第五海洋丸の遭難
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第五海洋丸の遭難(だいごかいようまるのそうなん)は、1952年(昭和27年)9月24日、海底火山の明神礁の調査を行っていた日本の海上保安庁の海洋測量船「第五海洋丸」が消息を絶ち、その後発見された漂流物などから、噴火に巻き込まれて沈没したことが判明した海難事故。地質学者の田山利三郎や河田喜代助を含む、乗組員31名全員が犠牲となった[1]。
注釈
- ^ a b 日下実男は「海上保安庁1」の浮標の発見時刻を午後3時15分、救命浮標の発見時刻を午後4時10分としている。前者は須美寿島の南東7.5マイル、後者は南南西18マイルの地点[17]。
- ^ 捜索打ち切り前日の10月10日午前9時には、遺族の代表を乗せた巡視船「しきね」が明神礁へと向かっている[18]。
- ^ 偶然にもディーツは、フルブライト資金で来日し、本遭難事故で犠牲となった田山利三郎と連携して、日本付近の海底物質を研究する予定でもあった[22]。
- ^ 塚本は「鳥羽港の青峯山正勝寺」と記している[36]。
- ^ 田山利三郎に勲四等旭日小綬章、中宮光俊と河田喜代助に勲五等双光旭日章など[42]。
- ^ 1952年(昭和27年)10月8日、東京教育大学教授会では河田が10年を掛けてほぼ完成させていた論文「北関東台地八溝、鷲ノ子、鶏足山塊における火成活動」の一章が審査を通過し、理学博士号が贈られた[45]。
- ^ 河田夏枝は1977年(昭和52年)ごろから健康を害し、1983年(昭和58年)7月に死去している。また遭難事故当時大学生であった息子は、父と同じ地質専門家の道を進んだ[46]。
- ^ 佐藤静は手記で、当時行われていた泰東丸の遺骨収集の報道に触れ、「そのニュースを聴く度に第五海洋丸の遺骨は?と考えるのは私だけではないようです」とし、明神礁が危険海域であることや技術的に困難なことは承知の上で、それでも「日本人的心情からすれば遺骨がいつまでも水中に漂っていることには堪え難い思いが致します」と記している[46]。
- ^ またこのころ、神戸海洋気象台で運用していた「春風丸」も激しい老朽化により瀬戸内海から出られなかったため、1953年(昭和28年)には本州南方の黒潮観測に空白ができたとされる[51]。
出典
- ^ a b c d 須田 1953, pp. 20–21.
- ^ a b c d e f g 森本 1954, p. 5.
- ^ a b c 増澤譲太郎「第五海洋丸の遭難」『そんぽ予防時報』1993年4月号(日本損害保険協会) - 6-7頁。
- ^ 日下 1975, p. 96.
- ^ a b c d 須田 1953, p. 20.
- ^ a b c d e 半澤正男「田山利三郎博士 ――明神礁で第五海洋丸と運命を共にしたわが国珊瑚礁研究の権威――」『海の気象』1996年12月号(海洋気象学会) - 1-9頁。
- ^ a b c d e 大内 2000, p. 72.
- ^ a b c d e f 日本地学史編纂委員会「日本地学の展開(大正13年〜昭和20年)〈その2〉―「日本地学史」稿抄―」『地学雑誌』110号(2001年、東京地学協会)
- ^ a b c 五十嵐三雄「ありし日の第五海洋丸」『第九管区水路時報』1952年11月号(第九管区海上保安本部)- 2頁。
- ^ a b 森徳治「第五海洋丸沈没の教訓 海洋行政を速に刷新せよ」『経済時代』1952年12月号(経済時代社) - 34-35頁。
- ^ a b c d e f 坪井 1968, p. 368.
- ^ 日下 1975, p. 89.
- ^ 森本 1954, p. 10.
- ^ a b 日下 1975, pp. 96–97.
- ^ 坪井 1968, pp. 368–369.
- ^ a b c d e f g 坪井 1968, p. 369.
- ^ 日下 1975, p. 97.
- ^ a b c d 日下 1975, p. 103.
- ^ 須田 1953, pp. 22–23.
- ^ a b c 坪井 1968, p. 372.
- ^ 坪井 1968, p. 370.
- ^ a b c 坪井 1968, p. 373.
- ^ 坪井 1968, pp. 372–373.
- ^ a b c 塚本 1954, p. 63.
- ^ 日下 1975, pp. 98–99.
- ^ a b 塚本 1954, p. 64.
- ^ 森本 1954, p. 7.
- ^ 森本 1954, p. 8.
- ^ 金子 1987, p. 40.
