日進水1939年竣工第二次世界大戦が始まると、クラン・フレーザー地中海で連合国軍作戦支援するために用いられた。クラン・フレーザーは、マルタ及びアレクサンドリア補給物資を送る1940年11月カラー作戦参加した3隻の商船内の1隻である。妨害出撃してきたイタリア艦隊との間でスパルティヴェント岬沖海戦発生しその後クラン・フレーザー姉妹船クラン・フォーブズはマルタへの航海続けた1941年4月6日ドイツ軍ギリシャへの侵攻開始した。この日、クラン・フレーザー停泊していたギリシャ・ピレウス軍港ドイツ空軍による空襲を受け、クラン・フレーザーにはハヨ・ヘルマン操縦するJu 88爆撃機投下した250kg爆弾命中した。この時クラン・フレーザー250トンTNT火薬積んでおり、爆弾命中で大爆発起こし、港の中で沈没した。これにより6人が死亡し、9人が負傷したまた、この爆発により周辺船舶や港にも大きな被害生じた。 この項目は、船に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(ポータル 交通/ウィキプロジェクト 船)。

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ジャン・ニコリ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

スウェーデンランズクルーナ造船された。1998年6月13日にミノアン・ラインスに引き渡され7月4日パトラアンコーナ航路就航2009年にSNCMに買収され、「ジャン・ニコリ」と改名された。マルセイユアジャクシオマルセイユポルト=ヴェッキオ路線就航する。彼はSNCMの破産後2016年にコルシカ・リネアに転勤しました2020年ドック入り時にはSOxスクラバー搭載しファンネル長方形のものに交換された。

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大成丸 (初代)」の記事における「船歴」の解説

本船以前大型練習船としては、日本初大型練習船として1897年明治30年)に建造され月島丸があった。月島丸は日本練習船として初め太平洋往復を果たすなど活躍したが、1900年明治33年11月17日駿河湾沖で台風による荒天遭難123名が死亡する大海となった月島丸の喪失を受け、代船として大馬力補助機関有する堅牢安全な大型帆船国内建造することとなり、川崎造船所神戸工場起工1903年明治36年12月2日進水大成丸命名された。日露戦争開戦の年に竣工した本船は、さっそく海軍徴用され、試運転後は帆装取り外し輸送船として軍事輸送従事したその後徴用解かれ帆装復旧して練習船として復帰1906年明治39年10月最初遠洋航海行った1910年明治43年10月26日本船第6次遠洋航海として横浜港から一度目の東回り世界一周航海出発した実習生94名を含む154名が乗船出発前日には当時逓信大臣後藤新平が来船、訓示の後、自署入り扇子ハンカチ乗員全員贈ったフランス領タヒチフォークランド諸島スタンリーケープタウンメルボルン経由2度暴風遭遇しながらも航海日数307日、航海距離約56,300kmを経て1911年明治44年8月25日横浜港帰港した1912年明治45年7月上旬本船館山港から再び東回り世界一周航海出発した実習生125名を含む180名が乗船サンディエゴケープタウンセントヘレナリオデジャネイロフリーマントル南洋諸島経て帰港したが、北大西洋航行中明治天皇崩御の報に接したのを皮切りに2度目世界一周航海苦難の連続であったサンディエゴでは船長突如下船し後任船長赴任するまで47日間渡って同港で停泊その間三等運転士病死した。その後も、無風荒天見舞われ南インド洋では一か月余り晴天がなく栄養失調もあり、70名以上が脚気発症学生2名、大工1名が病死した。航海日数456日、航海距離36,377海里経て1913年大正2年12月中旬帰港した。この航海には、後に初の労働大臣となる米窪満亮乗船しており、乗船記を「大成丸世界周遊記」として『東京朝日新聞』に連載夏目漱石激賞受けた周遊記は米窪太刀雄筆名で『海のロマンス』と改題して単行本として出版され漱石序文寄せた。この単行本ベストセラーとなり、商船学校海軍兵学校への志願者増加したと言われている。 その後練習船として遠洋航海続けた1940年昭和15年10月11日横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式参加1941年昭和16年)に再び海軍徴用され、帆装取り外し輸送船として石炭輸送従事した。無事終戦迎えたが、直後1945年昭和20年10月9日11時頃、神戸港内でアメリカ軍残存機触雷して沈没実習生31名が死亡した就航から沈没までの間、本船は約630,000海里航行63回の遠洋航海行い学生2,330名(延べ8,873名)が乗船した船名の銘鈑はパネル加工され1954年昭和29年)に就役した2代目大成丸船内展示された。このパネル2014年平成26年)に就役した4代目大成丸でも展示されている。

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新青丸」の記事における「船歴」の解説

2012年8月2日 - 起工式2013年2月15日 - 進水式大槌町小学6年生2名が支綱切断した。 2013年6月30日 - 海洋研究開発機構引き渡し2014年7月30日 - シップ・オブ・ザ・イヤー2013特殊船部門賞受賞2016年10月20日 - 西之島噴火後初の上陸調査本船母船として実施

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長福丸」の記事における「船歴」の解説

九州汽船発注三菱重工業長崎造船所建造され1926年3月31日竣工した1926年4月5日長崎 - 玉之浦(福江島航路就航後、下五島 - 屋久島航路に転配された。1928年6月6日社名変更により九州商船保有となる。 1949年大阪商船から購入した小型客船28隻組の藤丸1952年尼崎汽船から購入した大衆丸が椿丸として五島航路就航したため、本船1952年11月屋久島・種子島航路に転配された。 1940年12月15日海軍徴用され、三菱重工業長崎造船所艤装工事着手12月25日佐世保鎮守府所管特設捕獲網艇となり大湊防備隊配属された。1941年1月15日、第52駆潜隊編入され司令となった2月3日から3月22日にかけて名村造船所艤装工事行い3月5日に第521捕獲網艇と略称が制定された。この間2月2日から3月1日まで同隊の司令艇は第17昭南丸が引き継いだ5月15日、第52駆潜隊編成から解かれ6月25日除籍となり、7月7日徴用解除された。その後艤装撤去して同年12月22日長崎 - 玉之浦航路復帰した1945年5月14日奈良尾沖で米軍哨戒機2機から銃爆撃を受け多数死傷者生じた操舵室大破したものの福見港内への退避成功奈良尾港曳航され、負傷者救護所となった映画館収容された。 戦後は再び五島航路就航1957年丸の就航により引退した1957年10月伊豆箱根鉄道売却され伊豆箱根丸となった新設熱海 - 大島航路就航する予定であった東海汽船競願となり、本船老朽化衆議院運輸委員会議題上るなどして、航路認可は遅れ、就航1959年4月となった1966年8月伊豆箱根鉄道大島航路撤退により東海汽船売却され熱海 - 大島航路就航した1967年はまゆう丸の就航により転配され1968年4月さつき丸改名された。 1973年小笠原海運用船されていた椿丸が返却されたため引退その後解体された。

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ギャラクシー (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

タリンク初の新造船であるロマンチカ2002年タリン - ヘルシンキ航路就航し成功おさめたその後最大競争相手であったヴァイキングラインが、同航路運航している主力シンデレラ退役させ、より大型新型ロゼラ投入する計画明らかにした。2004年10月28日タリンクはこれに対して大型新造船でロマンチカ更新することを決めロマンチカ同級僚船ヴィクトリアIと共にタリン - ストックホルム航路移動することとなった建造2005年初頭には開始され4月21日には船体ラウマアケル造船所起工12月1日進水しギャラクシー命名された。 2006年5月2日タリン - ヘルシンキ間に就航1日1往復であったが、運航時間7時間に過ぎず大半時間は港に係留されていた。2007年4月には早くも翌年からストックホルム - マリエハムン/ローングネース - トゥルク航路就航することが発表されタリン - ヘルシンキ航路にはバルティック・プリンセス就航することになったナーンタリ3日ドック入りした後、2008年7月23日船籍スウェーデン変更したギャラクシーシリヤ・フェスティバルに代わって就航した。名称も含めて外観変更される予定であったが、据え置かれることになった唯一舷側表記タリンクからシリヤライン改められている。

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橿丸」の記事における「船歴」の解説

1940年4月30日竣工検査完了した当時日本で「海上トラック」(海トラ)と俗称された小型貨物船である。船体鋼製小型貨物船ありふれた船尾機関型で、動力として神戸発動機製作所1939年昭和14年7月製造した4ストロークディーゼルエンジンを搭載している。船主東和汽船で、当時日本統治下だった関東州大連港船籍置いていた。 日中戦争中の1940年12月5日日本海軍により海軍省一般徴用船として佐世保鎮守府所管徴用され、太平洋戦争勃発後の1943年昭和18年6月1日時点では第八艦隊配属雑用船として使用されていた。本船始めとする日本海軍徴用海上トラックは、ソロモン諸島の戦い日本軍劣勢となり制空権制海権失いつつあった時期に、駆逐艦による鼠輸送を補うため、月暗期利用した夜間の前線輸送従事した例えば、本船は、1943年4月30日5月6日ニュージョージア島バイロコ港(英語版)への食料輸送成功次の暗期にも5月29日6月5日コロンバンガラ島方面への輸送成功させている。駆逐艦比べ本船のような海上トラック搭載力が大きく6月5日の回だけで人員90人と物資255トン一挙に揚陸するなど貢献大きかった。『戦史叢書』においても、低速かつ無防備な状態で困難な輸送任務当たった海上トラック乗員勇敢さは、駆逐艦乗員勝るとも劣らない評されている。 本船最期は、1943年7月2日3日前から始まったニュージョージア島の戦い最中ニュージョージア島バイロコ港へ輸送任務赴いて碇泊していたところ、アメリカ陸軍航空軍B-25爆撃機およびアメリカ海軍F4U戦闘機による空襲を受け、沈没した船員1名が戦死した本船沈没後、日本海軍ニュージョージア島対す海上輸送は、第1根拠地隊所属徴用漁船による舟艇輸送中心となった沈没地点水深17mと浅く干潮時には水面からマスト突き出た態となる。沿岸の浅い海域残骸残っているため、初心者でも沈船ダイビングen)が可能なダイビングスポットとして太平洋戦争終結後には観光資源になったニュージョージア島ムンダ拠点とする沈船ダイビングツアーにも組み込まれている。

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フランコニア (客船)」の記事における「船歴」の解説

1910年7月23日ニューカッスル・アポン・タインのスワン・ハンター&ウィガム・リチャードソン社で進水1911年1月23日竣工数年間、主に大西洋で運航された後、1915年初頭にフランコニアは兵員輸送船となった1916年10月4日サロニカへ向け航行中のフランコニアはマルタの東195マイルドイツ潜水艦UB-47に雷撃され沈んだ兵士乗船しておらず、乗船していた乗員314名中12名が死亡した

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船歴

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イララ (船)」の記事における「船歴」の解説

1949年ニヤサランド鉄道(後のマラウイ鉄道)がマラウイ湖運航するために、一隻フェリーヤーロウ・シップビルダーズ発注した先代初めマラウイ湖交通担ったポプラ製の船であり、それにつづく二隻目となる船はその名を引き継いでイララ2と命名された。但し、塗装された名称はイララとなっており、2を省かれる事が多い。 建造後、最高で重さ18トンに至る780個の部品分解されモザンビーク送られ鉄道マラウイ湖畔まで輸送された後に組み立てられ1951年6月進水した就航後は、少なくとも2度座礁し1990年代中頃機関交換するなど幾度も整備を受けながら運用され続けている。整備に伴う運休時には通常南部航行するMtendereが、代わって投入されている。 モノハル構造のため、国際海事機関推進している客船基準合致していないことが指摘されている。 ニヤサランドマラウイ通じて数種の切手発行されており、2009年には英国放送協会60周年記念して特集組んでいる。

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ニール・アームストロング (調査船)」の記事における「船歴」の解説

2016年6月最初国際調査航海行い北大西洋のイルミンガー海に配置され海洋観測イニシアチブOcean Observatories Initiative:OOI)の観測アレイ回収配置した

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白沙 (特設測量艦)」の記事における「船歴」の解説

1914年大正3年)に、イギリスのウィリアム・グレイ・アンド・カンパニー(en造船所建造された。その後中華民国税関監視船として改装されて「福星」の船名広東省方面密輸取り締まり従事していた。税関監視時代には、第2船倉上甲板45フィート(約13.7m)級の高速艇後記参照)数隻を搭載しており、その揚収用として船橋前の両舷に張り出すように大型クレーン設置されていた。 日中戦争中に日本海軍によって鹵獲され、1938年昭和13年)に横須賀海軍工廠改装受けて特設測量艦となった日中戦争後帰属未定確定的な戦利艦ではなかったため、正規艦船ではなく臨時特設艦船取り扱いになっている九〇式測深儀一型1組はじめとする測深儀5組など測量機器装備されたほか、税関監視時代高速艇搭載設備流用して装載艇として10m測量艇8隻と艦載内火艇搭載された。排水量7000トン日本海軍測量艦船として最大で、測量設備も最も充実していた。同じく特設測量艦である「第三十六共同丸」(阿波国共同汽船:1499総トンとともに中国中南部沿岸測量大きく貢献した太平洋戦争後期1944年昭和19年5月1日付で特設工作艦になり、再び大規模な改装工事受けた上、シンガポール当時日本名昭南)に進出した。翌1945年昭和20年3月10日にはさらに特設運送船転籍した。しかし1945年6月8日インドシナ半島北緯0856東経10537分 / 北緯8.933度 東経105.617度 / 8.933; 105.617の地点アメリカ海軍潜水艦コビアの魚雷攻撃により沈没した

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ジョン・バーク (リバティ船)」の記事における「船歴」の解説

オレゴン州ポートランドカイザー造船所Kaiser Shipbuilding Company's Oregon Shipbuilding )で建造された。いわゆるカイザー船の1隻である。キール1942年11月20日船台設置され33日後の12月13日進水した10日間の艤装作業の後にジョン・バーク12月23日アメリカ海軍引き渡された。船名は、ノースダコタ州第10代目の州知事の名前に由来する1944年初期にはノースランド海運会社(Northland Transportation Company)を通じた契約チャーターされていた。ジョン・バークハワイオーストラリア、ガタルカナル、マナウスニューギニアなどに軍事物資輸送した

