はん‐こう【反攻】
反攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:55 UTC 版)
「サラトガ (CV-3)」の記事における「反攻」の解説
アメリカ海軍は日本軍との戦いで失った航空隊の補充が追いつかず、空母「ホーネット」が航空隊の訓練のため離脱したものの、「サラトガ」と空母「ワスプ」が戦列に加わった。1942年7月7日、アメリカ軍はソロモン諸島方面で反撃の準備のため、「サラトガ」は真珠湾を出港してフィジーに展開し、8月にガダルカナル島攻防戦が始まった。「サラトガ」の搭載機は第二次ソロモン海戦で日本海軍の空母「龍驤」を撃沈するが、哨戒中またも潜水艦の雷撃を受けた。31日に「伊号第二十六潜水艦」(横田稔艦長)が放った魚雷で行動不能に陥り、重巡洋艦「ミネアポリス」に曳航され、トンガのトンガタプ島へ退避した。9月2日から6日間行われた応急修理の結果、速度10ノットまで復帰に成功し、9月21日に真珠湾に帰港した。 1942年11月10日、「サラトガ」は修理を完了し再び南太平洋に出撃した。フィジーを経由して12月5日にニューカレドニアのヌーメアに到着し、約1ヶ月間小規模な作戦の防空に従事した。ガダルカナル島の戦いで空母が日本軍の攻撃により撃沈、または破損したため、アメリカ軍はギルバート諸島占領を企図して作戦準備中であった上に、エセックス級とインディペンデンス級の配置と1943年5月に真珠湾に帰港し、1943年7月から10月までアメリカ本国でオーバーホールした「エンタープライズ」の11月に復帰までソロモン諸島方面で稼働している正規空母は「サラトガ」1隻となっていた。 1943年10月20日、ブーゲンビル島攻略支援のため「サラトガ」はシャーマン少将の指揮下で軽空母「プリンストン」と第38任務部隊を形成。11月1日にブカ島を空襲して飛行場を叩き、11月5日にはラバウルを空襲して日本海軍の巡洋艦に打撃を与えた(ラバウル攻撃)。太平洋戦争中この一連の連続空襲が「サラトガ」最大の活躍であったが、ラバウルの日本軍を牽制だけで追い出すことはできなかった。 11月19日に「サラトガ」と「プリンストン」はナウルを攻撃し、それから輸送群としてマキン島、タラワ島へ陸上部隊の輸送を行い、11月23日にギルバート諸島攻略の完了に伴い「サラトガ」と「プリンストン」は集結し、タラワの防空に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。その後、11月30日に「サラトガ」は戦列を離れ、1943年12月9日から1944年1月3日にかけてサンフランシスコでオーバーホールを実施した。その際、40mm機関砲など対空火器の増設が行われた。 1944年1月7日、「サラトガ」は真珠湾に到着し、簡単な訓練を行った後、軽空母「ラングレー」、「プリンストン」と共に1月19日に真珠湾を出撃してマーシャル諸島攻略支援に投入された。1月29日から3日間、艦載機がウオッゼ、タロア、エニウェトクの日本軍を空襲し、2月28日まで防空に従事した。 3月4日、「サラトガ」は3隻の駆逐艦に護衛されてマジュロ環礁を出発し、エスピリトゥ・サント島、オーストラリアのホバート、タスマニア、フリーマントルを経由して太平洋からインド洋に転戦した。3月27日、洋上で空母「イラストリアス」、戦艦4隻などからなるイギリス海軍艦隊と合流、31日にセイロン島に到着した。 「サラトガ」は調整の後、4月16日にトリンコマリーを出撃して19日に2隻の空母はスマトラ島北西端の沖にあるサバン島を空襲、主に日本軍の港湾施設と石油備蓄に攻撃を行った(コックピット作戦)。同様の手法で5月17日にジャワ島のスラバヤを空襲した(トランサム作戦)。その後、本国に帰還した。
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反攻
「反攻」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(惜しむ) | 反乱 背反 反攻 悖反 反抗 |
名詞およびサ変動詞(従う) | 祗候 服仕 反攻 供 帰従 |
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