追悼と遺族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 01:28 UTC 版)
10月28日、東京都中央区築地の築地本願寺で、第五海洋丸遭難者全員の合同葬が営まれた。31名の遺影を飾った祭壇の左右は、天皇・皇后からのものをはじめ、各方面から贈られた200近い花輪でうずめられた。翌1953年(昭和28年)1月22日には、殉職した31名全員を叙勲したことを内閣府賞勲部が発表している。 遭難から1年を迎える1953年(昭和28年)9月24日には海上保安庁水路部内で一周忌の慰霊祭が、2周年を迎える1954年(昭和29年)9月24日には、水路部構内の第五海洋会館で三周忌法要が営まれ、遺族43名と庁内関係者多数が参列している。 河田喜代助の妻である夏枝は、1955年(昭和30年)に機関誌『五海洋』を創刊して熱心に編集に打ち込み、第21号まで続いた。 本遭難で夫を失った佐藤静は1984年(昭和59年)の手記で、終戦後7年目の当時はまだ日本全体が貧しく、「従って現在のように公務死亡の遺族への補償も十分ではありませんでした。公務員の待遇は非常に悪い時代で, 補償額の算定基礎となる俸給は現在の豊かな生活からは想像もつかぬ程の低額で, 若ければ若い程俸給が少ないのでそれは苛酷なものでありました」「また, 現在のように保育所も整備されてなく, 幼児をかかえた妻としては全くお手上げの状態でした」と記している。 また遭難事故後、水路部構内には「五海洋会館」という名称の和室が設置され、毎年命日には全国から集まった遺族の有志が遺影に焼香し、近況を語り合う場となった。三十三回忌までは、毎年遺族が集まったという。また、海洋情報部の敷地内には、慰霊碑が建立されている。
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