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ノルウェージャン・スピリット」の記事における「船歴」の解説

スタークルーズ発注により、ドイツマイヤー・ヴェルフト建造されスーパースター・レオとして1998年就航したアジア初の巨大クルーズ客船で、シンガポール拠点に、マレーシアタイ王国3日間から6日間クルーズ運航された。 1999年9月10日二番船として建造されスーパースター・ヴァーゴシンガポール配船されたため、本船香港拠点移して中国海南島ベトナム沿岸南シナ海などを目的地とした2日間から5日間のクルーズ運航された。 2003年重症急性呼吸器症候群SARS)の影響により一時的に拠点オーストラリア移して運航されたが、そして、流行収束後は香港戻った2004年ノルウェージャン・クルーズラインは、ロイド・ヴェルフト艤装中だったプライド・オブ・アメリカ完成直前暴風により浸水事故起こしたため、本船を代船として購入した。約2週間改修工事が行われた後、ノルウェージャン・スピリットとして就航したその後プライド・オブ・アメリカは、約1年遅れの2005年6月就航している。 その後ヨーロッパ拠点に、冬と春カナリア諸島への10日間のクルーズ、夏と秋は地中海を巡る13日間のクルーズ運航されている。

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スーパースター・リブラ」の記事における「船歴」の解説

ノルウェージャン・クルーズラインにより、シーウォード(Seaward)として1988年より就航した1997年にはノルウェージャン・シー(Norwegian Sea)と改名2005年スタークルーズ移籍するまで運航された。 スタークルーズにより、スーパースター・リブラSuperStar Libra)と命名され本船は、2006年夏には地中海エーゲ海アドリア海クルーズ行った9月にはムンバイ移動し2007年から翌年にかけては基隆拠点とした。2007年11月から2008年3月は、香港から中国・台湾ベトナムに向かう2泊から7泊のクルーズ用いられた。2008年11月から2009年1月まではシンガポール移動しその後改修作業入った改修終えた2009年5月27日には基隆から石垣島沖縄への1泊から3泊に及ぶクルーズ開始し、これは10月まで続いた11月にはシンガポールから、クアラルンプールペナン島ランカウイ島への3泊のクルーズと、クアラルンプールプーケット島への4泊のクルーズ12月末まで運航したその後クラン港で改修作業入った2010年4月ドック入りしたスーパースター・アクエリアスに代わって香港から南シナ海への1泊クルーズ用いられた。5月から10月にかけては、日本及び台湾へクルーズ行った11月から12月までは、シンガポールから、タイマレーシアへのクルーズ行った2011年から2012年にかけては、ペナン島からの1泊から3泊のクルーズ行いその内容プーケットクラビ目的地とするものと、洋上周遊クルーズであった2013年には改修が行われる見込みである。

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てしお (巡視船・3代)」の記事における「船歴」の解説

「てしお」は、日本鋼管鶴見製作所建造された。設計にあたっては、日本海事協会の耐氷構造規則カナダ規則参考にした上でオホーツク海の流氷特性加味されている。進水式には、造船所見学中の小学生臨席した。1995年10月19日就役し、羅臼海上保安署に配属された。初の救助出動は、1996年3月8日ロシアからの要請行われたもので、根室海峡ロシア主張する領海内で流氷閉じ込められロシア漁船「シュムシュ107」を曳航し流氷砕氷しながら氷海外へ誘導した。 てしおは現在[いつ?]羅臼海上保安署に所属する唯一の巡視船である。

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ジェームズ・クック (海洋調査船)」の記事における「船歴」の解説

2010年1月南極海の東スコシア海嶺において、深海熱水噴出孔密集する新種発見し「ホッフ・クラブ(Hoff Crab)」と仮に命名した2010年4月にはケイマン海溝深度5000m海底で、従来観測されたうちで最も深い位置にある熱水噴出孔ブラックスモーカー)を発見し調査行っている。 2011年1月19日南極海ブランスフィールド海峡で、熱水噴出孔調査するため着水させたIsis本船左舷スクリュー接触し大破する事故起きた同年6月無人潜水機復旧予算承認されたため国立海洋学センターにて再建が行われ、翌2012年8月には修復のなったIsisテスト潜航が行われた。 2015年10月から11月にかけて、統合国際深海掘削計画IODP)の科学調査イギリス調査船として初め参加大西洋中央海嶺アトランティス山塊「ロストシティー」周辺リモート操作海底設置ドリル2基(イギリス地質調査所RD2ブレーメン大学海洋環境科学センターMeBo)を着底させ、深海蛇紋岩化作用と強アルカリ環境下の微生物研究する最長80mのコアサンプルを採取した

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ガルフ・ライブストック1」の記事における「船歴」の解説

この船はベルリンのHegemann Roland造船所コンテナ船Maersk Waterford」として建造された。2002年4月4日起工9月20日進水で、12月9日船主引き渡された。2006年に「Dana Hollandia」、2012年に「Cetus J」と改名され2015年家畜運搬船へと改装されて「Rahmeh」と改名2019年に「ガルフ・ライブストック1となった。 6370総トン、8372載貨重量トン数で、長さ133.6メートル (438 ft)、幅19.4メートル (64 ft)、機関ディーゼル機関1基で速力18ノット (33 km/h)であった

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白山丸 (1940年)」の記事における「船歴」の解説

本船は、北日本汽船発注により「月山丸」型貨客船3番船として1939年昭和14年)に浦賀船渠起工された。建造中に国策会社として設立され日本海汽船姉妹船とともに現物出資され、1940年昭和15年8月進水命名1941年昭和16年8月竣工した船名白山比咩神社由来する。「月山丸」と船体同寸であるが、上部構造物の流線形化や客室設備改良など各種設計変更がされており、バラスト500トン搭載不要速力0.3ノット向上、旅客定員49人も増加など一段と洗練された搭載機関は浦賀船渠開発した低圧タービン付き二連レシプロエンジン称する形式で、当時商船標準的だった三連レシプロエンジン低圧ピストンタービン変更することにより燃費改善図られていた。 竣工した白山丸」は、「満州国」の建国重要性高まっていた日本海横断航路のうち新潟港清津羅津間の定期航路就航した1941年昭和16年11月5日同型2番船の「気比丸」(日本海汽船4552総トン)がソ連海軍のものと思われる浮遊機雷接触する事故沈没すると、同船の後を埋めて敦賀港発の路線移動した1941年12月太平洋戦争勃発後も軍による徴用を受けることはなく、船舶運営会管理下の民間商船として新潟発の日本海横断航路での営業続けた1943年昭和18年4月26日には徴用しないまま船員軍属待遇として保障する海軍指定船へ指定された。大戦後半日本本土へ大豆輸送が重要任務であったまた、特殊な任務として1944年昭和19年10月から11月日米間の協定基づいて捕虜・強制収容中の日系人向け人道物資交換使用された。10月28日書籍郵便物などの日本物資搭載して出港した白山丸」は、日本との関係では中立だったソ連ナホトカへ赴き、ソ連船「タシュケント」などにより事前集積されていたアメリカ側物資2025トン積荷交換した帰途就いた白山丸」は、羅津立ち寄って満州所在捕虜収容所向け物資150トン降ろし11月11日神戸港無事に到着した。なお、「白山丸」が持ち帰った物資のうち800トンマレー半島ジャワ島方面貨客船阿波丸」(日本郵船:11249総トン)により運ばれたが、同船帰路撃沈されてしまった(阿波丸事件)。 海上自衛隊のまとめた『航路啓開史』によれば、「白山丸」は終戦の日直後1945年昭和20年8月18日に、山口県萩市北東8海里(約15km)でアメリカ軍飢餓作戦敷設され機雷接触して擱座した。一方松井邦夫によれば同年7月沖でアメリカ海軍機動部隊機の空襲により撃沈され、戦後復旧された。アメリカ海軍公式記録であるThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War II には本船撃沈言及されておらず、船舶運営会がまとめた『喪失船舶一覧表』にも本船の記録がない。 終戦後中国大陸方面からの引揚輸送大きく貢献した1947年昭和22年10月新潟小樽港間の定期航路開設される第一便として就航した1953年昭和28年)に満州在留日本人引揚中華人民共和国許可で始まると、その最初引揚船として輸送参加したこの間1958年昭和33年7月舞鶴港への引揚航海では日本中国大陸無許可往来していた日本人密航発見され出入国管理令違反起訴され裁判訴因の特定および国外滞在中の公訴時効停止に関する刑事訴訟法上の重要判決相次いだ白山丸事件)。シベリア抑留者の帰国輸送にも従事し1958年9月7日樺太真岡町ソ連名:ホルムスク)から舞鶴最後引揚船として到着した1956年昭和31年)からはアメリカ軍占領下沖縄県日本本土を結ぶ航路主力船としても5年活動している。その後1961年昭和36年)に横井英樹東洋郵船に売却されインドネシア方面就航したが、1965年昭和40年)に広島県松永湾で解体された。

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バンドゥルマ (貨客船)」の記事における「船歴」の解説

バンドゥルマ1878年スコットランドグラスゴー市にある、マックインタイルペイズリー・ヒューストン&カルデット(Mac. Intyre Paisley - Huston and Cardett) 造船所21番目に279英トン貨客船として建造された。この船舶最初所有者であるデュセイ&ロビンソン社(Dussey and Robinson) によって、トロカデルト(Torocaderto)という名で5年運用されその後1883年ギリシャのH・プシチャ・プレウス (H. Psicha Preus) 社に売却された。キュミ(Kymi)という名でロンドンにあるピール港に登録された。1890年に、H・プシチャ・プレウス社からギリシャ船長アンデリィーディス(Andereadis) に売却した1891年12月12日事故の結果沈没した同年内に引き上げられた後、イスタンブール・ラマ・デラシモ( İstanbul Rama Derasimo )社に売却されクイムという名でイスタンブール港登録された。1894年当時海洋管理局相当する王室管理部(İdare-i Mahsusa)に回航されトルコ国旗つけられ、パンデルマと改称された。マルマラ海沿岸において、テキルダー (Tekirdağ)、ミュレフテ(Mürefte)、シャルキョイ(Şarköy)、カラビガ(Karabiga)、エルデッキ(Erdek)間で旅客および貨物航路運用された。1910年10月28日王室管理部(İdare-i Mahsusa)は法令変更してオスマン帝国交通局オスマン帝国海洋管理局)が創設される船舶バンドゥルマ改称され定期便として運用されるようになった1919年5月19日ムスタファ・ケマル兵士たちサムスンまで運んだ後、再び定期船として継続されたが1924年トルコ海洋局(Türkiye Seyrüsefain İdaresi)によって運用停止にされた。1925年にはボズマジュ・イルハミ(Bozmacı İlhami)という名のトルコ人実業家売却され、4ヶ月のうちに廃船として解体された。

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かいめい」の記事における「船歴」の解説

本船は、2015年12月退役したなつしま」「かいよう」の代船として建造された。建造三菱重工業下関造船所行われ2015年6月7日行われた進水式には佳子内親王が初の単独地方公務として出席し支綱切断行った船名インターネット上で公募され2015年4月11日から5月31日まで受付が行われた。JAMSTEC役職員構成される名称選考会により、「JAMSTEC海洋調査船にふさわしい名称」「日本海洋研開発新し時代を切り拓いて行くイメージ想像させる名称」を基準として「かいめい」と命名された。命名者代表して京都市小学3年生進水式招待された。 艤装試験航海などを経て2016年3月30日JAMSTEC引き渡された。 2021年5月18日かいこう深海試掘記録43年ぶりに塗り替える8023Mの試掘日本海溝成功した発表された。

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新裕」の記事における「船歴」の解説

本船竣工した1889年当時、招商局は商船27隻(合計34,091総トン)を保有していた。 竣工から5年後1894年7月日清戦争起きると、「新裕」は北洋艦隊指揮下で軍隊輸送船として活動し黄海海戦きっかけとなる輸送作戦にも「図南」「鎮東」「利遠」「海定」とともに参加したまた、招商局は戦難を避けるため、保有商船一部外国船籍一時的に移して運航することにした。同年11月2日、「新裕」は、「豊順」「海定」「美富とともにドイツの礼和洋行(中国語版)(カルロヴィッツ商会)へ終戦までの期間限定移籍し日本軍収集した情報によれば船名も「礼裕」と改称した日清戦争後に「新裕」は招商局の民間航路戻り芝罘煙台)・天津上海港を結ぶ定期航路用いられた。しかし、北京政府北洋政府)と地方政権の間で護国戦争発生すると、1916年4月初旬北京政府海軍は、招商局の商船新裕」「新銘」「新康」「愛仁」の4隻を徴用し、天津から福建省への軍隊輸送投入した同年4月23日に「新裕」は、浙江省漁山列島の南魚山付近航行中護衛海容級防護巡洋艦海容中国語版)」に誤って激しく衝突され搭載弾薬爆発して瞬時沈没した乗員輸送中の将兵合計1000人以上の乗船者のうち生存者はわずか10人余だった。なお、招商局は「新裕」を皮切りに1916年から1918年にかけて、事故などで5隻の商船を失う大きな打撃受けた

