はん‐こう【反攻】
反攻
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「サラトガ (CV-3)」の記事における「反攻」の解説
アメリカ海軍は日本軍との戦いで失った航空隊の補充が追いつかず、空母「ホーネット」が航空隊の訓練のため離脱したものの、「サラトガ」と空母「ワスプ」が戦列に加わった。1942年7月7日、アメリカ軍はソロモン諸島方面で反撃の準備のため、「サラトガ」は真珠湾を出港してフィジーに展開し、8月にガダルカナル島攻防戦が始まった。「サラトガ」の搭載機は第二次ソロモン海戦で日本海軍の空母「龍驤」を撃沈するが、哨戒中またも潜水艦の雷撃を受けた。31日に「伊号第二十六潜水艦」(横田稔艦長)が放った魚雷で行動不能に陥り、重巡洋艦「ミネアポリス」に曳航され、トンガのトンガタプ島へ退避した。9月2日から6日間行われた応急修理の結果、速度10ノットまで復帰に成功し、9月21日に真珠湾に帰港した。 1942年11月10日、「サラトガ」は修理を完了し再び南太平洋に出撃した。フィジーを経由して12月5日にニューカレドニアのヌーメアに到着し、約1ヶ月間小規模な作戦の防空に従事した。ガダルカナル島の戦いで空母が日本軍の攻撃により撃沈、または破損したため、アメリカ軍はギルバート諸島占領を企図して作戦準備中であった上に、エセックス級とインディペンデンス級の配置と1943年5月に真珠湾に帰港し、1943年7月から10月までアメリカ本国でオーバーホールした「エンタープライズ」の11月に復帰までソロモン諸島方面で稼働している正規空母は「サラトガ」1隻となっていた。 1943年10月20日、ブーゲンビル島攻略支援のため「サラトガ」はシャーマン少将の指揮下で軽空母「プリンストン」と第38任務部隊を形成。11月1日にブカ島を空襲して飛行場を叩き、11月5日にはラバウルを空襲して日本海軍の巡洋艦に打撃を与えた(ラバウル攻撃)。太平洋戦争中この一連の連続空襲が「サラトガ」最大の活躍であったが、ラバウルの日本軍を牽制だけで追い出すことはできなかった。 11月19日に「サラトガ」と「プリンストン」はナウルを攻撃し、それから輸送群としてマキン島、タラワ島へ陸上部隊の輸送を行い、11月23日にギルバート諸島攻略の完了に伴い「サラトガ」と「プリンストン」は集結し、タラワの防空に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。その後、11月30日に「サラトガ」は戦列を離れ、1943年12月9日から1944年1月3日にかけてサンフランシスコでオーバーホールを実施した。その際、40mm機関砲など対空火器の増設が行われた。 1944年1月7日、「サラトガ」は真珠湾に到着し、簡単な訓練を行った後、軽空母「ラングレー」、「プリンストン」と共に1月19日に真珠湾を出撃してマーシャル諸島攻略支援に投入された。1月29日から3日間、艦載機がウオッゼ、タロア、エニウェトクの日本軍を空襲し、2月28日まで防空に従事した。 3月4日、「サラトガ」は3隻の駆逐艦に護衛されてマジュロ環礁を出発し、エスピリトゥ・サント島、オーストラリアのホバート、タスマニア、フリーマントルを経由して太平洋からインド洋に転戦した。3月27日、洋上で空母「イラストリアス」、戦艦4隻などからなるイギリス海軍艦隊と合流、31日にセイロン島に到着した。 「サラトガ」は調整の後、4月16日にトリンコマリーを出撃して19日に2隻の空母はスマトラ島北西端の沖にあるサバン島を空襲、主に日本軍の港湾施設と石油備蓄に攻撃を行った(コックピット作戦)。同様の手法で5月17日にジャワ島のスラバヤを空襲した(トランサム作戦)。その後、本国に帰還した。
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反攻
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「反攻」の解説
詳細は「ニューギニアの戦い」を参照 1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。 1943年3月のビスマルク海海戦(いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。 マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『リープフロッギング(蛙飛び)作戦』と呼んでいた。日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。 やがて、戦局が連合軍側に有利になると、軍の指揮権が、マッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されている太平洋戦域の指揮権を、かつての部下のアイゼンハワーが、連合国遠征軍最高司令部総司令官として全指揮権を掌握しているヨーロッパ戦線のようにするべきであると主張した。さらにマッカーサーは、自分がその指揮権を統括して、一本化した戦力によってニューブリテン島攻略を起点とした反攻計画「エルクトロン計画」を提案したが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対し、結局太平洋の連合軍の指揮権の一本化はならず、1943年5月にワシントンで開催された、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「トライデント会議」によって、太平洋は従来通り連合国南西太平洋軍と連合国太平洋軍が2方面で対日反攻作戦を展開していくことが決定された。 反攻ルートについては、バターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、フィリピンの奪還を急ぐマッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきた、リープフロッギング(蛙飛び)作戦によって損害を減らすことができると主張していたのに対して、ニミッツは、従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張し、マッカーサーに対しては、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反論した。 アメリカ統合参謀本部は、双方の主張を取り上げて、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを前進しミンダナオを攻略、一方でニミッツは、ギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリン、エニウェトク、グアム、サイパン、ペリリューへと前進し、両軍はルソン島か台湾で一本になると決められ、8月のケベック会談において作戦案をチャーチルも承諾した。連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、マッカーサーやキングが、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、このような大規模な2方面作戦を行うことが可能となっていた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになるため、自分に戦力を集中すべきと食い下がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。このニミッツの反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいており容易に議論はまとまらなかった。 キングは、マリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線の東翼を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、マリアナが戦争の戦略的な要になると評価しており、その攻略を急ぐべきだと考えていた。アメリカ陸軍でも、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍が、新鋭戦略爆撃機B-29による日本本土空襲の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土から日本本土を空襲するマッターホルン計画が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まったケベック会議で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。 アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。 キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。 その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議では、マッカーサーの代理で会議に出席していたサザランドには、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。 アメリカ統合参謀本部の決定に激怒したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるフォレージャー作戦支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあった。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。しかし、巧みに海岸を見下ろす台地に構築された日本軍の洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした。第41歩兵師団(英語版)師団長ホレース・フラー(英語版)少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことでニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、クルーガーを通じてフラーを急かした。その後もビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、マッカーサーの命令で、早期攻略のため日本軍陣地を正面攻撃していたアメリカ軍に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーに激怒したマッカーサーは、フラーを上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、サイパンの戦いにもマリアナ沖海戦にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため功労勲章(英語版)を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった。
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反攻
「反攻」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(惜しむ) | 反乱 背反 反攻 悖反 反抗 |
名詞およびサ変動詞(従う) | 祗候 服仕 反攻 供 帰従 |
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