- ^ 金子 1987, p. 42.
- ^ 須田 1953, pp. 21–22.
- ^ 須田 1953, p. 22.
- ^ 大内 2000, p. 73.
- ^ a b 須田 1953, p. 27.
- ^ 須田 1953, p. 26.
- ^ a b c d e 塚本 1955, p. 195.
- ^ 塚本 1955, pp. 195–196.
- ^ 塚本 1955, p. 195-196.
- ^ 塚本 1955, p. 196.
- ^ 塚本 1955, p. 198.
- ^ a b 『読売新聞』1991年5月4日東京朝刊社会面27頁「明神礁調査船遭難に40年目の異論 「別の火山爆発」 火口丘確認」
- ^ a b 『読売新聞』1953年1月23日東京朝刊7頁「明神礁殉職者に叙勲」
- ^ 『読売新聞』1953年9月24日東京夕刊3頁「明神礁遭難の一周忌」
- ^ 「第五海洋丸三周忌法要」『水路要報』1954年12月号(海上保安庁水路部) - 285頁。
- ^ 『読売新聞』1952年10月10日朝刊3頁「遭難の河田教授へ「博士号」 学会異例の栄誉 未完成論文の一章認めらる」
- ^ a b c d e 佐藤静「第五海洋丸遺族の現況」『水路』1984年9月号(日本水路協会) - 6-7頁。
- ^ a b 松浦律子「1952 明神礁噴火災害」北原糸子、松浦律子、木村玲欧編『日本歴史災害事典』(2012年6月10日、吉川弘文館) - 555頁。
- ^ 『マリンニュースあいかぜ』第184号(2002年9月1日、第九管区海上保安本部・海の相談室)
- ^ 須田 1953, p. 23.
- ^ a b 海上保安庁総務部政務課編『十年史』(1961年、平和の海協会)
- ^ a b 増沢譲太郎『凌風の記 黒潮研究者の回想』(1984年、東海大学出版会) - 105-106頁。
- ^ 中川久「第五海洋丸の教訓を生かして」『水路』1984年9月号(日本水路協会) - 2-5頁。
- ^ 栗原一登「明神礁に消える」『生活を創造する新学校劇』〈教育建設第12号〉(1952年12月、金子書房)
- ^ 大島とおる (2020年9月6日). “東京から南へ420km いまだ蠢く海底火山「明神礁」と、70年前のある測量船の悲劇とは”. URBAN LIFE METRO. 2022年6月9日閲覧。
- ^ “池田遙邨「幻想の明神礁」、船は殉職船?”. インターネットミュージアム (2011年5月26日). 2022年6月9日閲覧。
- ^ a b 『毎日新聞』2017年3月7日朝刊地方版島根27頁「〈コレ推し!〉岡山 関東大震災描く「災禍の跡」 岡山・倉敷市立美術館が所蔵 池田遙邨、転機の異色作 中国」
第五海洋丸
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第五海洋丸(だいごかいようまる)は、太平洋戦争中に大日本帝国海軍が建造した6隻の海洋測量船(200トン型海洋観測船)の一隻で、当初の名称は「第五海洋」だった。1942年(昭和17年)7月に三菱重工業下関造船所で竣工し、姉妹船として「第一海洋」から「第六海洋」までが存在した。 もともと、海軍水路部には特設測量艦「第三十六共同丸」や潜水母艦を改造した測量艦「駒橋」が存在した。これらの任務は海岸測量の作業地への班員輸送、作業地沖合の測深などの作業への従事であったほか、戦時中には敵前測量の敢行と速成海図の艦隊への供給などを行っていた。そのため、測量艦とは別に、文官で運営できる水路部専用の海洋観測船の建造が望まれた。こうした経緯から1937年(昭和12年)に建造の構想が立てられ、翌々年には1隻目となる「第一海洋」が竣工している。 これら6隻は横須賀海軍基地の水路部に所属し、海象観測や気象観測に従事した。戦争末期には特攻艇「震洋」や小型潜水艇「海龍」から成る第一特攻戦隊の司令艇となった。1943年(昭和18年)に第五、第六の2隻は、アリューシャン列島のキスカ島撤退作戦に参加し、往復時に気象・海象観測を行っている。 1944年(昭和19年)に第四、第五を除く4隻は沈没。終戦後、残った2隻は新たに設立された海上保安庁へ移管され、「第四海洋丸」「第五海洋丸」と改称されて、再び水路部(現・海洋情報部)で海洋測量船としての作業に従事した。 重量は200総トン、全長34メートル。400馬力のディーゼルエンジン1基を備え、最高速力は11.5ノットの鋼鉄船だった。
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