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ワラタ (貨客船)」の記事における「船歴」の解説

1908年11月5日ワラタは、イングランド・ロンドンから、3等船客689名と1等船客67名を乗せて処女航海始めた船長は、30年間の航海経験がある、ジョシュア・E・イルベリー(Joshua E. Ilbery)であった沈没に関するその後の調査は、この船旅における不安定性いくつかの論議中の報告提出した。船がイングランド帰った時にオーナー建造者との間で荷積料に関して討論があった。 1909年4月27日ワラタオーストラリアへ2回目航海出発し平穏無事な航海終える。そして1909年7月1日メルボルンから帰航についた予定ではダーバンケープタウンという南アフリカの港を経由し、それからロンドンに戻るはずであったワラタダーバン着いたが、そこではある乗客、海旅経験豊かな技師クロード・ソーヤー(Claude Sawyer)が船を下り次のような電報ロンドンの妻に送った。「ワラタ頭でっかち不安定だ思ったダーバン上陸」("Thought Waratah top-heavy, landed Durban")。 ワラタは、7月26日に、211名の乗組員乗客をのせてダーバン発った7月27日には、汽船クラン・マッキンタイア(Clan McIntyre)とすれちがった。その船の船員の話によれば、すべてが順調に思われ、そして、ワラタは、強まる海と風を容易に進み、そしてすばやく自船の前に出て引き離し南西の方へ水平線越えて姿を消したという。その日遅く天気急に悪くなり(これはその海域では普通のことである)、50ノット時速90キロメートル)の強風は、潮と海洋のうねりと結び合って30フィート(9メートル)の波になった。その晩、喜望峰からダーバン北進している、ユニオン=キャッスル・ライン(Union-Castle Line)の船ゲルフ(Guelph)は、或る船とすれちがい信号灯によって国際船舶信号かわしたが、しかし悪天候と悪い視程のためにこの船の名前最後3字T=A=H」しか見分けることはできなかった。 その晩、ハーロー(Harlow)という船には、ある大型汽船が自船の後ろに来るのが見えたが、荒海懸命に進み船長汽船火災起こしているのではないか怪しむくらい大量の煙を出していた。闇がおりたとき、ハーロー乗組員には、その汽船複数航海灯接近してくるのが見えたが、しかしそれでもやはり10-12マイル(16-19.3キロメートル後ろにいた。その時、突然汽船近くから明る閃光2つあり、そしてそれらの光が消えたハーロー航海士は、それらの閃光海岸低木林火災であると考えた(その季節、その海域には普通の現象であった)。船長同意し、そして航海日誌にそれらの出来事記入することさえしなかった。ただ彼はワラタ失踪について聞知した時、これらの出来事が重要であると考えた伝えられるところによれば、ハーローダーバンから180マイル(約289.6キロメートル離れていた。 ワラタ1909年7月29日ケープタウンに着くことになっていたが、ついに目的地にたどり着くことはなかった。船の痕跡は何も見つかっていない。

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乾進丸 (1948年)」の記事における「船歴」の解説

太平洋戦争中第二次戦時標準船の2DT型8番船として計画1945年通称マル戦計画中の昭和二十年計画起工前に海軍買収のうえ敷設艦設計変更され、第1821号艦型2番艦、仮称艦名第1822号艦として計画変更となる。 1945年2月1日浪速船渠起工したが、鋼材調達見通しが立たなくなったため同年4月工事取りやめとなった太平洋戦争後、戦後続行船として乾汽船割り当てられ建造再開1948年6月7日進水同年6月竣工竣工後の処女航海樺太向かったが、悪天候遭遇し同年10月4日沈没した本船沈没後、小樽慰霊祭挙行された。 2015年末現在、本船乾汽船太平洋戦争後の海難喪失した唯一の船である。なお、乾汽船運航した乾進丸初代2代目ともに沈没し2代目本船沈没した後は乾汽船では、乾進丸船名を持つ船舶取得していない。

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ブリティッシュ・ロイヤルティ」の記事における「船歴」の解説

ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、イギリスニューカッスル・アポン・タインにあるパルマー・シップビルディング・アンド・アイロン・カンパニー(英語版)の造船所建造され1928年1月進水した船型当時大型タンカー一般的な船尾機関室船体中央船橋有する型式で、主機関ズルツァー社製のディーゼルエンジン搭載した船主はブリティッシュ・タンカー・カンパニー(英語版)である。 第二次世界大戦開始後の1942年昭和17年5月、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、ヴィシー・フランス統治下のマダガスカル島ディエゴ・スアレス(現アンツィラナナ)を攻略するアイアンクラッド作戦に、イギリス海軍補給船として参加した同年5月中旬までに攻略作戦成功してイギリス艦隊主力撤収したが、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、戦艦ラミリーズ」及び駆逐艦3隻・コルベット2隻などとともにディエゴ・スアレス残った。これに対して日本海軍は、ディエゴ・スアレス特殊潜航艇である甲標的奇襲する作戦計画したマダガスカルの戦い#日本海軍による攻撃)。同年5月29日日本潜水艦伊10」の偵察機ディエゴ・スアレス飛来し、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」の乗員はそれを発見したが、味方巡洋艦フロビッシャー」の搭載機誤解した同年5月30日夜、日本潜水艦伊16」「伊20」から発進した甲標的2隻が、ディエゴ・スアレス港内侵入してイギリス艦船攻撃した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は重油アルコール搭載した状態で港口に近いアンツィレーン灯台付近に停泊していたが、「ラミリーズ」に魚雷命中して爆発後、特殊潜航艇司令塔潜望鏡らしいものを2体発見し、4インチ砲とルイス軽機関銃攻撃した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は錨鎖断ち切って緊急始動したが、後進したところ、「ラミリーズ」を狙った思われる魚雷進路入り込んでしまった。魚雷1発が「ブリティッシュ・ロイヤルティ」の機関室直撃し同船急速に浸水して船尾から水深20mの海底沈没乗員6人が行不明となって死亡推定された。生存者軍隊輸送船「カランジャ」に収容された。 1942年6月中にイギリス海軍潜水夫使って沈んだブリティッシュ・ロイヤルティ」から重油1800トンとその他貨物2000トン回収した同年12月には船体サルベージが行われ、浮揚した「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は1943年昭和18年10月7日イギリス海軍泊地であるモルディブアッドゥ環礁出航したアッドゥ環礁では物資貯蔵船として利用された。なお、遅くとも1945年には戦時運輸省所属となっている。 1944年昭和19年3月9日、「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は、アッドゥ環礁侵入したドイツ海軍モンスーン戦隊IXC/40型潜水艦U-183」による雷撃受けて再び着底した。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は応急修理施され泊地に浮かぶ物資貯蔵船として再利用された。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は商船として復旧されことなく終戦後1946年昭和21年1月16日自沈処分となった

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「あまき」の記事における「船歴」の解説

1916年9月 進水1917年1月 竣工1917年 - 1918年 練習航海(大6N)実施 (横浜 - マーシャル群島間)。 1918年 - 1919年 練習航海(大7N)実施1919年 練習航海(大8N)実施1920年 - 1922年 委託海運業者(南洋興業株式会社)の営業不振により練習航海中止1922年 富山県高岡市布宗四朗と契約運航再開1922年 - 1923年 練習航海(大11N)実施1923年 - 1924年 練習航海(大12N)実施1924年 - 1925年 練習航海(大13N)実施1925年3月12日 静岡県相良町沖にて座礁浸水1925年3月30日 引き揚げ作業中、強風により大破船体放棄

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プリンツ・アイテル・フリードリヒ (客船)」の記事における「船歴」の解説

プリンツ・アイテル・フリードリヒシュテッティンAGフルカン社で建造された。1904年6月8日進水第一次世界大戦が始まる前の10年間、極東北ドイツロイド航路就航していた。1914年8月上海にいたプリンツ・アイテル・フリードリヒ旧式砲艦ルクスおよびティーガーの砲を搭載して仮装巡洋艦へ改装を行うため青島へ向かうよう命じられた。プリンツ・アイテル・フリードリヒには船の前部後部に10.5cm砲が2門ずつ搭載されたほか、8.8cm砲が6門設置された。乗員ルクスティーガーおよび河用砲艦ファーターラント、オッターから集められた。 8月6日プリンツ・アイテル・フリードリヒ巡洋艦エムデンおよびハンブルクアメリカラインの貨物船マルコマニアとともに青島出港8月12日パガン島シュペー艦隊装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウなど)と合流した。それらとマーシャル諸島まで同行したプリンツ・アイテル・フリードリヒオーストラリアニュージーランド沖で通商破壊戦試みた成果はなく、10月27日ファン・フェルナンデス諸島で再びシュペー艦隊合流したシュペー情報収集などを目的プリンツ・アイテル・フリードリヒバルパライソ派遣10月31日汽船Colisa(5732トン)を追跡するが、チリ領海内へ逃げ込まれてしまった。バルパライソには11月1日到着したイギリス軍艦が存在したためすぐに出港コロネル沖海戦後にバルパライソ戻り、それから11月8日ファン・フェルナンデス諸島シュペー艦隊合流したプリンツ・アイテル・フリードリヒホーン岬回って大西洋へ向かうシュペー艦隊とは別れ、偽の通信発してシュペー艦隊がまだチリ沖にいるように装ったその後プリンツ・アイテル・フリードリヒ通商破壊戦再開した12月5日汽船Charcas(5067トン)を、12月12日帆船Kildalton(1784トン)を沈め12月11日石炭積んだ帆船Jean(2207トン)を拿捕12月23日イースター島到着Jeanから石炭を移載した後Jean沈めたイースター島離れる艦長Thierichensはホーン岬回って本国に戻ることを決めた大西洋入ってからは1915年1月26日帆船Isabel Browne1月27日帆船Pierre Loti(2196トン)とWilliam P. Frye(3375トン)、1月29日帆船Jacobsen(2195トン)、2月12日帆船Invercoe(1421トン)、2月18日汽船Mary Ada Short(3605トン)、2月19日汽船Floride(6629トン)、2月20日汽船Willerby(3630トン)を沈めた。それらのうち、William P. Fryeアメリカ船籍であった小麦積んでアイルランドクイーンズタウン向かっており、積荷イギリス戦争行為助けるものとして破棄可能とされたが、船外への投棄作業手間取り最終的にプリンツ・アイテル・フリードリヒWilliam P. Frye砲撃沈めた。この件でドイツ賠償金支払った物資欠乏してきたプリンツ・アイテル・フリードリヒ1915年3月11日ニューポートニューズ入港し同地抑留された。 1917年4月アメリカ参戦するプリンツ・アイテル・フリードリヒアメリカ海軍により接収され兵員輸送船とされて1917年4月7日デカルブとして就役した。 1918年第一次世界大戦終結する退役して「マウント・クレイ」(SS Mount Clay)と改称し、再び客船としてユナイテッド・アメリカ・ラインズ(英語版)の所属となり大西洋横断航路運用された。そして1925年引退1934年解体された。

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秩父丸 (蟹工船)」の記事における「船歴」の解説

本船は、1878年明治11年5月イギリス進水した船体鉄製で、トン数1924年大正13年)末時点1540総トンとなっている。1911年明治44年)に、原船名「バイカラ」だった本船は、日本船籍移って秩父丸」と改名した1911年時点船主榎本七郎船籍地は神戸港となっている。その後船主転々とし、1923年大正12年)には笹川喜三郎から今井六郎譲渡され船籍地も京都府与謝郡宮津港から和歌山県西牟婁郡西富田港に移された。 本船遭難した1926年時点では、北東貿易会社傭船され、蟹工船として使用されていた。同種の蟹工船1920年大正9年)頃から北洋漁業での底刺し網漁に投入され始め1926年には12隻が操業していた。

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キャンベラ (客船)」の記事における「船歴」の解説

北アイルランドベルファストのハーランド・アンド・ウルフ造船所で1,700ポンドかけて建造され1960年3月16日にパティ・メンジスによって進水した1958年3月17日オーストラリア首都キャンベラ因んで命名され1961年4月28日就航ベルファストからサウサンプトン向かったP&Oは、キャンベライギリスオーストラリア間の定期航路 (P&Oオリエント航路) で運用するために建造した。しかし、ジェット旅客機登場を待つまでもなく、この航路需要減少していた。それは、オーストラリアへ移民減少と、第二次中東戦争によるスエズ運河封鎖のために、採算低下したためである。しかしながらキャンベラ1974年にはクルーズ適応するよう改装された。定期航路用に建造されたものの、その後大きな改装を受けることもなくクルーズ客船として長く就航することになる。 キャンベラ特筆すべき項目はターボ・エレクトリック推進搭載していた事である。推進軸機械的に結合され大型モーターによって推進したそれまで客船向けに製造され蒸気タービンの中で最強出力を出すものだった42,500馬力発揮した電気推進採用した事は経済的に優位に立つ事が出来た。やがて、運航開始から30年以上経ち1990年代にはディーゼルガスタービンにより発電する電気推進船就航した1982年フォークランド紛争勃発に伴いイギリス国防省徴用され輸送船として用いられた。その時ニックネーム大きな白い (Great White Whale) であった戦後キャンベラアルゼンチン軍兵士を国に送還しその後サウサンプトン帰還した長い修理の後、キャンベラ観光船として民間サービス復帰したフォークランド紛争における功績によりキャンベライギリス国民によって非常に人気のある船となったキャンベラチケット売り上げ大きく増加したしかしながら最新の船に比べて燃費悪く運用コストがかかることと船齢増加により、1997年引退することとなった最後の航海10月10日から31日にかけて行われた引退後スクラップとして売却され翌月パキスタンのガダニ海岸牽引された。

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アラオン」の記事における「船歴」の解説

アラオン」は、船体韓進重工業影島造船所建造され2009年11月6日仁川広域市にて海洋研究院極地研究所に引渡され命名式が挙行された。 2009年12月18日試験運用として初の南極航海行い砕氷能力試験と第2基地候補地調査行って2010年3月15日仁川帰港した。翌2010年よりアラオン実運用に入り同年7月には初の北極海への調査航海実施する2011年12月南極ロス海氷山衝突して浸水し救難信号発したロシア漁船スパルタ乗組員32名)の救助当たった南北両極調査航海行い、さらに韓国第2の基地である張保皐基地への輸送任務加わったアラオンは、活動日数年々増加して2013年には年間311日に達す過重な運用となったため、韓国海洋水産部極地研究所は新たに1万2000トン級の新型砕氷船導入して北極海航路および資源探査投入することを検討している。

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なつしま」の記事における「船歴」の解説

船齢のため2015年12月17日運用停止となったその後、ニッスイマリン工業株式会社購入し、「CONCEPT」と改名のうえで、戸畑港を母港として2016年4月6日より再就航した同船は、同社として初の自社所有船舶であり、運航には、引き続き日本海洋事業協働するとされている。

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オーロラ・オーストラリス」の記事における「船歴」の解説

1998年スクリュー故障のため海氷閉じ込められた時、日本の南極観測船「しらせ」による砕氷曳航により救出されことがある。 「しらせ」が2008年4月の第49南極観測隊帰国後に退役となるものの、「しらせ」後継船予算不承認で就役2009年度予定より遅れたことから、2008年秋出発の第50次隊の輸送については、日本政府がこの「オーロラ・オーストラリス」をチャーターして代役とした。 2013年12月24日ロシアの耐氷貨物船「アカデミック・ショカリスキー」が南極海流氷閉じ込められた際に、「オーロラ・オーストラリス」は救助向かった中国砕氷船雪竜」が搭載ヘリコプター救出した事故船乗船者52名を収容して母港ホバート帰還した2016年2月24日にモーソン基地沖で座礁した沈没免れたものの、船体への負荷を減らすためオーストラリア観測隊の隊員物資救出には日米各国協力した。うち日本の「しらせ」は隊員66人とヘリコプター3機をケーシー基地送り届けた船齢25年達するため、代船として砕氷輸送能力をより強化した次世代砕氷船2019年就役予定)の建造計画進められている。

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アクロン (飛行船)」の記事における「船歴」の解説

1931年10月27日 就役 1932年2月22日 レイクハースト飛行場格納庫風に煽られ地面激突し尾翼破損修理に2カ月要した5月11日 飛行準備中機体急激に上昇3人の兵士ケーブルつかまったまま宙釣りとなり、うち2人墜落死した。 8月22日 レイクハースト飛行場格納庫係留中、再び尾翼破損修理1カ月要した1933年3月 同型船メイコン(ZRS-5)が就航 4月4日 12時30分頃、ニューイングランド沖合にて突風巻き込まれ墜落

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阿波丸 (初代)」の記事における「船歴」の解説

本船三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工業長崎造船所)で建造され1898年6月20日起工された。1899年7月27日進水し同年11月14日竣工した本船建造常陸丸建造経緯関係している。同じ三菱造船所建造した常陸丸リベット検査問題竣工長引き、第2船として建造予定されていた信濃丸イギリスD・Wヘンダーソン社(常陸丸設計会社)に建造変更した。その予備船として本船発注された。 当初日本イギリスを結ぶ航路就航した1914年までに横浜港シアトルを結ぶ定期便での運航定着した1930年退役した1906年12月27日に、イギリス・レッドカー(英語版)沖のウエストスカー岩礁座礁したレッドカー救命ボート隊員地元漁師活動により、死亡者はなく、18日後無事に浮上した1914年12月14日12種類・3020本のサクラ苗木積んで横浜出港した航海は、阿波丸の船歴においておそらく最も重要なのだった。傷つきやす苗木は、シアトルから保温貨車によって北米大陸横断したワシントンD.C.到着した苗木は、全米桜祭り起源一つとなった

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山汐丸」の記事における「船歴」の解説

山汐丸」は、山下汽船発注により、1944年昭和19年9月11日三菱重工業横浜船渠2TL型タンカー5番船として起工された。日本陸軍により特2TL型としての設計変更指示されたため、同型姉妹船千種丸)よりも優先的に工事進められた。同年11月14日進水1945年昭和20年1月25日海上公試1月27日竣工した船型全通飛行甲板張って船橋構造物飛行甲板下に収めた甲板型(フラッシュデッキ型)の航空母艦である。搭載機数は6機で、同時期に日本陸軍整備した空母型陸軍特殊船である「あきつ丸」「熊野丸」よりも2機少ない。陸軍機の中でSTOL性能優れた三式指揮連絡機対潜哨戒機として運用する予定であり、海上公試続いて発着試験実施されている。航空機用ガソリンとして、ドラム缶40本を搭載予定であった武装対潜艦戦闘を重視したもので、九三式水中聴音機逆探音響測深儀などを備えている。対潜迫撃砲として二式十二糎迫撃砲船首に2門搭載するためか、海軍特TL船しまね丸」よりも飛行甲板が短い事が外見上の特徴である。 陸軍指揮下で船団護衛兼用タンカーとして運用予定であったが、形式上民間船船主山下汽船のままであった竣工したものの、戦況の悪化からすで南方航路著しく危険で本来のタンカーとしては使用見込みが無いため、就役しないまま石炭焚き貨物船への改造決まった改造のため三菱重工横浜船渠において係留待機中、1945年昭和20年2月16日ジャンボリー作戦で来攻した第58任務部隊艦上機による空襲至近弾を受けて損傷する。翌17日続いた空襲で、250kg爆弾1発とロケット弾多数受けて飛行甲板大破浸水もあって着底した。直撃弾で艦尾破壊され飛行甲板上方にめくれあがっている。 終戦後1946年昭和21年3月6日には、建造途上工事中止されたまま放置され港内漂流していた標的艦大指」が、着底状態の「山汐丸」と衝突する事故起こしている。「大指」はこの衝突により浸水着底した。 7月から解体進められたが、解体中に船首折れて沈没費用的に引揚げは困難であったため、残骸岸壁一部として再利用することになった上部構造物を取り除かれ船体は、横浜船渠北部にある第7岸壁脇に配置され土砂詰めて擱座状態で固定された。通称「山汐岸壁」と呼ばれ1956年昭和31年)に建造船大型化対応した造船所拡張に伴い撤去されるまで、艤装作業用使われた。なお、2008年に、みなとみらいセンタービル建設工事の際、本船の錨が発見され、同ビルの脇の広場展示されている。

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春島丸 (特設電線敷設船)」の記事における「船歴」の解説

本船は、アメリカ陸軍スピードウェル機雷敷設船の1隻としてウィスコンシン州ミルウォーキーのファブリケーティッド造船社で1920年進水同年5月4日パナマ沿岸砲管区就役した。機雷敷設船英語版)とは、沿岸防衛機雷敷設のためにアメリカ陸軍整備していた機雷敷設艦一種である。 就役後パナマフィリピンでの沿岸防衛機雷整備従事した太平洋戦争勃発後のフィリピンの戦いにおいて、本船コレヒドール島付近日本海軍捕獲された。 捕獲後の本船特設電線敷設船春島丸として1943年7月15日佐世保鎮守府所管となり、1943年8月15日連合艦隊南東方面艦隊付属となった後で日本本土へ回航された。所属同年12月25日第四艦隊、さらに1944年2月15日横須賀鎮守府変更されている。 本土到着後の春島丸は一貫して本土近海での海底電線敷設対潜哨戒従事していた。1945年4月15日城ヶ島灯台南西7海里付近航行中アメリカ陸軍航空隊P-51戦闘機空襲受けて損傷した横須賀海軍工廠岸壁停泊して修理中だった1945年7月18日横須賀空襲遭遇した春島丸の船体中央部爆弾1発が命中船体二つ折れてその場擱座全損となった終戦後1945年9月15日除籍。なお春島丸は沈没後に引上げ復旧返還されたとする文献もある。

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セイファー」の記事における「船歴」の解説

エクソン傘下のエッソ・タンカーズ社によって発注され日立造船有明工場にてエッソ・ジャパン (Esso Japan)の船名1976年5月竣工竣工時のサイズ全長362.0m、型幅70.0mで、総トン数192,679トン載貨重量トン数406,640トンであり、動力源蒸気タービン速力は15.5ノットであり、およそ300バレル石油積載可能とされていた。 1986年イエメン国営石油企業売却売却直後引き続きタンカーとして使用されていたが、翌1987年には現在の船名改名されとともに自力航行不能貯蔵船へと改造され1988年には現在のイエメン西部都市フダイダ沖およそ4マイル北緯15度7分9.1秒 東経4235分40.2秒 / 北緯15.119194度 東経42.594500度 / 15.119194; 42.594500の地点係留された。貯蔵設備となった本船船体パイプラインにておよそ400km先の内陸都市マアリブ油田接続され内陸部産出した原油貯蔵しこれを輸送するタンカーへと積み出すFSOとして機能していた。FSOになって以降本船を含む設備は、地元企業Safer Exploration and Production Co. 社によって管理されていた。

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凌風丸 (気象観測船・初代)」の記事における「船歴」の解説

竣工した凌風丸」は、離島への観測拠点設営補給物資運搬洋上観測などに予定通り使用された。1941年まで40回の航海実施した1941年昭和16年)に太平洋戦争勃発すると、本船同年12月24日日本海軍借用され横須賀鎮守府所管海軍一般徴用船(測量船観測船)となり、横須賀鎮守府水路部配属以降海軍管理下で気象観測輸送任務従事した自衛のための武装施され最終段階では短8cm砲1門を船尾に、船橋上に13mm機銃92式7.7mm機銃装備した状態だった。輸送船大半沈んだマタ30船団参加するなど危険な航海経験したが、無事に終戦の日迎えた1945年昭和20年8月海軍から中央気象台返還された「凌風丸」は、再び各種気象観測観測支援活躍した運航際しGHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-R009の管理番号与えられた。1946年昭和21年)には、鳥島設営班を輸送して観測所再建行っている。中央気象台気象庁改組した後も運用続けられたが、老朽化により1965年昭和40年)に代船として2代目の「凌風丸建造決まり2代目竣工する交代して1966年昭和41年6月21日退役し同年12月24日香川県内海町にて解体された。なお、「凌風丸」の名は、1995年平成7年就役3代目にも受け継がれている。

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神戸丸 (東亜海運)」の記事における「船歴」の解説

1939年昭和14年11月9日三菱重工業長崎造船所にて第796番船として起工 1940年昭和15年6月7日進水 1940年昭和15年9月初旬長崎港三重沖の標柱間にて試運転実施し最高速力21.572ノット最高出力15,256馬力記録したこの際、浅い喫水本船で、最大出力推進器を高回転させたにもかかわらず船体は特に振動を起こさなかったという。 1940年昭和15年10月19日竣工 1940年昭和15年10月31日就航午前11時に 長崎港出港し上海へ向かう。 ※以降長崎丸、上海と共に長崎上海間を結ぶ定期航路上海航路就航した1942年昭和17年5月船舶運営会設立とともに、同会の使用船となる。 1942年昭和17年11月10日 午前11時(推定):定刻通りであれば上海に向け長崎港出港。この航海での、乗客571名(客として、海軍士官長崎税関職員大東亜省職員乗船)、乗組員船長以下175名。合計746名。 1942年昭和17年11月11日午前5時25分:上海から鉄鉱石積み横浜向かっていた日本郵船所属貨物船天山丸」が、長崎から上海へ向け航行中神戸丸右舷衝突し火災発生1942年昭和17年11月11日午前6時00分:神戸丸沈没北緯3123分0秒 東経12410分0秒 / 北緯31.38333度 東経124.16667度 / 31.38333; 124.16667、水深75m) 1942年昭和17年11月11日午前8時35分:天山丸沈没同上)。同船乗員49名は全員救助される付近航行中の「龍田丸」、「雲仙丸」、「日喜丸」が溺者救助行い東亜海運株式会社所属の「鳴戸丸」、駆逐艦」、その他漁船等と航空機九七式大艇等)により不明者の捜索活動が行われた。 13日付で大東亜省集計した結果生存者641名(うち船員156名)。死者56名(うち船員11名)。行方不明49名(うち船員8名)。 神戸丸天山丸事故は、後日調査結果戦時制限航路内で、無灯火航海強いられ起こった戦争海難認定され、両船の不可抗力認められた。

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しきしま (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1992年4月8日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。 竣工直後11月には、フランスシェルブールから日本の東海港までプルトニウム輸送するあかつき丸」の護衛あたった。なお、この護衛任務の際、シェルブール出港直後環境運動家抗議船に体当たりされて軽微な損傷受けたが、任務遂行支障はなかった。 上記のように、本船はもともとこの護衛任務のために建造されたものであったが、第2回目以降輸送行われなかったため、以後は他のヘリ巡と同様の業務従事することになった。また特に長大航続距離活かして広域哨戒東南アジア諸国への派遣尖閣警備などに活用された。その後2018年3月25日には鹿児島海上保安部第十管区)に配属替えとなった本船当初延命・機能向上工事により延命する予定であったが、検査結果予想以上に老朽化進んでいることが判明し令和3年度補正予算で代船が建造されることとなった

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船歴

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山陽丸 (特設水上機母艦)」の記事における「船歴」の解説

山陽丸」は三菱重工業長崎造船所建造され1930年昭和5年10月31日竣工後、翌11月処女航海行いニューヨーク航路就航する航路の主要搭載品は生糸であったが、冷凍マグロ搭載する事もあった。後にはヨーロッパ航路にも配船され、第二次世界大戦勃発後も引き続き就航するが、イギリスによる拿捕危機はらみつドイツからの貨物搭載して日本に帰国する事もあった。1941年昭和16年5月2日神戸出港した航海最後商業航海であり、帰国後の8月6日日本海軍に徴傭され横須賀鎮守府籍となる。8月15日特設水上機母艦として入籍後、艤装工事受けた9月30日第十航空戦隊に編入11月22日第十航空戦隊は佐世保出港し11月27日三亞到着太平洋戦争緒戦では第十航空戦隊の「山陽丸」、「神川丸」と第九根拠地隊の「相良丸」で馬来部隊第二航空部隊編成しマレー半島の上作戦参加した。その任務船団護衛泊地警戒および陸戦支援であった。「山陽丸」はリエム湾へ進出し、その水上機船団護衛索敵従事した12月9日、「山陽丸」はプロコンドル島向かったマレー沖海戦のあった12月10日カムラン湾から「山陽丸」と「神川丸」の水上機索敵行いプロコンドル島到着した山陽丸」もその搭載機索敵に向かわせていたが、これらはイギリス艦隊発見できなかった。 1942年昭和17年)に入ってからは「神川丸とともに蘭印作戦転じ1月タラカン島およびバリクパパン攻略戦支援にあたる。2月にはジャワ島西部上陸する第十六軍今村均中将主力援護務め3月下旬にはメルギー英語版)を拠点として水上機基地設営マラッカ海峡警戒およびアンダマン諸島攻略作戦援護行った5月小スンダ列島戡定作戦参加7月下旬タニンバル諸島平定戦に協力した後、「山陽丸」はガダルカナル島の戦い始まったのをきっかけソロモン諸島方面へと転戦する。 「山陽丸」はショートランド到着の後、ガダルカナル島方面航空作戦支援を行うが、11月21日未明トラック諸島向けてショートランド出港した直後アメリカ潜水艦スティングレイ (USS Stingray, SS-186) に発見された。スティングレイ魚雷を4本発射し3本回避したものの残る1本が船体後部命中して航行不能となる。「山陽丸」は駆逐艦高波天霧」、特設水上機母艦讃岐丸」(日本郵船、9,246トン)などの支援受けてショートランド引き返し応急修理開始された。しかし、度重なる空襲影響で避泊地をしばしば変更し12月21日には爆撃によって船体後部構造物被弾し損傷する1943年昭和18年1月9日、「山陽丸」は特務艦鶴見」に曳航されてショートランド出港し1月17日トラック到着工作艦明石」による修理受けた後、特設給兵船興業丸」(岡田商船、6,353トン)に曳航されて呉に帰投本格的な修理に入る。その後10月1日付で特設運送船雑用甲)に類別変更された。 特設運送船となった山陽丸」は、トラックおよびマリアナ諸島方面への輸送任務に就く。1944年昭和19年3月20日東松三号特船団加わって館山出港し3月28日トラック到着4月入り、「山陽丸」はサイパン島メレヨン島への輸送を行う。この間護衛駆逐艦「雷」務めたが、「雷」4月13日午後にアメリカ潜水艦ハーダー」 (USS Harder, SS-257) の雷撃により沈没したサイパン島経由4月26日横浜帰投後、5月13日、「山陽丸」はヒ63船団加入して門司出港5月18日マニラ到着後にヒ63船団分離し軍需品搭載してハルマヘラ島へ向かう。セブ寄港の後、ハルマヘラ島カウ湾に向けて航行中5月26日16時25分、北緯0246東経12421分 / 北緯2.767度 東経124.350度 / 2.767; 124.350のマナド北方海域アメリカ潜水艦カブリラ (USS Cabrilla, SS-288) の魚雷攻撃受けた。カブリラは魚雷を6本発射し、うち2本が4番船倉と6番船倉(右舷艦尾機関部とも)付近に命中航行不能となった。「山陽丸」は船尾から徐々に沈みはじめ、下士官兵達は酒保からサイダー菓子持ちだして最後の宴会を開いたという。その頃になって応急処置命令出されるが既に右舷45度傾斜しており、手遅れであったという。「山陽丸」は1940分に沈没した7月10日除籍および解傭された。

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あきつしま (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

2013年11月28日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。 2015年平成27年4月8日9日天皇・皇后パラオ行幸啓において、本船宿泊施設として用いられた。これはパラオ国際空港訪問先ペリリュー島離れすぎることや移動ヘリコプター用いことによる選定で、天皇外国訪問海上保安庁巡視船使われるのは初めてのことである。これに合わせて本船は、高齢となった天皇・皇后利用する可能性のある船内設備スロープ手すり設置するなど、可能な限りバリアフリー化図った。また個室である船長室に大きめベッド入れて2人泊まれるようにし、トイレ温水洗浄便座変更するなどの小改装が行われた。

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りゅうきゅう (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

第26回主要国首脳会議沖縄サミット)を受けて建造されることになり、2000年3月31日竣工して、第十一管区海上保安本部配属された。船名琉球国由来するその後那覇海上保安部新設伴って2013年05月16日にはこちらに配属替えされた。

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エンプレス・オブ・エイジア」の記事における「船歴」の解説

エンプレス・オブ・エイジア」は、姉妹船の「エンプレス・オブ・ロシア(英語版)」とともにイギリス船会社カナディアン・パシフィック・ライン(英語版)(カナダ太平洋汽船CPL社)により太平洋航路向けの高速客船として建造された。CPL社はカナダ太平洋鉄道海運部門で、1887年以来カナダ横断鉄道接続する太平洋横断航路運航していた。同社は、1891年頃に太平洋航路へ「ホワイト・エンプレス」と讃えられる洗練された白い船体の客船3隻「エンプレス・オブ・チャイナ(英語版)」「エンプレス・オブ・インディア(英語版)」「エンプレス・オブ・ジャパン(英語版)」を次々投入したことで知られ本船同様にエンプレス」から始まる船名与えられた。 「エンプレス・オブ・エイジア」の建造は、イギリスグラスゴーにあるフェアフィールド・シップビルディング・アンド・エンジニアリング・カンパニー(英語版)の造船所行われ1913年5月竣工した1941年時点の要目は、総トン数16,909トン長さが570フィート1インチ(128.9m)、幅が68フィート2インチ(20.8m)、深さ42フィート(12.8m)である。動力蒸気タービン機関4基を搭載し、4基のスクリュー推進した船体特徴として、船尾形状当時商船一般的なカウンタースターンではなく、クルーザースターンを採用していた。 竣工したエンプレス・オブ・エイジア」は、姉妹船「エンプレス・オブ・ロシア」とともにCPL社の下でカナダのバンクーバー香港など極東を結ぶ航路投入された。1914年5月には、サミュエル・ロビンソン船長の下で、太平洋横断世界最速記録9日間・2時間15分と、1日間の航行距離最大記録473海里(約876km、速度にして約19.7ノット)を達成した1914年8月第一次世界大戦が始まると、「エンプレス・オブ・エイジア」と「エンプレス・オブ・ロシア」はただちにイギリス海軍徴用され、仮装巡洋艦改装された。両船は、イギリス海軍日本海軍ロシア海軍正規巡洋艦とともにインド洋で、ドイツ海軍巡洋艦エムデン追撃戦参加した停戦成立後には、故郷へ帰還するカナダ海外派遣軍将兵輸送した。 「エンプレス・オブ・エイジア」は第一次世界大戦生き延び姉妹船「エンプレス・オブ・ロシア」とともに太平洋航路復帰した。なお、1922年CPL社は同航路に、一回り大型新造客船「エンプレス・オブ・カナダ」も投入している。第一次世界大戦契機経済発展した極東は、西欧人からの関心高まっており、太平洋航路大西洋航路及びインド洋航路と並ぶ世界一周ルート一部として、新鋭客船次々と就航するようになっていた。 第二次世界大戦において、「エンプレス・オブ・エイジア」はイギリス海軍によって再び徴用され、軍隊輸送船として使用されることになった。しかし、後述のとおり、1942年2月5日護送船団加入してシンガポール到着寸前日本軍の空襲により撃沈された。

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暁征丸」の記事における「船歴」の解説

本船は、蔣介石政権中華民国砲艦として、イギリス統治下の香港九龍ドック英語版)で起工された。しかし、建造中に太平洋戦争勃発し開戦直後1941年昭和16年12月起きた香港の戦いにおいて日本陸軍によって鹵獲された。日本陸軍本船陸軍船舶兵(暁部隊)用の砲艦として使用することを計画し大阪鉄工所派遣要員により建造続行高射砲野砲などの火砲のほか、爆雷や「す号」「ら号」と称するソナーなどの対潜兵装搭載して竣工させた。船名は「暁征丸」と命名された。船名「暁」頭文字が付くのは船舶司令部直接管理した鹵獲船舶共通する命名法である。船種は「警備艇」と呼称されている。 1942年昭和17年11月に、同じく香港鹵獲された「暁南丸」(東亜海運運航)の船員徴用して「暁征丸」の乗員充当することになった1944年昭和19年4月上旬日本陸軍日本海軍とは別に陸軍独自の護送船団運航するため、船舶砲兵第2連隊自衛船隊新設。「暁征丸」はそのうちの第1護衛船隊配備された。第1護衛船隊本船のほか「錦州丸」(370トン)、「第三警南丸」(50トン)および強力曳船円島丸」(300トン)・「准河丸」(300トン)で構成された。自衛船隊兵装操作する船砲隊員船舶砲兵第2連隊の第17-19中隊野砲中隊)と爆雷中隊人員主力とし、「暁征丸」の船砲隊長には前田中尉着任した本船同年5月下旬シンガポールからマニラまで最初護衛航海実施した。ついで同年6月頃に、マニラから高雄港貨物船大倫丸」(大阪商船:6862総トン)を護衛したが、バシー海峡時化エンジン故障のため落伍し後れて目的地着いた同年8月中旬までマニラ拠点ルソン島沿岸での護衛担当し8月下旬からはボルネオ島移動して同島アピサンダカン航路を3往復した1944年後半アメリカ軍フィリピン反攻が迫るとさらに南へ撤退その後ジャワ島スマトラ島方面での護衛任務従事した例え1945年昭和20年3月24日から4月11日にかけてシンガポール発・パダン経由ジャカルタ行き船団を「第3警南丸」と護衛した同年6月下旬にはスマトラ島東南端バリンビン沖で浮上襲撃してきた敵潜水艦交戦し護衛中800トン級の輸送船撃沈されてしまった。第1護衛船隊所属船のうち「錦州丸」(南満州鉄道238総トン)は1944年8月7日アメリカ潜水艦セイルフィッシュ」によって撃沈されたが、本船終戦まで沈没免れた1945年の日本降伏後本船連合国軍指示ジャカルタからレンバンへの日本兵輸送担当その後オランダ軍によって鹵獲された。「ルイメス」(Hr.Ms. Luymes、音写表記暫定)と船名改め観測船(Opnemingsvaartuig)として使用された。

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ゴールデン・ハインド」の記事における「船歴」の解説

イングランド女王エリザベス1世は、マゼラン海峡通過し南米大陸西海岸探検するフランシス・ドレーク遠征隊への支援決めたドレークは、この探検自身女王利益もたらす同時にスペイン最大損害与えることを約束した出港前にドレーク女王拝謁し、「スペイン王これまでイングランド受けた多くの傷の代償を払わせます」と誓ったドレーク遠征隊の表向き目的は、「新し航路発見」だった。 しかし、彼らはエリザベス1世からの非公式な支援得て私掠船団として行動したドレイク遠征隊は1577年12月総員164名で5隻の小型船出航し1578年初頭ブラジル海岸到着した1579年3月1日ゴールデン・ハインド現在のエクアドル沖の太平洋上でスペインガレオン船聖母マリア号(英語版)」を襲撃し、これを拿捕した。この船には26tの銀、500kgの黄金のほか磁器宝石硬貨など総額36ペソ2017年試算で約4億8千万ポンド)の財宝積まれており、これらを積み替えるだけでも6日間要したという。 1580年9月26日ドレーク80名の乗員56人と戦利品乗せたゴールデン・ハインドプリマス向けて出港させた。帰国した船はプリマス近くのサルタッシュ城で王家衛兵監視の下で荷降ろし行った積荷中には当時は同じ重さの金と交換取引されていたモルッカ諸島産のクローブ6tも含まれていた。積荷売り上げ遠征隊に出資され総額47倍の利益出し出資に応じて配分された。その内半分にあたる30ポンドエリザベス1世国庫納められ女王個人取り分だけでも16ポンド達した。その資金当時イングランド政府抱えていた負債清算され残金国策会社レヴァント会社投資され同社イギリス東インド会社の基となった1581年4月4日エリザベス1世ゴールデン・ハインド訪れ船上においてドレイクへのナイト称号の授与式が執り行われた。ゴールデン・ハインドその後エリザベス1世意向により、テムズ川河口に近いデトフォード(英語版)に記念艦として保存された。 ゴールデン・ハインドエリザベス1世亡くなってから45年後の1650年頃までデトフォードに係留され最終的に船体朽ちてしまったことから解体された。

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サセックス (客船)」の記事における「船歴」の解説

ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で建造され1896年4月30日進水。ニューヘイブン・ディエップ航路就航し処女航海1896年7月31日であった1914年フランスのCompagnie des Chemins de Fer de ltat Français売却される第一次世界大戦中航路ニューヘイブンからではなくフォークストン変更され1916年3月24日フォークストンからディエップへ向け航行中サセックスドイツ潜水艦UB29に雷撃された、サセックス船橋より前を失う大きな被害受けた乗員53人、乗客325人中少なくとも50人が死亡したサセックスブローニュ=シュル=メールへと曳航された。 犠牲者にはスペイン作曲家エンリケ・グラナドスとその妻などがおり、負傷者にはワイルダー・ペンフィールドなどのアメリカ人もいた。 アメリカ人死者はいなかったもののアメリカ世論怒りアメリカドイツ間の外交問題となった1916年5月ドイツSussex pledge呼ばれる宣言出し潜水艦戦での一部制限撤廃武装商船への無警告攻撃許可)を取りやめることとなった戦後1920年ピレウスのD Demetriadesへ売却されてAghia Sophia改名火災により損傷し1921年解体された。

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ダニエル・カサノバ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

1989年就航した初代ダニエル・カサノバの代船として、フィンカンティエリ アンコーナ建造され、は2001年に「メディテラネ」の名で建造され2002年7月5日、SNCMのマルセイユ - アジャクシオ間に就航ナポレオン・ボナパルト似た船として設計されました。2016年にコルシカ・リネアに移籍しマルセイユ - チュニスマルセイユ - アジャクシオ間に就航

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東京丸 (日本海軍)」の記事における「船歴」の解説

元はニューヨークで1854年(安政元年)に竣工した木造汽船アンクルサム(UNCLE SAM)。

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ちくぜん (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1983年9月28日竣工し福岡海上保安部第七管区)に配属された。船名筑前国由来する1999年発生した北朝鮮による能登半島沖不審船事件出動ヘリ搭載という利点生かし洋上特殊警備隊SST)が乗船したまた、20ミリ機関砲による警告射撃行っている。 その後尖閣領海警備専従体制構築伴って2013年10月2日本船那覇海上保安部第十一管区)に配属替えとなり、沖縄県因んでおきなわ」と改名した平成26年度予算延命・機能向上工事費が認められ2014年から2015年にかけて工事受けた

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大成丸 (4代)」の記事における「船歴」の解説

3代目大成丸の代船として三井造船玉野事業所建造され2014年3月31日竣工した2代目大成丸から船内展示されている、初代大成丸の銘鈑も引き継がれた。

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ノーマン・アトランティック」の記事における「船歴」の解説

アケマン・ストリートとしてイギリスのアーミン・ストリート・シッピング向けに2009年にイタリアポルト・ヴィーロのカンティエーレ・ナヴァーレ・ヴィセンティーニで建造されたが、同社取得せずイタリアのヴィセマール・ディ・ナヴィガジオーネが取得した2010年2月から4月にかけてはT-Linkに傭船され、2011年5月マルタ共和国バレッタ改装6月よりサレマールが傭船し、シントゥと改名した2013年1月グランデ・ナビ・ヴェローチ、4月モビー・ラインズと傭船先を変え10月LDラインズにより傭船され、2014年1月ノーマン・アトランティック改名した2014年8月29日航海持ってLDラインズとの契約終了し9月から10月までカロンテ&ツーリスト傭船その後ANEKラインズによって傭船された。

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海王丸 (2代)」の記事における「船歴」の解説

初代海王丸後継として、1989年平成元年)に全通船楼甲板船として就航したのが海王丸II世である。 先代海王丸比べて大型化がなされ、また、日本丸II世で培われた建造技術をさらに進歩させ、帆走時には抵抗となるプロペラ迎え角水流に平行とすることにより抵抗減少させるフェザリング機能有する可変ピッチプロペラ採用などにより日本丸II世をしのぐ帆走性能得た。その年で最速帆船贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1990年1991年1994年1995年と4回受賞日本丸II世3回受賞)している。なかでも1995年には124時間で1394マイル帆走する記録打ち立てている。 海王丸II世国有ではなく民間寄付により建造された。 公益財団法人海技教育財団所有しており、独立行政法人海技教育機構用船契約される形で運航されている。海技教育財団が、一般社会人向け体験航海遠洋航海コース実施しているが、海事教育機関練習船であるため、実習生参加人数により一般募集少なくなる場合もある。 補足として、日本丸II世との外見違いは「船首像」「船体ライン数」「救命艇形状」「後部フード舵輪屋根)の形状」である。

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カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ (客船)」の記事における「船歴」の解説

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」はシュテッティンフルカン・シュテッティン造船所建造され1897年5月4日進水同年9月19日ブレーマーハーフェン - ニューヨーク間で処女航海行った1900年6月ホーボーケンの港で大規模な衝突事故発生し、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」は客船メイン」、「ブレーメン」、「セール」と衝突した。この事故161名の乗務員死亡した。その6年後、1906年11月ロイヤルメール社の客船「オリノコ」と衝突し、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」の乗客が5名死亡船体には幅21m、高さ8m巨大な穴が開いた。この事故海難審判では、「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」に責任があるとされた。

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シュプレーヴァルト (船)」の記事における「船歴」の解説

1924年4月28日エムデン座礁翌日離礁した。 第二次世界大戦勃発すると、中国の旅順で抑留された。1941年抑留から解かれ10月21日大連より出航天然ゴム3,365トン、錫230トンタングステン20トンおよびキニーネ積載していた。ドイツへ向かう途中で補給船「クルマーラント」と出会い仮装巡洋艦コルモラン」により沈められた船の生存者であるイギリス人捕虜86名が「シュプレーヴァルト」へ移された。 1942年1月31日フランスボルドーへ近づいていた「シュプレーヴァルト」はイギリス船と誤認されドイツ潜水艦「U333」(ペーター=エーリヒ・クレーマー艦長)から雷撃受けた。「U333」は魚雷2本を発射し、「シュプレーヴァルト中央部命中。「シュプレーヴァルト」は激しく炎上しゆっくりと沈没した沈没地点北緯45度12西経2450分 / 北緯45.200度 西経24.833度 / 45.200; -24.833座標: 北緯45度12西経2450分 / 北緯45.200度 西経24.833度 / 45.200; -24.833であった生存者の捜索活動は「U333」および「U575」、「U123」によってすぐに開始され、「U701」、「U582」、「U332」、「U105」と空軍Fw 200加わった。 「U105」によって乗員25名と捕虜55名が救助されたが、72名が死亡したクレーマー軍法会議かけられたが無罪となった

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ラコニア (客船・2代)」の記事における「船歴」の解説

1922年5月25日サウサンプトンからニューヨークへ向けて処女航海出発1923年1月最初の世界一周航海出発した。その130日にわたる航海では22の港に寄港した1934年9月23日、濃い霧の中ボストンからニューヨークへ向かって航行中に、アメリカ貨物船衝突事故起こした第二次世界大戦勃発した直後1939年9月4日、「ラコニア」は海軍徴用されて仮装巡洋艦となった1940年1月23日金塊載せてポートランドハリファックス向けて出発。それから大西洋で船団護衛従事した6月9日ハリファックス座礁し7月終わりまで修理費やしたその後兵員輸送船改装され中東へ兵員輸送任務従事した1942年9月12日イタリア人捕虜乗せて航行中ラコニアは、アセンション島北北東130マイルドイツ潜水艦「U156」に攻撃された。午後8時10分、右舷に1本の魚雷命中し、9時11分に沈没した。「U156」を含むドイツとイタリア潜水艦ヴィシー・フランス政府軍艦共同生存者救助作業あたったが、アメリカ軍機がそれを攻撃し救助された人の一部死亡した。なお、「ラコニア」のルドルフ・シャープ船長は、連合国商船の中で最大犠牲者出した「ランカストリア」が撃沈された時の船長でもあった。 詳細は「ラコニア号事件」を参照 この事件テレビドラマ化もされている(邦題は『Uボート156たちの決断』または『ラコニア知られざる戦火奇跡』)。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 16:22 UTC 版)

メディテラネ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

「メディテラネ」は1988年に「ダニエル・カサノバ」の名で建造され1989年5月13日、SNCMのマルセイユ - アジャクシオ間に就航2002年新しいダニエル・カサノバに置き換えられました、「メディテラネ」に改名マルセイユ - チュニスマルセイユ - アルジェ間に就航2016年にコルシカ・リネアに移籍し

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あきつ丸」の記事における「船歴」の解説

1939年11月 - 播磨造船所にて起工1941年9月 - 進水1942年1月 - 竣工同時に陸軍徴用2月 - 蘭印作戦動員3月 - 蘭印作戦ジャワ上陸戦参加1942年3月-1944年4月 - 南方各地対し数々輸送任務を行う。 1944年4月-7月 - 播磨造船所にて改装航空機運用能力強化8月6日-11月6日 - 主に日朝間にて洋上対潜哨戒任務を行う。 11月9日 - 日本帰還11月14日 - フィリピンへの軍隊輸送のため、ヒ81船団加入し日本出港11月15日正午頃 - 五島列島沖においてクイーンフィッシュ雷撃沈没

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さんらもん丸」の記事における「船歴」の解説

三菱商事が「さんぺどろ丸」級タンカー改良型として、1935年昭和10年)に三菱重工業長崎造船所建造したタンカーで、「さんらもん丸」級2隻の1番船である。同型船としては、2番船の「さんくれめんて丸」があるほか、準同型の「さんぺどろ丸」級として「さんぢゑご丸」「さんるいす丸」「第一小倉丸」「第二小倉丸」が建造されている。 竣工後は主に北米横浜間の石油輸送従事していたが、アメリカ石油輸出制限後は目的地ボルネオ島変更された。太平洋戦争勃発直後1941年昭和16年12月23日日本海軍により徴用され、海軍一般徴用船となった1943年昭和18年9月1日には特設運送船(給油船)に移籍した1943年昭和18年11月4日ボルネオミリ原油10,600トン積み途中で221船団加わって日本目指したが、済州島から門司航行中11月27日午前0時過ぎにアメリカ潜水艦シーホース雷撃遭い右舷被雷。さらに午前1時半には左舷にも被雷し、約10分後に沈んだ船長含め28名が戦死した

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ジロラッタ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

スウェーデンランズクルーナ造船された。1995年6月9日にミノアン・ラインスに引き渡され7月8日パトラアンコーナ航路就航2002年にラ・メリディオナーレに買収され、「ジロラタ」と改名された。マルセイユバスティアマルセイユアジャクシオ路線就航する2019年10月アジャクシオへの道の途中でコルシカ・リネアという会社置き換えられる。ジロラタはその後チビタベッキアパレルモの間でイタリア会社GNVによってチャーターされた。

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岩木丸 (1942年)」の記事における「船歴」の解説

北日本汽船から播磨造船所発注され1941年3月15日播磨造船所相生工場建造番号303番船として起工1942年4月28日進水6月29日同所竣工1942年12月8日横須賀在泊中に海軍省により徴傭され用途雑用横須賀鎮守府所管となる。同日東京へ回航11日大井同日鳥羽14日呉、16日大阪19日門司23日大連31日所安群島それぞれ寄港1943年1月5日横浜11日室蘭19日函館22日東京26日横須賀それぞれ寄港2月2日父島6日硫黄島28日父島それぞれ寄港3月4日横須賀11日函館12日小樽16日函館20日東京27日小樽31日函館それぞれ寄港4月3日東京13日小樽18日油谷湾20日大阪22日広畑26日八幡29日長崎それぞれ寄港5月2日佐世保7日群山10日青島19日徳山23日大阪28日門司29日釜山それぞれ寄港6月6日大湊11日函館16日釧路21日択捉島天寧25日松輪島27日幌筵島武蔵湾、30日占守島長崎湾にそれぞれ寄港7月1日占守島片岡湾、5日武蔵湾、7日幌筵島擢鉢湾、8日武蔵湾、24日小樽26日函館31日青森それぞれ寄港8月4日小樽9日片岡湾、12日武蔵湾、20日擢鉢湾、31日幌筵島乙前湾にそれぞれ寄港9月5日函館9日青森同日大湊16日小樽それぞれ寄港20日から21日まで神風の護衛を受ける。21日武蔵湾、同日擢鉢湾、30日武蔵湾にそれぞれ寄港10月11日片岡湾、13日擢鉢湾、17日武蔵湾、18日片岡湾にそれぞれ寄港20日石垣護衛を受けカニ漁母船笠戸丸とともに幌筵発。24日小樽26日函館31日青森それぞれ寄港11月4日小樽10日片岡湾、12日武蔵湾にそれぞれ寄港武蔵湾在泊中の16日北日本汽船大阪商船合併23日擢鉢湾に寄港12月15日片岡湾、23日武蔵湾にそれぞれ寄港1944年1月19日釧路25日室蘭31日六連それぞれ寄港2月2日大阪4日相生それぞれ寄港7日から3月30日まで播磨造船所入渠修理実施4月1日徳山7日門司9日美保関10日舞鶴13日大湊14日室蘭24日大湊それぞれ寄港5月3日片岡湾に寄港5日神風の護衛を受け大湊へ向け幌筵発。10日大湊同日函館13日大湊19日小樽それぞれ寄港20日、ネ船団加入し松輪島へ向け小樽発。24日松輪島着。31日松輪島出港したが、同日松輪島大和湾に帰着6月1日大和湾で揚陸中、湾内侵入したアメリカ潜水艦ヘリング攻撃受けて魚雷2本が命中し沈没した沈没の際、船員30名が犠牲となった

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さらわく丸」の記事における「船歴」の解説

本船は、第一次戦時標準船1TM型の8番船として、三菱重工業横浜造船所建造された。1943年7月12日起工し1943年10月14日進水し1943年11月20日竣工した船名の「さらわく丸」は三菱汽船所有船の「石油産出地名+丸」という命名慣例沿っており、ボルネオ島にある石油産出地ミリ所在するサラワク州由来する竣工同時に民需用が建前船舶運営会使用船となり、軍の徴用受けないまま軍事輸送従事する陸軍配当船に指定され陸軍配当番号5091番が付与された。 公試後門司に移動したさらわく丸は、12月13日特設運送船(給油船)第二小倉丸日本石油、7,311トン)、応急タンカー第3伏見丸(増田合名所有/三井船舶運航、4,292トン)、貨物船ばたびあ丸(大阪商船、4,393トン)、1K型戦時標準貨物船鈴丸日産汽船、5,396トン)、特設運送船広田丸(日本郵船、2,922トン)等輸送船14と共に高雄行きの第121船団編成し、第33号掃海艇駆逐艦汐風の護衛受けて門司出港。しかし、17日夜、沖縄本島南方洋上航行中船団は米潜水艦アスプロ(USS Aspro, SS-309)に発見される。2226、北緯2410東経12440分 / 北緯24.167度 東経124.667度 / 24.167; 124.667の地点アスプロ大型タンカーとそれに隣接して航行している貨物船向けて艦尾発射管から魚雷発射魚雷2本は日鈴丸向かってきたが、同船回避成功。しかし、さらわく丸ほかタンカー1隻に魚雷1本ずつが命中しどちらも損傷した。汐風は爆雷20発を投下するも、アスプロ取り逃がしてしまう。20日船団高雄到着するその後さらわく丸27日シンガポールのセレター軍港到着し、第101工作部修理を受ける。 修理完了後の1944年1月8日さらわく丸重油積み込み逓信省標準船TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)、特設運送船能代丸(日本郵船、7,189トン)、貨客船ろんどん丸(大阪商船、7,104トンと共に28船団編成し海防艦松輪護衛シンガポール出港16日0230、松輪対潜掃討のために船団から分離する船団高雄先行。2240に対潜掃討終了した松輪合流し高雄出港17日2240、船団門司到着した積荷降ろした後、3月1日特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)、逓信省標準船B型貨物船改装応急タンカー千代田丸(日本郵船、4,701トン)、応急タンカー愛宕丸日本郵船、7,542トン)、海軍配当船で、逓信省標準船C型貨物船改装応急タンカー日達丸(日産汽船、2,859トン)等輸送船10と共にモタ07船団編成し駆逐艦天霧、第30号掃海艇護衛受けて門司出港4日1300駆逐艦朝顔合流5日朝顔分離する7日北陸丸が機関故障により後落するも、後に復帰する8日台湾北方沖合貨客船帝香丸(帝国船舶所有/大阪商船運航、8,009トン/旧仏船Cap Verlla)、貨物船山萩丸(山下汽船、5,429トン)が基隆へ向かうため分離9日1440船団高雄到着した16日1K型戦時標準船日置丸(日産汽船、5,320トン)、貨客船顕正丸(拿捕船/大阪商船委託、4,644トン/元英船Hinsang)等輸送船9隻と共にタサ10船団編成し特設砲艦長寿山丸(朝鮮郵船、2,131トン)の護衛受けて高雄出港20日日置丸他輸送船1隻が楡林に向かうため分離21日船団カムラン湾到着した22日船団カムラン湾出港し23日1000サンジャック到着した24日顕正と共にサシ13A船団編成し護衛受けずサンジャック出港27日船団シンガポール到着した4月8日重油積み込んださらわく丸は、大鳥山丸、姉妹船あさなぎ丸石原汽船、5,141トン)、第2日南丸(飯野海運、5,227トン)等輸送船6隻と共に56船団編成し駆逐艦呉竹水雷艇海防艦松輪護衛受けてシンガポール出港11日船団サンジャック到着し、ヒ54船団合流する14日0800船団サンジャック出港し19日高雄寄港24日1930に船団門司到着した積荷降ろした後、5月3日特設運送船(給油船)建川丸川崎汽船10,090トン)、大鳥山丸、特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船10,020トン)等輸送船9隻と共に61船団編成し空母大鷹駆逐艦響、電、海防艦佐渡第5号海防艦第7号海防艦第13号海防艦護衛受けて門司出港同日朝顔合流する4日2TL型戦時標準タンカー仁栄丸(日東汽船10,241トン)が機関故障により高雄へ向かう。7日朝顔船団から分離し高雄に向かう。8日朝、北緯1919東経12000分 / 北緯19.317度 東経120.000度 / 19.317; 120.000のルソン海峡航行中船団は米潜ホー(USS Hoe, SS-258)に発見されるホーは8,000トン輸送船に対して魚雷を4本、4,000トンタンカーに対して魚雷を2本発射魚雷2TL型戦時標準タンカーあかね丸石原汽船10,238トン)に命中してこれを撃破したあかね丸第7号海防艦護衛高雄移動する9日船団マニラ到着した第7号海防艦高雄出港した後ミ03船団合流してマニラまで護衛行いマニラでヒ61船団合流した11日あ号作戦準備のため、建川丸日栄丸、特設運送船(給油船)で、1TL型戦時標準タンカーのあづさ丸(石原汽船10,022トン)がバリクパパンに向かうべく分離12日船団マニラ止まり陸軍徴用船瑞穂丸大阪商船、8,506トン)を分離し海防艦倉橋加えてマニラ出港18日船団シンガポール到着した23日重油積み込んださらわく丸は、大鳥山丸、能代丸、逓信省標準船TM型タンカー日南丸(飯野海運、5,175トン)等輸送船7隻と共に62船団編成し空母大鷹海防艦倉橋佐渡第5号海防艦第7号海防艦第13号海防艦護衛受けてシンガポール出港29日船団マニラ到着する6月1日0400、船団マニラ出港し8日未明六連島泊地到着。後、0230に門司到着した船団はここで解散となり、さらわく丸門司出港9日厳島到着した積み荷降ろした後の11日厳島出港して因島到着18日因島出港し、翌19日宇品到着した20日さらわく丸陸軍兵士444名を乗せて宇品出港し同日中に門司到着同日1930、大鳥山丸、第二日南丸、特設運送船(給油船)で1TL型戦時標準タンカーみりい丸三菱汽船10,565トン)等輸送船11と共に67船団編成し駆逐艦呉竹急設網艦白鷹海防艦平戸倉橋第5号海防艦第13号海防艦駆潜艇63号駆潜艇護衛受けて門司出港29日北緯1713東経11818分 / 北緯17.217度 東経118.300度 / 17.217; 118.300のルソン島サンフェルナンド沖を航行中船団は米潜バング(USS Bang, SS-385)に発見される。1517、バング船団向けて魚雷を5本発射さらわく丸左舷船首魚雷1本が命中し船首部分が大破油槽1つ使用不能となる。輸送中の陸軍兵士3名が戦死し23が行不明となる。また、みりい丸左舷船橋下に魚雷1本が命中し船首深く沈めてしまう。それでも、2隻とも沈没免れた30日駆逐艦朝顔第2号海防艦船団合流同日中に船団マニラ到着しさらわく丸船団から分離兵員降ろしたカヴィテにある第103工作部回航されて応急修理を受ける。 24日応急修理完了した後、さらわく丸2TM型戦時標準タンカーせらむ丸(三菱汽船、2,858トン)がマニラ陸揚げした原油2,000トン積み込み8月7日出港16日基隆到着20日基隆出港し26日門司寄港した後、27日岩国到着して積荷降ろし輸送任務完了した油槽1つ失いながらも貴重な原油輸送したこの行動はのちに運輸通信大臣から表彰された。28日岩国出港して29日神戸到着31日神戸出港9月1日第46号哨戒艇合流し護衛を受ける。3日さらわく丸横浜到着し生まれ故郷である三菱重工業横浜造船所にて修理をうける。

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船歴

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ドニャ・パス号」の記事における「船歴」の解説

もともとの船体は、1963年4月25日尾道造船建造され日本琉球海運鹿児島港那覇港東京那覇航路活躍していたひめゆり丸(定員608人)であった。これが1975年フィリピン船会社転売された後、1979年6月5日火災遭い廃棄処分憂き目遭った。しかしフィリピン国内の船不足から改造を施す会社現れ1981年ドニャ・パス号として再起した再起当たっては、船体上部大幅に客室が加わるなど、元の面影が全くなくなるほどの重改造定員増は3倍以上)が加えられていたという。公称では2,640tとされているが、疑問を挟む余地はある。

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うらが (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1980年3月5日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。船名浦賀水道由来する1988年11月9日アメリカ海軍チャールズ・F・アダムズ級ミサイル駆逐艦タワーズ英語版)」が房総半島沖において、訓練区域外であるにもかかわらず射撃試験行い、しかもその砲弾のうち数発が本船近く着弾するという事件が発生した弾着点との距離について、海保側は300500メートル程度報告しているのに対しアメリカ海軍最終報告書では約1900メートルとされたものの、軍法会議により艦長解任され海軍側の最高責任者外務省訪問して外務大臣遺憾の意を表するとともに再発防止約した1997年3月24日には鹿児島海上保安部第十管区)に配属替えとなり、隼人因んで「はやと」と改名した2001年九州南西海域工作船事件の際に派遣され後方指揮担い停船後の強行臨検備え船内特殊警備隊待機させていた。なお平24年補正予算延命・機能向上工事費が認められ2013年から2014年にかけて工事受けたその後尖閣領海警備専従体制構築伴って2014年6月30日には那覇海上保安部配属替えとなり、沖縄雅名因んで「うるま」と改名した

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ノック・ネヴィス」の記事における「船歴」の解説

船はギリシャによる発注住友重機械追浜造船所(現:横須賀製造所)で建造されたものの、ギア設計問題とそれに伴う振動問題受け取り拒絶され発注者造船所との調停後、中国企業売却された。その後未完成船体香港海運王董浩雲の海会社東方海外貨櫃航運公司売却された。日本鋼管製作所船体延長され、その積載量増加し、かつて建造され最大の船となった。船は2年後進水し、シーワイズ・ジャイアント (Seawise Giant) と命名された。これは所有者董浩 (Tung Chao Yung, C. Y. Tung) にあやかって命名されたものであった董浩船の建造資金難となり、結局中国政府による支援受けた就役後中東アメリカ間で運行されたが、まもなく海運不況により遊休化。イラン・イラク戦争間の1986年からイラン用船され、ホルムズ海峡のララク島泊地で輸出原油積み替え貯蔵母船として使用された。1988年5月にララク島泊地でイラク空軍機の攻撃を受け、対艦ミサイルエグゾセ命中し沈没したタンカー戦争)。ブルネイ回航されていた船体1989年後半ノルウェーKS-カンパニーによって購入されシンガポールケッペル造船所修理受けた同時に、ハッピー・ジャイアント (Happy Giant) と改名された。修理完了する前の1991年KS-カンパニーノルウェーのヨルゲン・ヤーレによって管理されることとなり、船は ヤーレ・ヴァイキング (Jahre Viking) と改名された。1990年代末にKS-カンパニーはフレッド・オルセンと彼の会社ファースト・オルセン・タンカーズによって買収された。 2004年3月に、船は新たなオーナーのフレッド・オルセン・プロダクションに移管され、ドバイ乾ドック入った。そこで船名ノック・ネヴィス改名された。ノック・ネヴィスペルシャ湾のカタール・アル・シャヒーン油田海上石油・ガス貯蔵設備として使用された。本船1979年から2009年まで活躍した

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オハイオ (タンカー)」の記事における「船歴」の解説

190番船進水悪天候のために当初の予定から1日遅れ、これは迷信深い溶接工鋼板切断工といった作業員に不安を生んだ。しかし第190番船は彼らに見守られながら、翌日1940年4月20日ペンシルバニア州チェスターのサン・シップビルディング&ドックヤードカンパニーで進水した。第190番船進水は、テキサコ社長ウィリアム・スターリング・サリヴァント・ロジャースの母であるフロレンス・E・ロジャース夫人の手により行われた。彼女によってシャンパンボトル割られ命名言葉告げられた。 本船を<オハイオ>と命名します。本船および本船と共に航海する人々に神のご加護のあらんことを。幸運祈りますオハイオという名前を得た190番船は第2滑走台を滑り降りデラウエア川進水した就役後オハイオ最初数年間、取り立てて何も起こることなくテキサス州ポートアーサーやその他様々なアメリカの港を往復したこの間オハイオニュージャージー州ベイヨンからポート・アーサーへの航海で1,882マイル(3,029km)を4日間と12時間、平均17ノット上で航行する記録立てている。

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POSEIDON-1」の記事における「船歴」の解説

神例造船建造され2015年2月10日進水2015年6月30日竣工竣工後は、海底地質調査中心に運行されており、2017年2月には沖縄県キャンプ・シュワブ沖(辺野古拡張工事)において海底ボーリング調査従事している事が報道された。

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コルス (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

同型船のエステレルとともにデュビジョン造船所建造され1983年6月ニース-コルシカ島航路就航した1990年9月、彼は湾岸戦争一環としてフランス兵サウジアラビア派遣しました2000年代初頭、彼は夏にマルセイユアルジェリアの間で転勤しました2009年の夏から、彼はニースコルシカ島の間に戻りました2014年廃止され2年間使用されません。SNCM破産後、コルシカ・リネアに買収されず、イラン企業売却されるギリシャ改装された後、GRAND FERRY改名され2018年イラン向けて出発しました。しかし、彼は航海しません。

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セーラム・エクスプレス」の記事における「船歴」の解説

フレッド・スカマローニは1964年ラ・セーヌ=シュル=メールFCM造船所建設された。それは1943年亡くなったコルシカ島抵抗英雄であるフレッド・クレール・スカマローニの名前を冠してます。当初1965年就航する予定でしたが、火災によりもう1年間造船所残ります1966年フランス本土コルシカ島を結ぶカンパニー・ジェネラール・トランザトランティーク(CGT路線サービス開始されました。1969年、彼は地中海CGTトラフィックを扱う新しエンティティであるCGTMに異動しました1976年、彼はフランス本土コルシカ島の間のリンクを改善するために設立され新し公的会社であるSNCMに参加しました。より大きくより効率的な船に置き換えられ、彼女は1979年サービスか撤退しました1980年にオラウ・ライン社に最初に販売され1981年会社破産する前に、「ニュイ・サン・ジョルジュ」という名前でフランスイギリスの間のローテーション保証しますエジプト販売された後、サウジアラビアとのリンクに割り当てられ、「ロード・シナイ」、「アル・ターラ」、「セーラム・エクスプレス」の名前が付けられます。彼のキャリアは1991年12月15日の嵐の最中沈んだときに終わりました難破船は現在、30メートル水中ありますそれ以来有名なスキューバダイビングサイトになりました

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行速丸」の記事における「船歴」の解説

元は清上海万延元年(1860年)に竣工した木造外輪汽船アメリカ汽船フィンセン、またはフイセン(Fei Seen)[要出典]。 慶応2年8月(1866年9月頃)に江戸幕府長崎で(ボートウエンから75,000ドルで)購入し行速丸命名された。 明治3年4月(1870年5月)に静岡藩から献納伺い出され同年5月(新暦6月頃)に許可返答があった。清水港にいた行速丸は6月25日(新暦7月23日)品海到着7月5日(新暦8月1日)に兵部省受領、同省の所管となった。『海軍省報告書』では明治3年4月(1870年5月頃)に静岡藩から献上されたとしている。 9月8日(新暦10月2日)、行速丸暴風雨襲われ、錨を4つ入れ機関運転した錨鎖切れて第三台場浅瀬乗り上げた乗員ケガ無かったが、端舟1隻が流失右舷部屋が5箇所破られ室内の品が流失船体一部損傷などの被害があった。引き下ろし作業10月4日(新暦10月28日)から始められ11月30日(1871年1月20日)午後3時50分に成功した。 翌明治4年5月検査では破損腐食箇所があり、約8,000両で修理加えても艦の寿命は後5年程度見積もられた。同年7月22日(1871年9月6日)、東京丸購入費用(60,000円+飛龍丸飛隼丸行速丸の3隻で80,000円相当)の一部としてイギリス人(バッチャル)に交付され

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雪竜」の記事における「船歴」の解説

極地科学調査船「雪竜」は北極海仕様多目的貨物船プロジェクト10621)の一隻として1993年ウクライナヘルソン造船所建造された。同年初代南極観測船極地」の後継船検討していた中華人民共和国により1750ドル購入され上海滬東中華造船極地研究及び補給船へと改装された。 雪竜1994年初め南極へ向け航海し中国第11次南極観測隊運んで以降継続的に南極観測隊輸送従事している。また新たな拠点開設雪竜輸送力活用して行われており、2005年には南極氷床最高点ドームA中国第3南極観測拠点設置するための予備調査用い雪上車運んだほか、2008年にはドームA崑崙基地建設する25南極観測隊資材運搬した。さらに2013年には、中国第4の南極観測拠点である泰山基地中国語版)の建設任務とする第30南極観測隊資材運搬している。 雪竜活動領域には北極圏含まれており、1999年初め調査航海行って以降2014年現在までに6回にわたって観測隊を北極海観測拠点である黄河基地中国語版)へ運んだこのうち2010年第4次北極航海では北緯8826分まで北上し中国船舶としての新記録達成し2012年第5次北極航海では、中国船舶として初め北東航路通過成功している。 2013年12月24日ロシア連邦の耐氷貨物船アカデミック・ショカリスキーが南極海で氷から脱出できなくなり救難信号発した際に、付近航行中雪竜救助向かった翌年1月2日搭載ヘリコプター使用して乗船者52名を救出オーストラリア砕氷船オーロラ・オーストラリス移送した。その直後雪竜流氷囲まれ動けなくなったが、1月7日自力での脱出成功した貨物船改造した雪竜極地での行動能力限界があることから、中国2011年より本格的な砕氷能力を持つ8000トン砕氷船新規建造計画着手雪竜2号2018年9月10日進水した

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開南丸」の記事における「船歴」の解説

1910年明治43年10月 - 漁船第二報效丸(だいにほうこうまる)を購入11月21日 - 東郷平八郎元帥第二報效丸を開南丸改名18馬力補助発動機装備し品川沖で試運転を行う。 11月29日 - 芝浦出港し南極へ向かう。 1912年明治45年1月16日 - 1年以上航海の末、南極ロス海クジラ湾到着白瀬隊率い探検隊1月20日南極点に向け出発し28日午後0時20分に、南緯8005分、西経15637分に到達した6月20日 - 全員無事に芝浦港に帰港した1913年大正2年10月9日 - 東京へ向けて航海中、三重県菅島灯台の3マイル沖で暗礁に乗り上げて沈没乗組員救助された。

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カップ・アルコナ (客船)」の記事における「船歴」の解説

27,500総トンのカップ・アルコナは、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるリューゲン島アルコナ岬から命名され1927年進水した当時、最も美しい船の一つとされていたカップ・アルコナは、ハンブルク・南アメリカライン(Hamburg Südamerikanische Dampfschifffahrts-Gesellschaft, ハンブルク・スッド、2017年マースクラインにより買収)の船団旗艦として、ハンブルク・ブエノスアイレス航路就航し上流階級旅行者やsteerage-class(最下船室)の移民を、主に南アメリカへ運んでいた。 1940年、カップ・アルコナはドイツ海軍接収されバルト海ゴーテンハーフェン岸壁宿泊艦として使用された。1942年ナチス・ドイツ製作の映画タイタニック』において、タイタニック代役として使用された。1944年終わり、カップ・アルコナは東プロイセンからドイツ西部へ避難民輸送使われた。

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ラ・ブルゴーニュ」の記事における「船歴」の解説

1885年10月8日進水し1886年6月19日ル・アーヴルからニューヨークまでの処女航海行った1886年には、「ラ・ブルゴーニュ」はル・アーヴル-ニューヨーク間の航路7日余り航行した。これにより同社ニューヨーク郵便事業首位となり、大西洋横断記録競うきっかけになった1896年2月にはアメリカ海岸沖でアトラス汽船会社蒸気船「アイルサ」 (Ailsa) と衝突し沈没させている。18971898年4段膨張機関装備しマストを2本に減らした

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みらい (海洋地球研究船)」の記事における「船歴」の解説

1995年6月、「むつ」は青森県むつ市関根浜港陸揚げされ原子炉区画撤去し原子力船としての任を解かれた後、認可法人海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)に譲渡された。船体バージ載せ海上輸送され、前部船体は「むつ」の建造造船所である石川島播磨重工業東京第一工場で、後部船体三菱重工業下関造船所で約200億円の費用掛けて改造され1996年7月東京第一工場まで海上輸送され、前部船体結合され8月21日27年ぶりの進水式が行われ、「みらい」と命名された。技術者苦労大変なもので、それぞれの会社社外秘までも互いに公開し合って造り上げた。翌1997年4月より6次にわたる海上試運転が行われた後、9月29日完成しJAMSTEC引き渡された。 2003年から2004年には、JAMSTEC創立30周年記念事業として「BEAGLE2003」(Blue Earth Global Expedition 2003が行われた。これは、南半球緯度域で、大気圏水圏地圏の全領域にわたる多角的な海洋観測行いつつ、約200日で太平洋大西洋インド洋一気横断するという、海洋観測史に残る大規模観測であり、世界研究者驚嘆させた。 2011年3月末、福島第一原子力発電所事故による海洋汚染調べるため福島県沖派遣され海水採取した2015年JAMSTEC国立極地研究所北海道大学などと始めた北極研究推進プロジェクトArCS)に参加し2016年以降海氷大幅に減る夏場北極海調査航海実施している。北極海入り2018年まで16回を数えその他の海域含めて年間250300日程度は航海行っている。 文部科学省本船後継船として砕氷機能有する北極観測船を建造する方針表明2018年度概算要求関連経費3億円が盛り込まれた。2018年度から5年間をかけて設計・建造が行われる予定で、後継船就役後本船引退する方針検討されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:44 UTC 版)

晃和丸」の記事における「船歴」の解説

1941年昭和16年3月米子造船所進水した総トン数383トン小型貨客船である。船主西日本汽船で、日本統治下の朝鮮釜山港船籍置いていた。 太平洋戦争中引き続き西日本汽船によって運航され1943年昭和18年10月11日付で、民間船舶のまま乗員海軍軍属待遇となる海軍指定としての指定受けた戦争末期に「晃和丸」は、済州島朝鮮半島本土木浦港を結ぶ唯一の船便であったが、後述のとおり、1945年昭和20年5月7日アメリカ軍機の空襲撃沈された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 23:28 UTC 版)

やしま (巡視船・初代)」の記事における「船歴」の解説

設計・装備については「みずほ型巡視船 (初代)」を参照 1988年12月1日竣工し横浜海上保安部第三管区)に配属された。その後、「あきつしま」の就役に伴い2013年10月11日には福岡第七管区)に配属替えとなった竣工翌年1989年9月2日から11月11日にかけて、海上保安庁巡視船として初の世界一周航海を行った。これはロンドン催行される国際海事機関IMO創設30周年記念行事参加するためのもので、往路パナマ運河復路スエズ運河経由したイギリスでは、沿岸警備隊王立救命艇協会との合同訓練行ったが、これは英国放送協会BBC)によって全英テレビ放送された。その後テムズ川遡行して「ベルファスト」に横づけ繋留したが、行事会期中にはテムズ川上で日英合同パレード同船搭載警備救難艇ヘリコプター参加したほか、一般公開にも多く市民訪れた

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だいせん (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

2001年10月01日に竣工して、境海上保安部第八管区)に配属された。船名大山由来するその後2008年3月30日には、同管区舞鶴海上保安部配属替えされた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 21:16 UTC 版)

富山丸」の記事における「船歴」の解説

日本郵船中古船多数占めていた貨物船隊の改善のために、1912年明治45年/大正元年)から1913年大正2年)にかけて、イギリスから貨物船を計4隻購入し、その運用実績踏まえて7,500総トン11ノット型の貨物船6隻の建造決める。6隻のうち、「対馬丸」と「高田丸」はラッセル造船所で、「豊橋丸」と「徳山丸」は川崎造船所建造された。そして「豊岡丸」とともに三菱長崎造船所建造されたのが「富山丸」である。6隻は1915年大正4年中に完成して第一次世界大戦真っ只中欧州航路などに就航して、連合国向けの軍需品食糧輸送成果収めた対馬丸富山丸などの第一陣に続いて建造された6隻と合わせ船名頭文字がすべて「T」で始まることから、T型貨物船という通称呼ばれる事となった。T型貨物船成功により他社T型貨物船同型船導入する事となり、日本における貨物船国内建造先駆として特記すべき存在となった。「富山丸」は、1924年大正13年)から1930年昭和5年)まではシアトル航路就航し1933年昭和8年)からはボンベイ航路転じたその頃蘭印方面航路開設していた日本の船会社一つ南洋郵船という会社があった。南洋郵船神戸スラバヤ間の命令航路経営していたが、日本郵船大阪商船などの大会社蘭印方面進出して激し運賃競争展開されていた。しかし、日本郵船大阪商船南洋郵船オランダ船会社ジャワ・チャイナ・ジャパン・ライン(JCJL)の四社間で運賃に関するカルテル締結して競争は一旦は収まった昭和時代入り石原広一郎率い石原産業海運蘭印航路進出して競争は再び激しくなり、一旦は石原産業海運カルテル内に引き入れて競争鎮静化図ったが、石原産業海運独断新造船を建造するなど和を乱す行為カルテルゆるがせ国際問題発展してしまった。そこで、日本政府斡旋により国策会社である南洋海運設立し日本郵船大阪商船南洋郵船および石原産業海運から航路所有船現物出資させて事態沈静化図った。「富山丸」は1935年昭和10年7月3日付で南洋海運出資され蘭印航路就航した。しかし南洋海運に籍を置いた期間は短く1936年昭和11年12月には小野商事売却され日本郵船傭船によりボンベイ航路復帰するその後1943年昭和18年8月には合併に伴い大洋興業移籍した。 「富山丸」は1941年昭和16年9月以降陸軍傭船として行動ラモン上陸作戦皮切りに昭南シンガポール)やラバウルなど南方各地への輸送任務服する軍隊輸送船としては578坪にわたる兵員収容区画軍馬300頭分収容能力持っていた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/22 15:04 UTC 版)

かいよう」の記事における「船歴」の解説

1985年竣工10月 海中作業実験ニューシートピア計画海域試験実施 11月 相模湾にて日航ジャンボ機尾翼調査実施 1987年12月 日仏共同STARMER計画で北フィジー海盆リフト調査においてディープ・トウにより熱水活動発見 1989年3月 ニューシートピア計画フェーズII 200m潜水実験実施 1990年7月 ニューシートピア計画300m最終潜水実験実施 1992年3月 高知県室戸沖にて「滋賀丸」を探索 1993年8月 北海道南西沖地震震源域調査実施 1997年6月 海上気象通報優良船として気象庁長官から表彰を受ける 1999年3-5月 MCSシステム搭載工事実施 1999年5-7月かいれいとともに南海トラフにおいて巨大な海山発見 2000年2-4月 「ハイパードルフィン搭載工事実施 2002年2月ハイパードルフィン」陸揚(「なつしま」に艤装2008年2月 護衛艦「あたご」と漁船清徳丸衝突事故海域調査 2009年6月 深海において平300kmの長距離音響通信成功 2015年12月17日 運用停止

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 15:20 UTC 版)

武洲丸」の記事における「船歴」の解説

武洲丸は、横浜市鶴見区浅野造船所建造され1918年大正7年)に進水した武洲丸同型船として勢洲丸、相洲丸、対洲丸の3隻が同所建造されており、武洲丸型と総称されることもある。竣工時のトン数は1,219総トン船尾機関室船体中央船橋置いた形式小型貨物船である。小型船珍しく吊上げ能力大きなヘビーデリックを装備しているのが特色で、設備不十分な港湾での荷役重量物運搬適した設計だった。本船設計は、後に、東海道本線丹那トンネル用の25m軌条運搬目的として浅野造船所建造した長尺物運搬八幡丸日之出汽船、1,851総トン)型10隻の原型流用されて好評博し小型化された豊国丸型4隻、拡大型の五十鈴丸型2隻、第二靑山丸型(D型平時標準船)47隻、1D型戦時標準船22隻、その他数隻に派生した。これら貨物船まとめて日之出貨物船称された。 武洲丸浦賀株式会社佐藤商店船主となり、初め若葉丸と命名された。同型船3隻が浅野造船所ストックボートとなり、後に同じ浅野財閥系の日之出汽船引き取られたのと経緯異なっている。その後1926年大正15年昭和1年)に若葉丸も日之出汽船取得され翌年までに武洲丸改名した太平洋戦争中武洲丸軍の徴用受けず民需用の商船として運航されたが、開戦半年前の1941年昭和16年5月11日付で、民間商船のまま乗員海軍軍属として扱われる海軍指定船に指定されている。開戦後船舶運営会創設されると、武洲丸も他の全て民需船と同様に国家徴用され、船舶運営会運航実務者選定した山下汽船通じて管理されることになった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 10:06 UTC 版)

インガム (巡視船)」の記事における「船歴」の解説

1934年1月30日アメリカ合衆国財務省によって結ばれた建造契約に基づきインガム1935年5月1日フィラデルフィア海軍造船所起工1936年6月3日姉妹船ウィリアム・J・デュアン(USCGC William J. Duane)とロジャー・B・トーニー(USCGC Taneyと共に進水したインガム同日キャサリン・インガム・ブラッシュ(Katherine Ingham Brush)によって当初船名である「サミュエル・D・インガム」(USCGC Samual D. Ingham)と命名され1936年9月12日就役した。その後インガム1937年5月に「インガム」(USCGC Ingham)に改名されている。

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パスカル・パオリ (フェリー)」の記事における「船歴」の解説

船は2002年オランダ王国建造された。2003年5月からSNCMのためにマルセイユコルシカ島の間で運営2005年9月27日に、船はSNCMの民営化抗議している船員組合乗っ取られが、国家憲兵隊治安介入部隊介入により回復された。船はSNCMの破産後2016年にコルシカ・リネアに転勤した

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マーキュリー (客船)」の記事における「船歴」の解説

1997年、パーペンブルクのマイヤー・ヴェルフトにてセンチュリー級(他にセンチュリーギャラクシー)の3番船として建造された。2008年、セレブリティ・マーキュリーに改名し船籍バハマナッソーからマルタバレッタ変更した2010年当時セレブリティ・クルーズ保有する船の中で最も旧式となっていたセレブリティ・マーキュリーは、セレブリティ・クルーズ親会社ロイヤル・カリビアン・インターナショナルドイツTUI AG合弁企業TUIクルーズ移籍することになった2011年2月をもってセレブリティ・クルーズでの運航終了しロイド・ヴェルフトによってブレーマーハーフェン3月14日から4月20日にかけて改装が行われた。マイン・シフ2と改名され本船2011年5月14日に再就航した

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